第1章 「白雪姫は夢の跡……」
第1章 「白雪姫は夢の跡……」 第1話
百合々咲音楽学院(ゆりがさきおんがくがくいん)は、都心から少し離れた、緑に囲まれた静かな丘の上に佇んでいた。
創立から百年を超えるこの名門女子校は、まるで時が止まったかのような優雅さと、しかし確かな伝統の重みを湛えている。
白い校舎は朝霧に包まれ、午後の陽光に照らされ、夕暮れの茜色に染まるたび、 その姿はまるで一枚の絵画のように美しく、荘厳だった。
演劇の未来を担う若き才能たちが、血と汗と情熱を注ぎ込んで育まれる聖域だった。
歌、芝居、ダンス、そして日本舞踊——あらゆる表現の技を、日々磨き続ける場所。
朝のレッスン室から夜遅くまで、鏡の前で声を出し、身体を動かし、心を削るように表現を磨き続ける少女たちの姿が、そこにはあった。
特に注目されるのが、俳優育成科である。
厳しいオーディションを勝ち抜いた選ばれた少女たちだけが、この科で学ぶことを許される。
彼女たちは朝から夜まで、文字通り「血と汗」を流しながら、 一瞬の輝きを求めて自分自身を磨き続けた。
この学院には、特別な称号があった。
5人の最優秀生徒にのみ与えられる、栄誉の証。
世界を構成する五大元素を冠した称号。
『フラウ・ヴィンド(風の君)』
『フラウ・フォイヤー(火の君)』
『フラウ・ボーデン(地の君)』
『フラウ・ヴァッサー(水の君)』
そして、『フラウ・ヒンメル(空の君)』。
これら五つの称号を持つ者たちは、学院内で「エーデル(気高き君)」と称され、 その名と功績は、卒業後も、未来永劫、百合々咲の歴史に刻まれ語り継がれることになる。
まさに、学院の頂点に立つ者たちだった。
「うへ〜」
俳優育成科2年の飛彩翼(ひいろ つばさ)は、カフェテラスの机に頰をくっつけ、
完全にフニャけた顔をしていた。
まるで、ふわふわの饅頭のように。
「あれ何?」
舞台創造学科2年の赤尾侑樹(あかお ゆき)が、そんな翼を見つめながら首を傾げた。
「SNOW WHITEの余韻が抜けないんだって」
同じく舞台創造学科2年の高瀬光葉(たかせ みつは)が、紅茶を啜りながら笑う。
「翼先輩ってこんなフニャけた顔するんですね」
舞台創造学科1年の鈴本華(すずもと はな)が、
興味津々で翼のほっぺたをつねったり、
軽く引っ張ったりしているが、
翼は変わらずフニャけたままだった。
「こんなのが百合々咲のエーデルなんて、誰も信じないでしょうに」
この飛彩翼こそ、百合々咲の顔たる存在——
エーデルのひとつ、フラウ・ヒンメルの称号を持っていた。
そして去年、クリスマスに開催された学園祭「エンドレスワルツ」にて公演された。
『SNOW WHITE』第1部は、
まさに大成功を収めていた。
まるで、かつて百合々咲に存在していた伝説的存在
第93代エーデル、通称「過ぎ去りし流星たち」の再来と呼ばれるほどと評されるほどの熱狂と称賛を浴びていた。
そのSNOW WHITEの主役、白雪姫を演じたのが、この翼であったが……。
今はただ、 カフェテラスのテーブルに顔を埋め、
幸せそうにフニャけている。
木漏れ日が、彼女の淡い金色の髪を優しく照らしていた。
「翼、いい加減戻ってきて。もう年明けてるんだよ?」
翼と同じテーブルに座るのは、
鎌田二乃(かまた にの)。
彼女もまた、エーデルのひとつ『フラウ・ヴィンド(風の君)』の称号を持つ者であった。
「第2部いつかな〜」
翼が机に頰をくっつけたまま、
フニャけた声で言った。
声に張りがなく、まるで溶けた饅頭のようだ。
「それはまた来年のエンドレスワルツになるんじゃないか?」
八重(やえ)・バートンがお茶菓子を優雅に食べながら、静かに返す。
彼女もまた、エーデルのひとつ『フラウ・フォイヤー(火の君)』の称号を持つ者。
「えー!SNOW WHITEまた1年後!?
って今年私たち3年だから、第3部の時卒業しちゃってるじゃん! また未完成だ〜」
翼が頭を抱え込んで、
テーブルにぐったりと項垂れた。
SNOW WHITEはかつて第3部が上演されず未完成で終わっている。
第3部までの完全上演——
それが真の完成であり、
「過ぎ去りし流星たち」を超える絶対条件だった。
「仕方ないだろ。第3部は後輩に任せるしかない」
張哪吒(ちゃん なたく)が静かに言った。
彼女もまた、エーデルのひとつ『フラウ・ヴァッサー(水の君)』の称号を持つ者。
「えーやだやだやだ!!!!」
翼が本気で鳴き始めた。
まるでお菓子を買ってもらえない幼い子供のようだった。
「……本当にこれエーデル?」
侑樹がぽつりと呟くと、
「多分、違うと思う……」
二乃が困ったように笑いながら答えた。
カフェテリアに、
仲間たちのくすくすという笑い声が広がる。
翼は顔を上げることすらできず、
ただ机に顔を埋めて小さく唸っていた。
木漏れ日が、
そんな彼女の淡い金色の髪を優しく照らしている。
エーデルとして学院の頂点に立ち、
大成功を収めたSNOW WHITE第1部を演じ終えた翼だったが、今はただ第2部、そして卒業までに上演されるかもしれない第3部を、心の底から待ちわびる1人の少女に戻っていた。
「翼さん、心配いらないですわ」
そう声をかけたのは、エーデルのひと『フラウ・ボーデン(地の君)』の称号を持つ香取砂月(かとり さつき)。
砂月が優雅に紅茶を啜りながら、穏やかに続けた。
「理事長も前回のエンドレスワルツの私たちの舞台で、 正式にSNOW WHITEを現行エーデルで行うことを決定されたそうですわ」
「本当!?」
翼がフニャけていた顔を、ぱっと上げた。
目が輝き、頰も一瞬で明るくなる。
「えぇ」
「やった!!!」
翼が思わず両手を挙げて喜ぶ姿に、
周りのテーブルからくすくすと笑い声が漏れた。
そんなところに、息を切らして舞台創造科1年の
東納瑠々(とうのう るる)が走ってきた。
「侑樹先輩〜。あ、エーデルのみなさんこんにちは」
瑠々が五人に向かって丁寧に頭を下げた。
「どうしたの?」
「先生がSNOW WHITE第2部の脚本の会議を、近日中に行うとのことです」
「もうやるの?あの会議私嫌いなんだよね……」
侑樹はため息をついた。
演劇科をまとめるリーダーとして様々な会議に参加しているが、どうにも会議というものが苦手だった。
すると——
「侑樹!」
翼が机をバンと勢いよく叩いた。
「絶対に、面白い最高の第2部の脚本作ってね!!」
翼の目がキラキラと輝き、 全身から「絶対に成功させる」という熱意が溢れ出している。
「う……うん」
侑樹は翼の圧に押され、
思わず背筋を伸ばして頷いた。
翼はまだ机に両手をついたまま、
瞳を輝かせて言った。
「絶対に、みんなで最高の舞台にしようね!」
その声は、木漏れ日の中で、
明るく響いていた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
世界を知る物語である。
第1話 完
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