契約書は、勝者より先に嘘をつく
試合は終わっていない。
だが、観客の目はもう闘技場の中央に向いていなかった。ドマ侯爵の席から飛び出した紙が、風に乗って客席を回っている。
「返せ!」
侯爵の使いが叫んだ。
返す理由がない。
光輝は紙を握ったまま、リゼッタを見る。
「これ、正式な契約書?」
「印章があります。ですが、公開されている対戦規定とは別の帳簿です」
「俺の借金が、勝敗で振り分けられている」
「はい」
光輝が俺を見る。
「凪くん、どうする?」
「決めるのはお前だ」
「俺が?」
「契約を読んだ人間が、最後に決める」
光輝は紙を二つに折った。
光が、彼の手の中で強くなる。攻撃の光ではない。紙を焼くための光でもない。
観客席の上に、文字を映すための光だ。
帳簿の数字が、闘技場の壁に浮かび上がった。
装備代。治療石。増幅靴。勝利報酬。敗北加算。
観客がざわめく。
「これは機密です!」
使いが叫んだ。
「どこに機密と書いてある?」
光輝が初めて、契約書を読む側の声で言った。
リゼッタが素早く続ける。
「公開規定にない費用を、出場者へ転嫁する条項は、興行契約の説明義務に抵触します。少なくとも、今この場で請求することはできません」
ドマ侯爵の席から、椅子が倒れる音がした。
俺は風を一つだけ使った。
侯爵の足元に落ちた印章を、闘技場の中央まで運ぶ。
印章には、公開規定と同じ紋章が刻まれていた。
観客は、光輝が帳簿を暴き、俺が印章を運んだと思った。
本当は、全部が少しずつ動いただけだ。
試合の勝敗は、まだ決まっていない。
それでも、胴元の帳簿は、初めて観客の前で負けた。
ギデオンが貴賓席の奥で、静かに笑っていた。
「凪くん」
光輝が小声で言う。
「俺、借金を返したい。けど、勝つだけじゃ返せない」
「なら、読む側に回れ」
「契約を?」
「帳簿を」
光輝は頷いた。
その瞬間、壁に映った金額の一部が消えた。
誰かが、帳簿の原本を書き換えた。
ギデオンの笑顔が消える。
大討伐祭の次の敵は、魔獣ではない。
数字を書き換える人間だ。
俺たちは紙を返さず、闘技場の審判へ正式な確認を求めた。審判は困った顔をしたが、試合中に拾われた書類は記録へ添付する規則があると認めた。規則を知っている者が少ないから、胴元は好きに動けていた。
光輝は剣を構えたまま、観客へ向けて質問した。誰が勝つかではなく、誰が記録を確認したのか。ざわめきが広がり、観客の中から帳簿係の女が手を上げた。
女は、配当表の数字が試合前に二度変わったと証言した。リゼッタは証言をその場で書き、女にも読ませて印をもらう。証拠は強い言葉ではなく、後から同じ内容を確かめられる形で残す。
ギデオンは笑顔を戻したが、席を立った。逃げるのではなく、次の帳簿を先に消しに行くつもりだ。
俺たちは審判室へ入り、配当表の原本を確認した。原本の数字は観客へ配られた写しと違う。写しの方が先に作られたことを示す乾き方の差まで残っていた。
帳簿係の女は、変更を指示した使いの顔を覚えていた。名前は知らないが、左手の手袋に銀色の糸が三本あったという。リゼッタは特徴を記録し、顔を勝手に描かず、見た部分だけを文章にした。
光輝は、試合を延期する権利を求めなかった。延期すれば、帳簿を消す時間を相手へ渡すからだ。代わりに、原本を公開したまま試合を始める条件を作る。
その条件を、審判と帳簿係の両方に読み上げてもらった。
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