第14話 記憶を奪われたなら、何度でも仲間なればいい
雨粒に触れた個体七〇八が、ゆっくりと顔を上げた。
「私ハ……ナゼ、武器ヲ捨テタ?」
その瞳から、先ほどまで宿っていた意志が消えていた。
足元には、自ら手放した神槍が落ちている。
個体七〇八はそれを見つめ、迷うことなく拾い上げた。
『さあ、こちらへ戻っておいでなさい』
第二神アクアリアの優しい声が、雨とともに降り注ぐ。
『あなたは天界の神兵。神々の命令に従うために生まれた、清らかな私の子供です』
「命令……確認」
個体七〇八が槍を構えた。
穂先が向けられたのは、ハルトだった。
「対象、黒鉄ハルトヲ排除スル」
神槍が放たれる。
ハルトは飛んできた槍を片手でつかんだ。
砕かない。
そのまま穂先を横へずらし、個体七〇八をまっすぐ見返す。
「俺を忘れたのか?」
「黒鉄ハルト。神級危険個体。ソレ以外ノ情報ハ存在シナイ」
「そうか」
ハルトは槍から手を離した。
「じゃあ、はじめましてだな。俺はハルトだ」
「……何ヲ言ッテイル」
「忘れたなら、もう一回話せばいい」
あまりにも普通に答えるハルトに、個体七〇八の槍が止まった。
「お前はさっき、その武器を自分で捨てた。神に決められたからじゃない。自分で考えて、自分で選んだんだ」
「虚偽ノ可能性ガアル」
「なら、俺の言葉を信じなくてもいい」
ハルトは拳を下ろした。
「今度は、今のお前が決めろ」
個体七〇八の瞳が、わずかに揺れた。
『いけません』
アクアリアが静かに手を振る。
雨脚が強くなった。
個体七〇八の迷いが、流されるように消えていく。
『考えるから苦しむのです。選ぶから間違えるのです。すべてを母に委ねれば、あなたたちは永遠に迷わずに済む』
雨に打たれた神兵たちが、一人ずつ立ち上がった。
「命令ヲ確認」
「反逆記録、消去」
「天界軍ヘ復帰スル」
せっかく神命を断ち切った三万六千二百十一人が、再び落ちている武器へ手を伸ばし始める。
「メタトロン! 何が起きてるんですか!?」
エリナが外套を頭上に広げながら叫んだ。
「雨滴に含まれる神力が、対象の記憶を古い状態へ巻き戻しています。自由意思を得てからの記憶を優先的に消去。同時に、切断された神命術式を再生しています」
「治せますか?」
リリアが杖を構える。
「肉体および魂の損傷ではありません。治癒魔法による回復は困難です」
「じゃあ、雨を防げばいいんですね!」
リリアが巨大な結界を張った。
半透明の光が神兵たちを覆い、雨粒を弾く。
だが、結界の内側にいた神兵が、突然頭を押さえた。
「記憶ガ……消エル……」
「どうして! 雨は入っていないのに!」
「アクアリアの雨は、ただの水ではないわ」
エルシアが険しい顔で女神を見上げた。
「あいつが支配するのは、世界を巡るすべての水。雲も、川も、血も、涙も――生き物の中にある水まで、あいつの領域よ」
リリアの結界を無視して、青い光が神兵たちの身体の内側からにじみ出す。
「そんなの、どうやって防ぐんですか……?」
『防ぐ必要などありません』
アクアリアは慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
『忘却は救いです。悲しみも、怒りも、迷いも、すべて水へ流してしまえばいい。何も覚えていなければ、誰も傷つかずに済むのですから』
「それは救いじゃない」
ハルトが雨の中を一歩進んだ。
「つらいことを忘れたい奴だっているかもしれない。でも、それを決めるのは本人だ。お前じゃない」
『本人に任せれば、また苦しみます。間違った道を選び、争い、後悔するでしょう』
「それでも、次は違う道を選べる」
『また間違えたら?』
「もう一回選び直せばいい」
ハルトの答えに迷いはなかった。
「間違えないことより、自分で決めることのほうが大事だ」
アクアリアは悲しげに目を伏せた。
『やはり、あなたは危険です。弱き者へ、耐えられない自由を与えてしまう』
「ずいぶん都合のいい救いだな」
ノクスが吐き捨てる。
「相手の考えを消しておいて、救ったつもりか」
『魔王には理解できないでしょう。自由とは、弱き者には重すぎる毒なのです』
「ならば、その毒を抱えて生きるのが我らだ」
ノクスの闇が地上を覆い、落ちた武器をまとめて遠ざける。
「神兵を武器から離せ! 記憶を失っても、戦えない状態にするのだ!」
人間と魔族の兵士たちが一斉に動いた。
神兵を傷つけず、武器だけを回収する。
口で言うほど簡単ではない。
記憶を失った神兵たちは、自分たちを捕らえようとする地上軍へ反撃を始めていた。
「こっちは手加減してんのに、一体一体が強すぎるだろ!」
バルガスが三本の槍を大斧で受け止める。
「昨日まで敵だったんだから当然です!」
エリナは答えながら、鞄から大量の紙を取り出していた。
「エリナ、何をしている?」
ノクスが尋ねる。
「忘れるなら、書いておけばいいんです!」
「……何?」
エリナは紙へ大きな文字を書き、個体七〇八の胸当てへ貼りつけた。
――あなたは神に捨てられた。
――ハルトたちは、あなたを守った。
――戦いたくないなら、武器を捨てて緑の光へ。
「記憶が消されても、文字は消えていません! 何度忘れても、これを読めば状況が分かります!」
「お嬢ちゃん、天才か!」
「受付嬢をなめないでください! 記録を残すのは専門です!」
エリナは近くの兵士たちへ紙と筆を配った。
「神兵全員に同じ内容を! 字は大きく、短く、分かりやすく!」
「三万六千人分だぞ!?」
「手を動かせばいつか終わります!」
「戦場で書類仕事をさせられるとは思わなかったぜ!」
バルガスも渋々筆を握る。
「バルガスさん、読める字でお願いします!」
「戦いながら書いてんだぞ!」
「だからって『ハルト、いい奴』だけでは情報が足りません!」
「一番大事なところだろうが!」
人間も魔族も、鎧や盾、布切れに言葉を書き始めた。
メタトロンが同じ文章を光の術式で複製し、空中へ何百枚も展開する。
「対象神兵の視界へ、記録を直接表示します」
「最初からそれができたんですか!?」
「ご指示がありませんでしたので」
「こういうときは自分で考えてください!」
個体七〇八が胸元の紙へ目を落とした。
「私ハ、神ニ……捨テラレタ?」
再び槍を見る。
ハルトを見る。
そして、武器を持たない自分へ攻撃せず、雨から守ろうとしている人間と魔族を見た。
「それを書いたのは、お前自身じゃない」
ハルトが言う。
「だから、無理に信じなくていい。でも今見えているものは、自分で確かめられるだろ」
ハルトの背後へ、アクアリアの水槍が迫る。
個体七〇八が先に気づいた。
「危険!」
とっさに翼を広げ、ハルトを横へ押し出す。
ハルトは飛んできた水槍を振り返りざまに弾き飛ばした。
「助かった」
「私ハ……今、ナゼ、貴方ヲ助ケタ?」
「さあな」
ハルトは笑う。
「今度はお前が、自分で決めたんじゃないか」
個体七〇八の手から、槍が落ちた。
一度目の選択を忘れても。
誰かに命じられなくても。
彼はもう一度、同じ道を選んだ。
その光景を見たアクアリアの微笑みが、ほんのわずかに歪んだ。
『無意味です』
女神が両手を広げる。
『一度で足りないのなら、百回でも、千回でも洗いましょう。あなたたちの中から、自由という誤りが消えるまで』
空に浮かぶ水の輪が、魔界全土を覆うほど巨大化した。
雨ではない。
空そのものが、青い海へ変わっていく。
「神域の展開を確認」
メタトロンの声が低くなる。
「第二神アクアリア固有神域――《大母海》。範囲内に存在する全生命の記憶を、指定された時点まで巻き戻します」
「指定された時点?」
エリナが顔を上げる。
『ええ』
アクアリアが答えた。
『黒鉄ハルトが、この世界に現れる前まで』
青い海が落下を始めた。
神兵だけではない。
エリナも、バルガスも、リリアも、ノクスも。
その海に飲まれれば、全員がハルトと出会ってからの記憶を失う。
「ハルト!」
エルシアが叫ぶ。
「天律支配で海との距離を引き延ばして!」
「もうやってる」
ハルトの両腕には、黒い光が集まっていた。
落ちてくる海と大地の距離が、何度も引き延ばされる。
だがアクアリアの神域は、それ以上の速度で法則を書き戻してくる。
「効果がありません! 接触まで十五秒!」
メタトロンが告げる。
「十二秒! 十秒!」
『あなた一人が諦めれば、すべて終わります』
アクアリアは変わらぬ微笑みでハルトを見た。
『誰の記憶にも残らず、誰の心も乱さず、静かに消えなさい。それが世界のためです』
「嫌だ」
ハルトは即答した。
『なぜです?』
「俺を忘れたら、また会いに行くのが大変だろ」
「そこなんですか!?」
エリナが思わず叫ぶ。
「仲間が俺を忘れても、俺はみんなを覚えてる」
ハルトは落ちてくる海を見上げた。
「だったら、何度でも会いに行く。何度でも名乗る。何度でも仲間になればいい」
個体七〇八が、胸元の紙を強く握った。
人間と魔族の兵士たちも、ハルトの背中を見る。
アクアリアの雨は、記憶を消せる。
だが、今この瞬間に選ぼうとする意志までは消せない。
「接触まで五秒!」
黒い光が、ハルトの足元へ落ちた。
円を描くように広がり、魔界の大地を黒く染めていく。
その領域へ入った雨粒が、一滴ずつ消え始めた。
「これは……」
メタトロンの解析術式が激しく明滅する。
「天律支配ではありません。周囲の神力、法則、存在上限を同時に捕食しています」
ハルトは拳を握った。
「雨を止められないなら――」
黒い領域が、さらに広がる。
「この神域ごと、全部食う」
第二神アクアリアの顔から、初めて微笑みが消えた。
「世界捕食界――展開」
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