最後の筆

俐月

最後の筆

 あと少しで、還暦か。男は暦を眺めて、思った。


 筆を置いて数年経つ。作家になるなら四十代が好ましい。何せ書けることは限られているから。


 どこかで聞いたそんな言葉に倣うように、小説家として立てたのは、四十になる直前だった。



 それまでは普通の会社員をしていたし、文章を書くことは好きだったが、世間が一目置く肩書を得られたのは、運によるものも大きかった。



 実際、なってみれば、今までとさほど変わりはない。義務と責任が増え、収入も少し増えたくらいだった。


 それでも恵まれていた方で、数年前まで兼業作家を細々と続けることが出来た。



 まだ書けることは、いくつかあった。

 それでも男は、自分で選んで筆を置いた。



 新しい芽たちが次々と育ち、小説の在り方も少しずつ変わってきた。そろそろ先進は退くべきだ。

 新しい表現たちに気後れしたというのも、半分は嘘だった。



 本当の理由は、誤魔化しきれないものが、ついにそこまで追い付いてきた、逃れられない実感によるものだった。



 男は、過去を振り返る。


 空洞。そう、空洞。あれは、物心からついた時には、当然のようにそこにあった。



 裕福ではなかったが、十分に学べた環境。社会に出てからも同じだった。作家になる前に結婚して、子供も授かれた。今は孫だったいる。


 わけあって妻とは離婚したが、老後に暮らしていけるほどの貯えと、数は少ないが、友人もいる。


 ありきたりと言ってもいい人生で、どこから湧いて出てくるのかわからない物語を綴った。



 それでも、心の奥底に座するその空洞は、消えてなくなることはなかった。


 むしろ……男は諦観の息を、深く吐き出した。


 

 あらゆることを知れば知るほど、経験を積めば積むほど、空洞は深くなっていき、いつしかそれは、底なしになっていた。



 悦びも楽しさも、幸福感も、空洞に吸い込まれていく。どれほど注いでも、埋まり切ることはない。


 そして、男はいつしか悟った。これはどう足掻いても、自分にはどうしようもない。そんなものだ。



 時間が経ち、成熟を重ねれば、いつかは……と、希望を抱いたこともある。


 しかし、歳をとればとるほど、早く流れるはずの時間の流れは、思った以上に遅かった。


 ようやく、ここまできた。あと数日で還暦になる。男は、筆を取り上げた。



「ついに、あれを書く時が来たか」



 書かないでいれれば、一番よかった。そういう生き方をしたかった。

 そうは思うものの、もう、筆をとらざるを得なくなった。


 男は原稿用紙に、筆を走らせる。迷いはない。それは、ひとりの男の話だった。



 ――――――――――――――――――――――




 ’’ああ、世界は私が思うよりも、遥かに鮮やかで、美しい景色だろうに。だのに、どうしてこの眸は、それを見るのを拒むのか。’’



 全てに失望した男は、自らの瞳を刃で裂く。

 視界と光を捨て、また職も捨てた男は、死神が迎えにくるのを待つことにした。


 しかし、やってきたのは、失くした目に映る、金色の光だった。

 男はそこに、真なる世界を見た。



 ずっと人生をかけて望んでいた、世界の姿だった。

 鮮やかで美しく、全てが息吹を持つような、生々しい景色だった。


 それを頭の隅々に刻み込みながら、男は自身の首を刃で掻ききる。

 それこそが、男が自分で選んだ最期の景色だった。



 ――――――――――――――――――――――



 書き終えた男は、久しく満足感を覚えた。


 いつか、遺書の代わりに物語を書こう。なんてロマンチックだ。そう思っていたのだ。



 原稿を読み返す。加筆も推敲も必要ない。

 長年温めてきた熱のみで書いた。不足こそが、この遺書に相応しい。


 用紙を紙袋に入れる。途端、すんっと満足感が消え去った。


 その感覚は、慣れたものだった。

 表現の先に行きつくのは、空洞に吸い込まれ、跡形もなくなった虚無感。



 出来上がってしまったものは、すべて底なし穴に落ちていく。



「最後の感情だ。味わって食べられたか?」



 男は、自らの中にある空洞に訪ねた。勿論、返答はない。


 さぁ、この物語のように、最後の景色を探しにいこう。

 

 死に場所を求める者とは思えない力強さで、男は立ちあがる。



 最初で最後、とびきり感動的で美しい景色を探すんだ。


 そして、今度こそは。


 この空洞に吸い込まれる前に――自分だけの景色として抱えたまま、いくのだ。


 最後の瞬間だけは自分で選び取る。決して明け渡してなるものか。

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最後の筆 俐月 @ri_tsuki

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