名前が無い人は、断ることもできませんでした

 北の縁は、遠くから見ても分かった。


 雪の積もり方が違う。一帯だけ、地面が黒く見えている。


 近づくと、足の裏が温かかった。靴越しに伝わる程度だが、確かに温い。


 畑があった。冬なのに土が凍っていない。麦ではなく、根の張る菜が植わっている。


 煙の匂いがした。家は十一軒。それだけだ。


 測量杭は、もう打ってあった。


 白木の杭が、畑を突っ切って一直線に並んでいる。菜の畝を三本またいでいた。


「六日前に来られました」


 あの水汲みの女が、桶を置いて言った。


「丁寧な方々です。怒鳴りもしませんし、勝手に家へ入りもしません」


「金の話はありましたか」


「ありました。一軒あたりの額まで」


 それが一番厄介だった。


 乱暴に奪いに来た相手なら、止め方がある。丁寧に、金額まで示して来た相手を止めるには、こちらが理屈を持っていなければならない。


 測量官は三人いた。責任者は俺より十は年上で、こちらを見ても顔色を変えなかった。


「勇者殿の随行の方ですね。測量の許可書はこちらです」


 差し出された紙を、光輝が先に受け取った。


 彼は端から端まで読んだ。前なら、俺に回して終わりだった。


「測量とあります」


 光輝が言った。


「採取は書いてありません」


「順序ですので」


 測量官は落ち着いていた。


「測ってから、採取の申請を出します」


「では、まだ採れないのですね」


「今日は採れません」


 彼は嘘をつかなかった。嘘をつく必要がないだけだ。申請は通る。通してきた前例が三つある。


「同意はどう取られますか」


 俺が聞くと、彼は帳面を開いた。


「代表の方に、もうお話ししてあります」


「どなたですか」


「東から三軒目の、年長の方です。皆さんが頼りにしておられる」


 六十年前と、四十年前と、二十二年前と、同じだった。


 誰も悪意で選んでいない。話の分かる人へ話しに行っただけだ。それで署名は一つになる。


「その方の署名は、この集落の同意にはなりません」


 俺は言った。


「配分会議で、先週決めました。同意は世帯ごとに取ります」


「承知しています」


 測量官は動じなかった。


「ですが、こちらの台帳には、世帯が載っていません」


 彼は帳面をこちらへ向けた。


 集落の名は載っている。ひと月前に、俺が載せた。


 その下は空白だった。


「世帯が無いのですから、世帯ごとの同意は取れません。取れない以上、代表の署名で進めます。制度どおりです」


 制度どおりだった。


 名前が無い人は、断ることもできない。


 俺は風を出しかけて、やめた。


 濡れた畝を乾かしたところで、何も変わらない。ここで足りないのは風ではなかった。


「今日、載せます」


 俺はリゼッタを見た。


「立会いを頼めますか」


「十一軒でしたら、日暮れまでに」


 聞き取りは思ったより進まなかった。


 名前を書くと言うと、二軒が黙り込んだ。


「台帳に載れば、税が来るね」


 三軒目の男がそう言った。


「来ます」


 俺は認めた。


「徴兵の名簿にも回りますか」


「回ります。載せない理由を、俺が作ることはできません」


「じゃあ、断るために名前を差し出せと」


 その通りだった。言い返せなかった。


 言い返せないまま、俺は別の紙を出した。


「載らない選択も残します。ただし、その場合は土地のほうへ印をつけます」


「土地に」


「この畝からここまでは採らない、という線を引きます。誰の土地かは書きません。断ったのが誰かも書きません。断られた区画だけが残ります」


 測量官が初めて口を挟んだ。


「区画の所有者が分からなければ、補償が払えません」


「補償は要らないと言っています」


 男が言った。


「金より、来られないほうがいい」


 結局、九軒が名前を載せ、二軒が区画の線だけを引いた。


 水汲みの女は、九軒のほうへ入った。


 彼女の名を書くのに、リゼッタは二度聞き返した。字が珍しかったからだ。


「これで、断れますか」


 女が聞いた。


「断れます。今日からです」


「採ると決まったわけでもないのに」


「決まってから渡すと、渡す側が渡す時期を選べます」


 日が落ちてから、測量官が焚火のところへ来た。


 彼は杭の位置を書き直した紙を持っていた。菜の畝をまたいでいた三本が、外へ寄せてあった。


「畝の件は、こちらの落ち度です」


「ありがとうございます」


「勘違いなさらないように」


 彼は火を見たまま言った。


「私は採取に賛成です。三か月で国が保たなくなるのは、あなたも知っている」


「知っています」


「私が変えたのは杭の位置だけです。申請は出します」


「出してください」


 俺は言った。


「出た申請を、十一軒が読める形で回してもらえますか」


 彼はしばらく黙って、それから頷いた。


「読める形、というのは」


「代表一名ではなく、十一軒へ別々に、ということです」


 彼は頷いたが、約束はしなかった。


 焚火の向こうで、足の裏がまだ温かかった。


 この土地は、掘れば国が三か月を越えられるかもしれない。


 越えられるかもしれない土地に、十一軒が住んでいる。


 どちらも本当で、片方を消せば楽になる。


 楽にならないほうを、明日も選ぶことになる。

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