第12話 神に背いた120万の兵
神に使い捨てられようとする百二十万の神兵を前に、ハルトは敵として倒すのではなく、仲間として救う道を選ぶ。
折れた神剣の切っ先が、黒い大地へ突き刺さった。
澄んだ音が、やけに遠くまで響く。
その音を最後に、百二十万の軍勢から動きが消えた。
魔界の空を埋め尽くす白銀の翼。地平線の果てまで並んだ神兵たちは、誰一人として声を発さない。ただ、自分たちの先頭に立っていた第一守護神を見下ろしていた。
神々最強の盾、アダマス。
いかなる攻撃も通さず、いかなる敵も一太刀で断つと教えられてきた存在が、砕けた神剣の傍らで片膝をついている。
「まだやるか?」
ハルトが訊いた。
アダマスは立ち上がろうとした。だが、腕に力が入らない。限界を失った神力は、空になった器の内側で弱々しく揺れるばかりだった。
「……なぜ、とどめを刺さない」
「もう戦えない相手を殴るのは、鍛錬にならないからな」
「鍛錬の話なんですか!?」
張り詰めた静寂を、エリナの声が真っ二つにした。
「あれだけ世界の終わりみたいな戦いをしておいて、今日の筋トレと同じ棚に置かないでください!」
「でも、強い相手と戦うと勉強になるぞ」
「学びに貪欲なところだけ切り取れば立派なのが腹立ちますね!」
バルガスが豪快に笑いかけ――途中で、頭上を見て口を閉じた。
笑っていられる状況ではない。
アダマス一柱を退けても、空にはなお百二十万の神兵がいる。その一体一体が、人間の冒険者なら最高位に数えられるほどの力を持つ。
そして、その背後には五柱の神がいる。
『告グ』
空そのものが声を発した。
冷たく、重く、聞く者の魂までひざまずかせようとする声。
第一神ゼノスの声だった。
『地上個体、黒鉄ハルトヲ、神級危険個体ニ認定。討伐優先順位ヲ第一位ヘ変更スル』
神兵たちの瞳に、淡い光がともる。
『全軍ニ命ズル。他ノ任務ヲ破棄シ、対象ヲ消滅セヨ』
百二十万の槍が、一斉にハルトへ向いた。
大気が震えた。翼からこぼれた光だけで、魔界の大地に無数の亀裂が走る。
人間の兵士たちが息をのむ。魔族の戦士たちも、構えた武器を握り直した。
「メタトロン」
魔王ノクスが低く呼ぶ。
「勝率は」
「ハルト様を計算から除外した場合、四・七秒で前衛が崩壊。十二秒で人魔連合軍の八割が戦闘不能になります」
「聞かなければよかった」
「ご要望であれば、もう少し明るい声でもう一度申し上げます」
「内容を変えろ」
「解析結果の改ざんは推奨されません」
「なら黙っていろ」
ノクスが眉間を押さえる横で、リリアは倒れたアダマスへ駆け寄っていた。
「待て、そいつは敵だぞ」
バルガスが呼び止める。
「敵でも、傷ついているなら治します」
リリアは迷わず杖を掲げた。柔らかな緑の光がアダマスを包む。
アダマスは目を見開いた。
「私を……治すのか」
「ハルトさんが助けた命ですから」
「助けたつもりはないぞ」
「今は黙っていてください」
「はい」
素直に引き下がったハルトを見て、エリナが小さくうなずいた。
「リリアには勝てないんですね」
「回復役の言うことは聞けって、昔から教わってる」
「そこだけは冒険者として満点です」
短いやり取りを、空の神兵たちは見ていた。
敵を生かした男。
敵を治す少女。
彼らには理解できない光景だった。
天界では、敗北は欠陥を意味する。欠陥品に次の役目はない。壊れたなら捨て、足りなければ新たに造る。それが神々の定めた秩序だった。
やがて、隊列の奥から声が上がった。
「第一神ゼノス様」
一人の神兵だった。
周囲と同じ鎧を着て、同じ槍を持ち、同じ無表情を刻みつけられた兵士。それでも、槍の穂先だけがわずかに震えていた。
「我々ハ……本当ニ、勝テルノデスカ」
その問いに、周囲の神兵たちが一斉に彼を見た。
命令に疑問を挟む。
天界軍において、それは存在しないはずの行為だった。
長い沈黙のあと、ゼノスは答えた。
『分カル』
問いを発した神兵の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
だが、続いた言葉がそれを凍らせた。
『オ前タチガ全滅スル頃ニハ、対象ノ能力ノ全容ガ分カル。得ラレタ情報ヲ基ニ、我ラ五柱ガ処分スル』
風が止まった。
『神兵ノ損耗ハ考慮シナイ。全軍、突撃セヨ』
神兵たちの恐怖が、確信へ変わった。
自分たちは勝つための軍ではない。
神々がハルトを観察するために投げ捨てる、百二十万個の捨て石なのだ。
「……相変わらずね」
エルシアが吐き捨てた。
かつて神へ反逆した彼女だけが、その声の奥にあるものを知っている。
「あいつらにとって、命は数でしかない。人間も、魔族も、勇者も、魔王も。自分たち以外は全部、世界を動かすための部品よ」
神兵の翼に強制術式が浮かんだ。
金色の輪が首と手足を縛り、彼らの意思とは関係なく身体を前へ押し出していく。
一人が飛べば、全員が続く。
白銀の空が、巨大な雪崩となって落ちてきた。
「総員、防御!」
ノクスの号令が響く。
魔族が障壁を張り、人間の魔法使いたちがその隙間を埋める。バルガスが大斧を肩に担ぎ、エリナを背にかばった。
「お嬢ちゃん、下がってろ!」
「言われなくても――って、ハルトさん!?」
ハルトだけが、武器も持たずに前へ歩き出していた。
「どこへ行くんですか!」
「話してくる」
「今から!?」
「まだ話してないからな」
「百二十万人と話し合う距離じゃないでしょう!」
ハルトは空を見上げたまま、メタトロンへ訊いた。
「あれ、全員倒す必要はあるか?」
「敵軍を無力化するという目的だけを考えれば、それが最も確実です」
「でも、あいつらは自分で来たわけじゃない」
「命令系統に支配されていることは確認できます」
「じゃあ、敵じゃないかもしれない」
「何を考えている、ハルト」
ノクスが嫌な予感に目を細める。
ハルトは振り返り、ごく当たり前のことのように言った。
「全員倒さなくていいなら、仲間にする」
数秒、誰も反応できなかった。
「……百二十万人を?」
エリナが聞き返す。
「多いか?」
「ギルドの登録用紙が足りません!」
「お嬢ちゃん、問題はそこじゃねえ!」
「魔界の食糧も足りんぞ!」
「ノクスさんまで現実的な心配をしないでください!」
騒ぐ三人の横で、エルシアだけがハルトを見つめていた。
「簡単に言うけど、あの子たちには神命が刻まれている。逆らおうとすれば、魂ごと焼かれるわ」
「消せるかもしれない」
ハルトが右手を上げる。
黒い光が、指先に集まった。
天律支配。
世界を成り立たせる法則へ触れ、距離さえ消し去る力。
ハルトの視界に、神兵たちを縛る無数の鎖が映った。それらは空よりさらに高い場所へ伸び、天界の巨大な術式へつながっている。
一本なら断てる。
百本でも、千本でも。
だが、百二十万の魂へ外側から同時に干渉すれば、鎖ごと魂を傷つけかねない。
「……こいつは、俺が勝手に切っちゃ駄目だな」
「珍しく慎重ですね」
「珍しくは余計だ」
「では、どうしますか」
メタトロンの問いに、ハルトは拳を握った。
「向こうから手を放してもらう」
最初の神槍が飛来した。
ハルトは片手でつかみ、へし折った。続く百、千の槍を、砕き、弾き、受け流す。けれど一度も、攻撃した神兵の身体には拳を向けない。
「聞け!」
ハルトの声が戦場を貫いた。
天律支配が、声と空との距離を消す。
大声ではない。それでも百二十万すべての耳に、すぐ隣から語りかけられたように届いた。
「俺たちは、お前たちと戦いたいわけじゃない!」
神兵の波が揺らぐ。
『聞クナ。攻撃ヲ続行セヨ』
ゼノスの命令が神兵を縛る。
「神に従いたいなら、それでもいい。俺は止める」
ハルトは光の奔流を拳で上空へそらした。暗い空の雲が一直線に割れ、その向こうに星々がのぞく。
「でも、死にたくないなら逃げていい。戦いたくないなら、武器を捨てろ」
『神兵ニ意思ハ不要』
「必要かどうかを、お前が決めるな」
初めて、ハルトの声に怒りが混じった。
「命は、持ってる本人のものだ」
先ほど問いを発した神兵の槍が止まった。
その手は激しく震えていた。武器を離そうとする指を、金色の命令環が無理やり閉じさせている。
『個体七〇八。命令違反ヲ確認』
空に巨大な光の杭が生まれた。
狙いはハルトではない。
疑問を口にした、たった一人の神兵だった。
『欠陥ヲ処分スル』
光の杭が落ちる。
ハルトは、その神兵の前へ一瞬で移動した。
振り下ろした拳が、神の処刑を真正面から砕く。光は無数の粒となって散り、魔界の空に白い雨を降らせた。
「ほらな」
ハルトは神兵に背を向けたまま言う。
「お前が命令に逆らったら、神はお前を助けなかった」
砕けた光が、二人の間を流れていく。
「でも、敵の俺は助けた」
神兵の瞳が揺れた。
「どっちに行くかは、自分で決めろ」
『武器ヲ取レ、個体七〇八』
ゼノスの声が低くなる。
『オ前ハ我ラガ造ッタ。我ラノ命令ニ従ウタメニ存在スル』
神兵は自分の槍を見た。
次に、地上で傷ついたアダマスを治すリリアを見た。
最後に、自分を守るため神へ拳を向けた男の背中を見た。
「私ハ……」
閉じていた指が、一本ずつ開いていく。
金色の輪が皮膚へ食い込む。命令の光が強くなる。それでも神兵は、初めて与えられた命令ではなく、自分で選んだ動きを止めなかった。
「私ハ、死ニタクナイ」
槍が、その手を離れた。
ハルトの黒い光が、神兵と天界を結ぶ鎖を断ち切る。
乾いた音を立てて、槍が大地へ落ちた。
百二十万の軍勢の中では、あまりにも小さな音だった。
だが、その音を聞いた者がいた。
一人の神兵が、自分の槍を見つめる。
その隣でも、また一人。
やがて、二本目の槍が落ちた。
三本目。
十本。
百本。
白銀の軍勢のあちこちから、武器がこぼれ始める。
『拾エ』
ゼノスの命令が轟く。
それでも、音は止まらない。
百二十万の神兵が生まれて初めて、自分の手の中にあるものを、自分の意思で手放し始めていた。
それは武器だけではない。
二百年、一度も揺らがなかった神々の支配に、最初の亀裂が入る音だった。
『――予定ヲ再変更スル』
第一神ゼノスの声から、初めて冷静さが消えた。
『反逆ヲ選ンダ全個体ヲ、天界軍ノ敵ト認定スル』
直後、神兵たちの頭上に、味方であるはずの天界から無数の処刑杭が現れた。
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