第2話 世界最強、冒険者登録で手加減に失敗する


終焉竜を倒した翌朝。


俺は、迷宮近くの町(アルディア)へ向かって歩いていた。


勇者パーティーを追放されたことで、俺は十年ぶりに自由になった。


王国からの命令もない。


勇者レグルスの荷物を持つ必要もない。


夜中に起きて、仲間に気づかれないよう魔物を始末する必要もない。


好きな時間に眠り。


好きな道を歩き。


好きなものを食べられる。


「自由というのは、素晴らしいな」


誰もいない街道で、俺は一人つぶやいた。


その直後。


ぐうううううううう。


腹が鳴った。


そういえば、昨日から何も食べていない。


今まで食料は勇者パーティーの荷物袋に入れていた。


その荷物袋は、迷宮に置いてきた。


俺が持っているのは、小さな革袋だけ。


中身は銀貨三枚と銅貨七枚。


「自由というのは、金がかかるんだな」


新たな発見だった。


◇


アルディアは、迷宮へ挑む冒険者たちで栄える町だ。


高い石壁に囲まれ、朝早くから大勢の商人や冒険者が行き交っている。


通りには武器屋、防具屋、道具屋、酒場。


そして何より、焼いた肉の香りが漂っていた。


俺は串焼き屋の前で足を止めた。


大きな肉が三つ刺さった串が、鉄板の上で音を立てている。


「一本いくらだ?」


「銅貨五枚だよ」


俺の所持金は銅貨七枚。


買えば残りは二枚。


宿代は銀貨一枚。


食事を一回すれば、俺の財産はかなり減る。


十年間、勇者パーティーの荷物を運んでいたが、報酬はほとんど受け取っていなかった。


レグルスによれば、


「荷物持ちに報酬が支払われるだけでも感謝すべき」


とのことだった。


そのわずかな報酬も、食料や装備の購入費として徴収されていた。


もっとも、今になって考えると。


魔物の素材を売れば、俺一人で国が買えるくらい稼げていたかもしれない。


倒した魔物は、すべてレグルスたちの功績として処理されていた。


「兄ちゃん、買うのかい?」


店主が尋ねてくる。


「少し考えている」


「串焼きを買うのに、そんな真剣な顔する奴は初めて見たよ」


生きるためには金が必要だ。


そして、俺には金を稼ぐ方法がほとんどない。


魔物を倒すこと以外は。


俺は串焼き屋の向かいにある、大きな建物を見た。


剣と盾を組み合わせた紋章。


冒険者ギルドだ。


「冒険者になるか」


冒険者なら、魔物を倒して金を受け取れる。


俺に向いている仕事だろう。


ただし、一つだけ問題がある。


力を隠さなければならない。


終焉竜を倒したとき、後ろにいたレグルスたちには正体が知られてしまった。


だが、彼らが町へ戻ってくるには数日かかる。


今のうちに、目立たない冒険者として登録しておけばいい。


普通の冒険者。


普通の依頼。


普通の生活。


「悪くない」


俺は冒険者ギルドの扉を開けた。


◇


ギルドの中には、朝から多くの冒険者が集まっていた。


大剣を背負った男。


長い杖を持った魔術師。


獣の耳を持つ斥候。


彼らは掲示板に張られた依頼書を眺めたり、受付に魔物の素材を提出したりしている。


俺が中へ入ると、何人かがこちらを見た。


身につけているのは、簡素な服と革の靴だけ。


剣も杖も防具もない。


冒険者には見えなかったのだろう。


俺は一番空いている受付へ向かった。


受付にいたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。


「ようこそ、冒険者ギルド・アルディア支部へ。本日はどのようなご用件でしょうか?」


「冒険者になりたい」


「新規登録ですね。では、こちらの用紙にご記入ください」


渡された紙には、名前、年齢、職業、使用武器を書く欄があった。


名前、黒鉄ハルト。


年齢、十八。


職業。


俺は少し考えた末、《荷物持ち》と書いた。


使用武器。


「素手でいいか?」


「え?」


受付嬢が顔を上げる。


「使用武器の欄だ」


「剣や槍をお持ちではないんですか?」


「持つと壊れる」


「……壊れる?」


「気にしないでくれ」


受付嬢は困ったような顔をしたが、最終的には《格闘》と書き直してくれた。


「続いて、冒険者証を発行するために魔力と身体能力の測定を行います」


受付の奥から、透明な水晶玉が運ばれてくる。


「こちらに手を触れてください。数値によって初期ランクが決まります」


「壊れないか?」


「ギルドで使用している高品質な測定器です。Aランク冒険者の力にも耐えられますので、ご安心ください」


Aランク。


確か、一般的な冒険者の中ではかなり強い方だったはずだ。


「力を抑えれば大丈夫か」


「はい?」


「いや、何でもない」


俺は水晶玉へ手を置いた。


力を隠す。


普通の新人冒険者に見える程度でいい。


角ウサギを倒せるくらい。


ゴブリン一匹に苦戦するくらい。


昔の自分を思い出せば、力加減も分かるだろう。


十年前。


俺が最初に角ウサギを倒したとき。


確か、全力の半分ほどで殴った。


あのときと同じくらいでいい。


俺は全身の力を限界まで抑えた。


一万分の一。


いや、それでは強すぎる。


百万分の一。


まだ強い。


一億分の一。


「これくらいか」


ほんの少しだけ、力を水晶へ流す。


ピシッ。


小さな音がした。


水晶玉に亀裂が入った。


「……あ」


受付嬢が目を見開く。


次の瞬間。


パァンッ!


水晶玉が粉々に砕け散った。


ギルドの中が静まり返る。


「……」


「……」


俺は受付嬢と顔を見合わせた。


「高品質ではなかったようだな」


「Aランク冒険者の全力にも耐えられる水晶です!」


ギルド中に受付嬢の声が響いた。


冒険者たちが一斉に集まってくる。


「今、水晶が砕けたぞ」


「魔力を流しただけだよな?」


「あいつ、何者だ?」


まずい。


普通の新人冒険者として生きる計画が、開始五分で失敗しかけている。


「古くなっていたんじゃないか?」


俺が尋ねると、受付嬢は勢いよく首を振った。


「昨日交換したばかりです!」


「では、不良品だな」


「ギルド本部から取り寄せた最高級品です!」


逃げ道がなくなった。


受付嬢は、割れた水晶の破片を見つめながら震えている。


「この測定結果は……」


「測定失敗だ」


「いえ。通常、測定上限を超えた場合、水晶は赤く発光します。しかし、砕けるなんて……」


「初めて見たのか?」


「初めてどころか、記録にもありません!」


受付嬢の声を聞き、周囲の冒険者たちがざわめく。


そのとき。


「おい、坊主」


背後から低い声が聞こえた。


振り向くと、筋骨隆々の大男が立っていた。


身長は二メートルを超え、背中には巨大な戦斧を背負っている。


周囲の冒険者たちが道を空けた。


「ギルド所属のBランク冒険者、《剛斧》のバルガスだ」


男は自分の胸を親指で示した。


「水晶に何か細工をしただろう」


「していない」


「新人が測定器を壊せるわけがねえ。魔道具か何かを隠し持ってるんじゃないか?」


「何も持っていない」


両手を広げて見せる。


腰には革袋しかない。


バルガスは俺を頭から足まで眺め、鼻を鳴らした。


「だったら、俺と腕相撲をしろ」


「なぜ?」


「本当に力があるのか確かめてやる」


「断る」


腕相撲をしても金にならない。


今は串焼きを買うために、冒険者登録をしたいだけだ。


「怖いのか?」


「面倒なだけだ」


「逃げるなら、水晶を壊した弁償をしてもらうぞ。あれは金貨五十枚はする」


金貨五十枚。


俺の所持金は銀貨三枚。


銅貨に直しても三百七枚ほどだ。


金貨一枚は銀貨百枚。


つまり、まったく足りない。


「腕相撲をすれば、弁償しなくていいのか?」


「俺に勝てたら、俺が払ってやるよ」


「分かった」


俺たちは近くの木製テーブルへ移動した。


バルガスが右肘をつく。


俺も向かいに座り、右手を握り合わせた。


「言っておくが、俺はオーガを片手で持ち上げる」


「そうか」


「腕を痛めても恨むなよ」


「分かった」


周囲を冒険者たちが囲む。


受付嬢も不安そうにこちらを見ている。


「ルールは単純だ。相手の手の甲をテーブルにつけた方が勝ち」


審判役の冒険者が説明する。


俺は一つ質問した。


「テーブルを壊したら、弁償か?」


「当然だ」


それが最も重要だった。


水晶の金貨五十枚に加え、テーブル代まで請求されたら困る。


慎重にやらなければならない。


「では、始め!」


合図と同時に、バルガスの腕へ力が入った。


太い腕の筋肉が膨れ上がる。


テーブルがわずかにきしむ。


だが、俺の腕は動かなかった。


「ぬっ……!」


バルガスがさらに力を込める。


顔が赤くなる。


額に血管が浮かぶ。


床に置かれた椅子の脚が、少しずつめり込んでいく。


それでも、俺の手は一ミリも動かない。


「どうした?」


「まだ……始まったばかりだ……!」


バルガスが歯を食いしばる。


周囲から声が上がった。


「バルガスが押せてねえぞ」


「嘘だろ。あいつ、Bランクだぞ」


「新人の腕、まったく動いてないじゃないか」


俺は悩んでいた。


どの程度の力で押せば、テーブルを壊さずに済むだろう。


測定器では一億分の一でも強すぎた。


なら、百億分の一。


いや。


腕相撲では力が一点へ集中する。


一兆分の一にしておこう。


「そろそろ押すぞ」


「何を――」


俺はほんの少し、右手へ力を込めた。


バンッ!


バルガスの手の甲がテーブルへ叩きつけられる。


衝撃で、テーブルの脚が床へ沈んだ。


だが、天板は壊れていない。


「よし」


俺は安心した。


今度は手加減に成功した。


しかし。


バルガスは自分の手を見たまま、動かなかった。


「……負けた」


「そうだな」


「この俺が……力で……」


「腕は痛くないか?」


「痛みすらねえ」


バルガスが震えた声で答える。


「一瞬で押さえつけられたのに、手も骨も何ともない。どれほど正確に力を加えれば、こんなことができるんだ……?」


周囲の冒険者たちが黙り込む。


しまった。


テーブルを壊さないことばかり考えていた。


普通の新人は、相手を傷つけずにBランク冒険者を瞬殺できないらしい。


バルガスが立ち上がった。


そして突然、深く頭を下げた。


「疑って悪かった!」


「気にしていない」


「水晶の代金は俺が払う!」


「助かる」


金貨五十枚を払わずに済んだ。


これで串焼きが食べられる。


俺が受付へ戻ろうとした瞬間。


ギルドの扉が勢いよく開いた。


「助けてくれ!」


血まみれの冒険者が、転がるように入ってくる。


左腕には深い傷があり、鎧は大きく砕けていた。


受付嬢がすぐに駆け寄る。


「何がありました?」


「町の北にある《青葉の森》だ! ゴブリン討伐へ向かった新人たちが、森の中でオーガに襲われた!」


ギルド内が騒然とする。


オーガ。


通常なら、Cランク以上の冒険者が複数人で討伐する魔物だ。


新人では勝ち目がない。


「何体ですか?」


「分からない! だが、少なくとも十体以上いる!」


「十体……」


受付嬢の顔が青ざめる。


一体でも危険なオーガが十体。


森の近くには、小さな村もある。


放置すれば、多くの人間が襲われるだろう。


「緊急依頼を発令します!」


受付嬢が鐘を鳴らす。


「Bランク以上の冒険者は、至急討伐隊へ参加してください!」


バルガスが戦斧を背負う。


周囲の冒険者たちも武器を手に取った。


俺は受付嬢へ尋ねる。


「その依頼はいくらだ?」


「オーガ一体につき、銀貨五十枚です」


銀貨五十枚。


串焼きが千本買える。


十体なら、一万本。


「俺も受ける」


受付嬢が目を丸くした。


「ですが、ハルトさんはまだ登録が完了していません」


「腕相撲には勝った」


「冒険者の実力は、腕力だけでは決まりません。魔物との戦闘経験がなければ危険です」


「一応、ある」


「どの程度ですか?」


俺は考えた。


十年間、倒した魔物の数は覚えていない。


終焉竜も倒したが、正直に言えば騒ぎになる。


「角ウサギなら倒したことがある」


「角ウサギ……」


受付嬢が困った表情になる。


初心者が最初に戦う魔物だ。


嘘ではない。


俺が最初に倒した魔物は、確かに角ウサギだった。


その後、何十万体と倒した魔物の話を省略しただけだ。


「悪いが、連れてはいけねえ」


バルガスが真剣な顔で言った。


「腕力は認める。だが、魔物との戦いは別物だ。オーガは人間を騙す程度の知恵もある。素人が来れば、守る手間が増える」


「そうか」


もっともな意見だった。


俺は冒険者ではない。


彼らの命令に逆らって同行するつもりもない。


「では、別の依頼を探す」


俺が掲示板へ向かおうとしたとき。


血まみれの冒険者が、震える声を上げた。


「まだ……話は終わってない」


全員の視線が集まる。


「オーガたちは、何かから逃げていた」


「何か?」


「森の奥から、巨大な魔物が現れたんだ。オーガたちは、そいつに追い立てられていた」


冒険者が喉を鳴らす。


「翼があった」


ギルド内が静まり返る。


「全身を黒い鱗に覆われていた。口から吐いた炎で、森が一瞬で焼けた」


「まさか……」


受付嬢がつぶやく。


「ドラゴン?」


その言葉が発せられた瞬間。


町の外から、大きな爆音が響いた。


ドォォォォォン!


建物全体が揺れる。


窓ガラスが割れ、冒険者たちが床へ倒れる。


外から悲鳴が聞こえ始めた。


俺たちはギルドを飛び出す。


町の北。


石壁の向こうで、黒煙が上がっている。


その上空には、巨大な翼を持つ黒い竜が飛んでいた。


終焉竜ほどではない。


だが、一般の冒険者にとっては十分すぎる災厄だ。


受付嬢が震えながら口を開く。


「黒翼竜……危険度Aランクの魔物です」


黒翼竜が口を開く。


炎が集まり始める。


狙っているのは町の中心部。


放たれれば、この辺り一帯が焼き尽くされる。


「全員、逃げろ!」


バルガスが叫んだ。


「Aランクが到着するまで、俺が時間を稼ぐ!」


戦斧を構え、黒翼竜へ向かおうとする。


だが、足が震えていた。


勝てないと分かっているのだろう。


それでも町の人間を守るため、前へ出ようとしている。


俺はバルガスの肩をつかんだ。


「何をする!」


「俺が行く」


「馬鹿を言うな! お前がどれだけ力持ちでも、ドラゴンには――」


「依頼料はいくらだ?」


受付嬢が呆然と答える。


「黒翼竜なら……金貨百枚です」


金貨百枚。


串焼きが二十万本。


宿にも泊まれる。


新しい服も買える。


当分、金には困らない。


「十分だ」


俺は地面を軽く蹴った。


ドンッ!


石畳がへこむ。


俺の体が空高く飛び上がった。


黒翼竜がこちらを見る。


『人間ガ、空ヘ――』


「悪いな」


竜の目の前で拳を握る。


昨日、終焉竜を倒したことで、俺のレベルは千になった。


しかも、《上限捕食》を得たことで、今まで止まっていた成長が再び始まっている。


この黒翼竜を倒せば、また何かを奪えるかもしれない。


「金も必要なんだ」


拳を振るう。


轟音。


空気が爆発した。


黒翼竜の巨体が空の彼方へ吹き飛び、そのまま光の粒となって消滅する。


町に迫っていた炎も、拳圧だけで吹き飛んだ。


静寂。


地上に降りると、町の人間たちがこちらを見つめていた。


冒険者も。


商人も。


兵士も。


誰も声を出さない。


俺は受付嬢へ向き直る。


「これで冒険者登録はできるか?」


受付嬢の手から、書類が落ちた。


「……できます」


「ランクは?」


「仮登録のFランクからです」


「そうか」


少し安心した。


Fランクなら、最も低いランクだ。


これなら目立たない。


その場にいた全員が、同時に叫んだ。


「目立たないわけがないだろう!」


俺は首をかしげた。


そのとき。


目の前に青白い文字が浮かぶ。


《黒翼竜の討伐を確認》


《対象の固有能力を捕食します》


《固有能力――“飛翔”を獲得》


「飛翔?」


意識した瞬間。


俺の体が、ふわりと地面から浮かび上がった。


周囲から再び悲鳴が上がる。


どうやら俺は。


追放される前より、さらに普通から遠ざかっているらしい。


◇


同じころ。


神喰らいの奈落。


勇者レグルスたちは、地上へ続く通路を歩いていた。


「おかしい」


剣聖ガルドがつぶやく。


「さっきから、魔物が多すぎる」


周囲には、無数のゴブリンとオークが集まっている。


これまで通ってきたときには、一体も姿を見せなかった魔物たちだ。


宮廷魔術師セレナの魔力は、すでに底を尽きかけている。


聖女リリアも、回復魔法を使い続けて顔を青くしていた。


「ハルトさんが……倒してくれていたからです」


リリアの言葉に、レグルスが顔をしかめる。


「黙れ!」


「ですが、事実です」


「奴などいなくても、私たちだけで攻略できる!」


レグルスが聖剣を振るう。


だが、剣はゴブリンの盾に弾かれた。


「なぜだ! 昨日までは簡単に倒せたのに!」


昨日まで戦っていた魔物は。


ハルトによって、あらかじめ瀕死にされていた。


だが、その事実を。


レグルスはまだ認めることができなかった。


通路の奥から、さらに巨大な影が現れる。


オーガ。


一体。


二体。


十体。


二十体。


ガルドが震える声で言った。


「レグルス。荷物袋に、回復薬は残っているか?」


レグルスが背負っていた荷物袋を開く。


中には大量の道具が入っていた。


だが、どれが何に使う物なのか。


誰も知らなかった。


これまで必要な物はすべて、ハルトが取り出して渡していたからだ。


「どれだ……」


レグルスの手が震える。


「回復薬は、どれなんだ……!」


魔物たちが迫ってくる。


その瞬間。


レグルスは初めて理解した。


自分たちが追放したのは。


役立たずの荷物持ちではない。


自分たちを守り続けていた、世界最強の男だったのだ。

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