第2話 世界最強、冒険者登録で手加減に失敗する


終焉竜を倒した翌朝。


俺は、迷宮近くのアルディアへ向かって歩いていた。


勇者パーティーを追放されたことで、俺は十年ぶりに自由になった。


王国からの命令もない。


勇者レグルスの荷物を持つ必要もない。


夜中に起きて、仲間に気づかれないよう魔物を始末する必要もない。


好きな時間に眠り。


好きな道を歩き。


好きなものを食べられる。


「自由というのは、素晴らしいな」


誰もいない街道で、俺は一人つぶやいた。


その直後。


ぐうううううううう。


腹が鳴った。


そういえば、昨日から何も食べていない。


今まで食料は勇者パーティーの荷物袋に入れていた。


その荷物袋は、迷宮に置いてきた。


俺が持っているのは、小さな革袋だけ。


中身は銀貨三枚と銅貨七枚。


「自由というのは、金がかかるんだな」


新たな発見だった。



アルディアは、迷宮へ挑む冒険者たちで栄える町だ。


高い石壁に囲まれ、朝早くから大勢の商人や冒険者が行き交っている。


通りには武器屋、防具屋、道具屋、酒場。


そして何より、焼いた肉の香りが漂っていた。


俺は串焼き屋の前で足を止めた。


大きな肉が三つ刺さった串が、鉄板の上で音を立てている。


「一本いくらだ?」


「銅貨五枚だよ」


俺の所持金は銅貨七枚。


買えば残りは二枚。


宿代は銀貨一枚。


食事を一回すれば、俺の財産はかなり減る。


十年間、勇者パーティーの荷物を運んでいたが、報酬はほとんど受け取っていなかった。


レグルスによれば、


「荷物持ちに報酬が支払われるだけでも感謝すべき」


とのことだった。


そのわずかな報酬も、食料や装備の購入費として徴収されていた。


もっとも、今になって考えると。


魔物の素材を売れば、俺一人で国が買えるくらい稼げていたかもしれない。


倒した魔物は、すべてレグルスたちの功績として処理されていた。


「兄ちゃん、買うのかい?」


店主が尋ねてくる。


「少し考えている」


「串焼きを買うのに、そんな真剣な顔する奴は初めて見たよ」


生きるためには金が必要だ。


そして、俺には金を稼ぐ方法がほとんどない。


魔物を倒すこと以外は。


俺は串焼き屋の向かいにある、大きな建物を見た。


剣と盾を組み合わせた紋章。


冒険者ギルドだ。


「冒険者になるか」


冒険者なら、魔物を倒して金を受け取れる。


俺に向いている仕事だろう。


ただし、一つだけ問題がある。


力を隠さなければならない。


終焉竜を倒したとき、後ろにいたレグルスたちには正体が知られてしまった。


だが、彼らが町へ戻ってくるには数日かかる。


今のうちに、目立たない冒険者として登録しておけばいい。


普通の冒険者。


普通の依頼。


普通の生活。


「悪くない」


俺は冒険者ギルドの扉を開けた。



ギルドの中には、朝から多くの冒険者が集まっていた。


大剣を背負った男。


長い杖を持った魔術師。


獣の耳を持つ斥候。


彼らは掲示板に張られた依頼書を眺めたり、受付に魔物の素材を提出したりしている。


俺が中へ入ると、何人かがこちらを見た。


身につけているのは、簡素な服と革の靴だけ。


剣も杖も防具もない。


冒険者には見えなかったのだろう。


俺は一番空いている受付へ向かった。


受付にいたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。


「ようこそ、冒険者ギルド・アルディア支部へ。本日はどのようなご用件でしょうか?」


「冒険者になりたい」


「新規登録ですね。では、こちらの用紙にご記入ください」


渡された紙には、名前、年齢、職業、使用武器を書く欄があった。


名前、黒鉄ハルト。


年齢、十八。


職業。


俺は少し考えた末、《荷物持ち》と書いた。


使用武器。


「素手でいいか?」


「え?」


受付嬢が顔を上げる。


「使用武器の欄だ」


「剣や槍をお持ちではないんですか?」


「持つと壊れる」


「……壊れる?」


「気にしないでくれ」


受付嬢は困ったような顔をしたが、最終的には《格闘》と書き直してくれた。


「続いて、冒険者証を発行するために魔力と身体能力の測定を行います」


受付の奥から、透明な水晶玉が運ばれてくる。


「こちらに手を触れてください。数値によって初期ランクが決まります」


「壊れないか?」


「ギルドで使用している高品質な測定器です。Aランク冒険者の力にも耐えられますので、ご安心ください」


Aランク。


確か、一般的な冒険者の中ではかなり強い方だったはずだ。


「力を抑えれば大丈夫か」


「はい?」


「いや、何でもない」


俺は水晶玉へ手を置いた。


力を隠す。


普通の新人冒険者に見える程度でいい。


角ウサギを倒せるくらい。


ゴブリン一匹に苦戦するくらい。


昔の自分を思い出せば、力加減も分かるだろう。


十年前。


俺が最初に角ウサギを倒したとき。


確か、全力の半分ほどで殴った。


あのときと同じくらいでいい。


俺は全身の力を限界まで抑えた。


一万分の一。


いや、それでは強すぎる。


百万分の一。


まだ強い。


一億分の一。


「これくらいか」


ほんの少しだけ、力を水晶へ流す。


ピシッ。


小さな音がした。


水晶玉に亀裂が入った。


「……あ」


受付嬢が目を見開く。


次の瞬間。


パァンッ!


水晶玉が粉々に砕け散った。


ギルドの中が静まり返る。


「……」


「……」


俺は受付嬢と顔を見合わせた。


「高品質ではなかったようだな」


「Aランク冒険者の全力にも耐えられる水晶です!」


ギルド中に受付嬢の声が響いた。


冒険者たちが一斉に集まってくる。


「今、水晶が砕けたぞ」


「魔力を流しただけだよな?」


「あいつ、何者だ?」


まずい。


普通の新人冒険者として生きる計画が、開始五分で失敗しかけている。


「古くなっていたんじゃないか?」


俺が尋ねると、受付嬢は勢いよく首を振った。


「昨日交換したばかりです!」


「では、不良品だな」


「ギルド本部から取り寄せた最高級品です!」


逃げ道がなくなった。


受付嬢は、割れた水晶の破片を見つめながら震えている。


「この測定結果は……」


「測定失敗だ」


「いえ。通常、測定上限を超えた場合、水晶は赤く発光します。しかし、砕けるなんて……」


「初めて見たのか?」


「初めてどころか、記録にもありません!」


受付嬢の声を聞き、周囲の冒険者たちがざわめく。


そのとき。


「おい、坊主」


背後から低い声が聞こえた。


振り向くと、筋骨隆々の大男が立っていた。


身長は二メートルを超え、背中には巨大な戦斧を背負っている。


周囲の冒険者たちが道を空けた。


「ギルド所属のBランク冒険者、《剛斧》のバルガスだ」


男は自分の胸を親指で示した。


「水晶に何か細工をしただろう」


「していない」


「新人が測定器を壊せるわけがねえ。魔道具か何かを隠し持ってるんじゃないか?」


「何も持っていない」


両手を広げて見せる。


腰には革袋しかない。


バルガスは俺を頭から足まで眺め、鼻を鳴らした。


「だったら、俺と腕相撲をしろ」


「なぜ?」


「本当に力があるのか確かめてやる」


「断る」


腕相撲をしても金にならない。


今は串焼きを買うために、冒険者登録をしたいだけだ。


「怖いのか?」


「面倒なだけだ」


「逃げるなら、水晶を壊した弁償をしてもらうぞ。あれは金貨五十枚はする」


金貨五十枚。


俺の所持金は銀貨三枚。


銅貨に直しても三百七枚ほどだ。


金貨一枚は銀貨百枚。


つまり、まったく足りない。


「腕相撲をすれば、弁償しなくていいのか?」


「俺に勝てたら、俺が払ってやるよ」


「分かった」


俺たちは近くの木製テーブルへ移動した。


バルガスが右肘をつく。


俺も向かいに座り、右手を握り合わせた。


「言っておくが、俺はオーガを片手で持ち上げる」


「そうか」


「腕を痛めても恨むなよ」


「分かった」


周囲を冒険者たちが囲む。


受付嬢も不安そうにこちらを見ている。


「ルールは単純だ。相手の手の甲をテーブルにつけた方が勝ち」


審判役の冒険者が説明する。


俺は一つ質問した。


「テーブルを壊したら、弁償か?」


「当然だ」


それが最も重要だった。


水晶の金貨五十枚に加え、テーブル代まで請求されたら困る。


慎重にやらなければならない。


「では、始め!」


合図と同時に、バルガスの腕へ力が入った。


太い腕の筋肉が膨れ上がる。


テーブルがわずかにきしむ。


だが、俺の腕は動かなかった。


「ぬっ……!」


バルガスがさらに力を込める。


顔が赤くなる。


額に血管が浮かぶ。


床に置かれた椅子の脚が、少しずつめり込んでいく。


それでも、俺の手は一ミリも動かない。


「どうした?」


「まだ……始まったばかりだ……!」


バルガスが歯を食いしばる。


周囲から声が上がった。


「バルガスが押せてねえぞ」


「嘘だろ。あいつ、Bランクだぞ」


「新人の腕、まったく動いてないじゃないか」


俺は悩んでいた。


どの程度の力で押せば、テーブルを壊さずに済むだろう。


測定器では一億分の一でも強すぎた。


なら、百億分の一。


いや。


腕相撲では力が一点へ集中する。


一兆分の一にしておこう。


「そろそろ押すぞ」


「何を――」


俺はほんの少し、右手へ力を込めた。


バンッ!


バルガスの手の甲がテーブルへ叩きつけられる。


衝撃で、テーブルの脚が床へ沈んだ。


だが、天板は壊れていない。


「よし」


俺は安心した。


今度は手加減に成功した。


しかし。


バルガスは自分の手を見たまま、動かなかった。


「……負けた」


「そうだな」


「この俺が……力で……」


「腕は痛くないか?」


「痛みすらねえ」


バルガスが震えた声で答える。


「一瞬で押さえつけられたのに、手も骨も何ともない。どれほど正確に力を加えれば、こんなことができるんだ……?」


周囲の冒険者たちが黙り込む。


しまった。


テーブルを壊さないことばかり考えていた。


普通の新人は、相手を傷つけずにBランク冒険者を瞬殺できないらしい。


バルガスが立ち上がった。


そして突然、深く頭を下げた。


「疑って悪かった!」


「気にしていない」


「水晶の代金は俺が払う!」


「助かる」


金貨五十枚を払わずに済んだ。


これで串焼きが食べられる。


俺が受付へ戻ろうとした瞬間。


ギルドの扉が勢いよく開いた。


「助けてくれ!」


血まみれの冒険者が、転がるように入ってくる。


左腕には深い傷があり、鎧は大きく砕けていた。


受付嬢がすぐに駆け寄る。


「何がありました?」


「町の北にある《青葉の森》だ! ゴブリン討伐へ向かった新人たちが、森の中でオーガに襲われた!」


ギルド内が騒然とする。


オーガ。


通常なら、Cランク以上の冒険者が複数人で討伐する魔物だ。


新人では勝ち目がない。


「何体ですか?」


「分からない! だが、少なくとも十体以上いる!」


「十体……」


受付嬢の顔が青ざめる。


一体でも危険なオーガが十体。


森の近くには、小さな村もある。


放置すれば、多くの人間が襲われるだろう。


「緊急依頼を発令します!」


受付嬢が鐘を鳴らす。


「Bランク以上の冒険者は、至急討伐隊へ参加してください!」


バルガスが戦斧を背負う。


周囲の冒険者たちも武器を手に取った。


俺は受付嬢へ尋ねる。


「その依頼はいくらだ?」


「オーガ一体につき、銀貨五十枚です」


銀貨五十枚。


串焼きが千本買える。


十体なら、一万本。


「俺も受ける」


受付嬢が目を丸くした。


「ですが、ハルトさんはまだ登録が完了していません」


「腕相撲には勝った」


「冒険者の実力は、腕力だけでは決まりません。魔物との戦闘経験がなければ危険です」


「一応、ある」


「どの程度ですか?」


俺は考えた。


十年間、倒した魔物の数は覚えていない。


終焉竜も倒したが、正直に言えば騒ぎになる。


「角ウサギなら倒したことがある」


「角ウサギ……」


受付嬢が困った表情になる。


初心者が最初に戦う魔物だ。


嘘ではない。


俺が最初に倒した魔物は、確かに角ウサギだった。


その後、何十万体と倒した魔物の話を省略しただけだ。


「悪いが、連れてはいけねえ」


バルガスが真剣な顔で言った。


「腕力は認める。だが、魔物との戦いは別物だ。オーガは人間を騙す程度の知恵もある。素人が来れば、守る手間が増える」


「そうか」


もっともな意見だった。


俺は冒険者ではない。


彼らの命令に逆らって同行するつもりもない。


「では、別の依頼を探す」


俺が掲示板へ向かおうとしたとき。


血まみれの冒険者が、震える声を上げた。


「まだ……話は終わってない」


全員の視線が集まる。


「オーガたちは、何かから逃げていた」


「何か?」


「森の奥から、巨大な魔物が現れたんだ。オーガたちは、そいつに追い立てられていた」


冒険者が喉を鳴らす。


「翼があった」


ギルド内が静まり返る。


「全身を黒い鱗に覆われていた。口から吐いた炎で、森が一瞬で焼けた」


「まさか……」


受付嬢がつぶやく。


「ドラゴン?」


その言葉が発せられた瞬間。


町の外から、大きな爆音が響いた。


ドォォォォォン!


建物全体が揺れる。


窓ガラスが割れ、冒険者たちが床へ倒れる。


外から悲鳴が聞こえ始めた。


俺たちはギルドを飛び出す。


町の北。


石壁の向こうで、黒煙が上がっている。


その上空には、巨大な翼を持つ黒い竜が飛んでいた。


終焉竜ほどではない。


だが、一般の冒険者にとっては十分すぎる災厄だ。


受付嬢が震えながら口を開く。


「黒翼竜……危険度Aランクの魔物です」


黒翼竜が口を開く。


炎が集まり始める。


狙っているのは町の中心部。


放たれれば、この辺り一帯が焼き尽くされる。


「全員、逃げろ!」


バルガスが叫んだ。


「Aランクが到着するまで、俺が時間を稼ぐ!」


戦斧を構え、黒翼竜へ向かおうとする。


だが、足が震えていた。


勝てないと分かっているのだろう。


それでも町の人間を守るため、前へ出ようとしている。


俺はバルガスの肩をつかんだ。


「何をする!」


「俺が行く」


「馬鹿を言うな! お前がどれだけ力持ちでも、ドラゴンには――」


「依頼料はいくらだ?」


受付嬢が呆然と答える。


「黒翼竜なら……金貨百枚です」


金貨百枚。


串焼きが二十万本。


宿にも泊まれる。


新しい服も買える。


当分、金には困らない。


「十分だ」


俺は地面を軽く蹴った。


ドンッ!


石畳がへこむ。


俺の体が空高く飛び上がった。


黒翼竜がこちらを見る。


『人間ガ、空ヘ――』


「悪いな」


竜の目の前で拳を握る。


昨日、終焉竜を倒したことで、俺のレベルは千になった。


しかも、《上限捕食》を得たことで、今まで止まっていた成長が再び始まっている。


この黒翼竜を倒せば、また何かを奪えるかもしれない。


「金も必要なんだ」


拳を振るう。


轟音。


空気が爆発した。


黒翼竜の巨体が空の彼方へ吹き飛び、そのまま光の粒となって消滅する。


町に迫っていた炎も、拳圧だけで吹き飛んだ。


静寂。


地上に降りると、町の人間たちがこちらを見つめていた。


冒険者も。


商人も。


兵士も。


誰も声を出さない。


俺は受付嬢へ向き直る。


「これで冒険者登録はできるか?」


受付嬢の手から、書類が落ちた。


「……できます」


「ランクは?」


「仮登録のFランクからです」


「そうか」


少し安心した。


Fランクなら、最も低いランクだ。


これなら目立たない。


その場にいた全員が、同時に叫んだ。


「目立たないわけがないだろう!」


俺は首をかしげた。


そのとき。


目の前に青白い文字が浮かぶ。


《黒翼竜の討伐を確認》


《対象の固有能力を捕食します》


《固有能力――“飛翔”を獲得》


「飛翔?」


意識した瞬間。


俺の体が、ふわりと地面から浮かび上がった。


周囲から再び悲鳴が上がる。


どうやら俺は。


追放される前より、さらに普通から遠ざかっているらしい。



同じころ。


神喰らいの奈落。


勇者レグルスたちは、地上へ続く通路を歩いていた。


「おかしい」


剣聖ガルドがつぶやく。


「さっきから、魔物が多すぎる」


周囲には、無数のゴブリンとオークが集まっている。


これまで通ってきたときには、一体も姿を見せなかった魔物たちだ。


宮廷魔術師セレナの魔力は、すでに底を尽きかけている。


聖女リリアも、回復魔法を使い続けて顔を青くしていた。


「ハルトさんが……倒してくれていたからです」


リリアの言葉に、レグルスが顔をしかめる。


「黙れ!」


「ですが、事実です」


「奴などいなくても、私たちだけで攻略できる!」


レグルスが聖剣を振るう。


だが、剣はゴブリンの盾に弾かれた。


「なぜだ! 昨日までは簡単に倒せたのに!」


昨日まで戦っていた魔物は。


ハルトによって、あらかじめ瀕死にされていた。


だが、その事実を。


レグルスはまだ認めることができなかった。


通路の奥から、さらに巨大な影が現れる。


オーガ。


一体。


二体。


十体。


二十体。


ガルドが震える声で言った。


「レグルス。荷物袋に、回復薬は残っているか?」


レグルスが背負っていた荷物袋を開く。


中には大量の道具が入っていた。


だが、どれが何に使う物なのか。


誰も知らなかった。


これまで必要な物はすべて、ハルトが取り出して渡していたからだ。


「どれだ……」


レグルスの手が震える。


「回復薬は、どれなんだ……!」


魔物たちが迫ってくる。


その瞬間。


レグルスは初めて理解した。


自分たちが追放したのは。


役立たずの荷物持ちではない。


自分たちを守り続けていた、世界最強の男だったのだ。

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