剣を鋤に
伯爵は串刺し公ではない。
暴露されたのはアーニャの口から直接だ。
伯爵――事変の首謀者は我こそ串刺し公なりと語っていた。
ヘルシング一派だけでなく多くのロンドン市民が聞いたと証言する。
嘘をついたのは伯爵らしい。
自称串刺し公は五百年前、本物の領地に出入りしていたロマの商人。
“ドラキュラ”こそ本物が人間時代に名乗った異名だが、そこから生まれたドラキュラ伯爵は半ば架空のキャラクターだと。
ただ、 串刺し公が始祖なのは本当。
「本物はね、あたしが殺した」
彼女は串刺し公の城に仕える侍女だった。
妻と同じ名前ではないか。
そう言われてはじめは喜んだ。殿様に気に入られたと。
だけど吸血鬼化の憂き目に遭って。
妻の代わりを命じられて。
捨てられず忍ばせていた銀のロザリオを閨で振り回して。
忌々しい髭面は手応えすらなく消滅した。
自分もいずれこうなるのかと恐ろしくなった。
串刺し公は力だけを信じる男だったという。
全ては殺るか殺られるか。
利害を越えた善も愛もない。
隙を見せれば寝首をかかれる。
底なしの猜疑心を家臣や領民にも向いた。
処刑が絞首や斬首でなく串刺しなのも見た目の恐ろしさのため。
信頼も思慕も忠誠も彼の世界にはない。
恐怖による服従だけが真実だった。
そんな彼は唯一の
どうあがいても浮かび上がれない世界の中で、彼の攻撃性は周りの全てに向いた。
じっとしていては耐えられない、自分の絶望と恐怖を誤魔化そうと。
それが召使いの小娘に裏切られ、あっけなく地獄行き。
親を殺した子供たちは路頭に迷い、文字通り闇に生きることになる。
五百年後、ヘルシングによって白日の下に晒されると殖えることで生き残りを図った。
もちろん、勝手に吸血鬼にされた者たちに仲間意識なんかあるわけもない。
人間社会が切り捨てられないほどの集団になること。
そしてそこに自分たちも紛れ込むこと。
その二つが狙いだった。
結局、上手くやりおおせた者はほとんどいなかったようだ。
伯爵はじめほとんどは討たれて消えた。
よしんば生き残っても紛れ込むのに失敗、コミュニティを追い出され餓死するか狩られるかが関の山。
そんな中で、アーニャは数少ない成功者だった。
家族に見放されたまま“失踪”した哀れな女の身元を乗っ取ったのだ。
だから安心なんてことはない。
当時のヨーロッパでは悪魔派の暴虐が猖獗を極めていた。
日本は無宗教だから大丈夫という言葉に乗せられ、船に紛れ込んで密航した。
騙されたと言っていた。事変後の世界で無宗教の国なんか存在しないと。
それでも、遠田がアーニャに出会えたのはその嘘のおかげだった。
出会いは両親と荒湧市を訪れた時。
金だけはある家だった。
もとはしがないガラス屋だが、事変後の特需に乗って成功した。
悪魔派ではないがアンデスマッチに熱狂するくらいには俗悪な両親。
遠田は彼らを軽蔑しながらも汚い脛を齧っていたい小市民的な若者だった。
そんな遠田がクリプトから逃亡したアーニャを拾ってひそかに連れ帰った。
ジャンヌ・モローを思わせる美女だったから。
美女で童貞を捨てられるなら吸血鬼だって構わない。
下心しかなかったわけだが、彼女の言葉に絆されもした。
「ヨシヤが助けてくれた時、人間って優しいんだって思った。
五百年ぶりにね」
どうすればヤれるか考えているなんて言えるはずがない。
両親に与えられた別邸で彼女とひっそり暮らす。
遠田はそれで十分だった。
それ以上に誰かを救うキャパシティなんて持ち合わせていない。
他の吸血鬼なんかどうでもいい。
その遠田が血迷った決断をしたのも、全てはアーニャのためだ。
ある時、アーニャがこっそり家を出ようとしていた。
見咎めて理由をしつこく聞く遠田に、彼女は折れて話し始めた。
「
あたしのせいなんだよ。助けなきゃいけないんだ」
彼女の来歴を聞いたのもその時だった。
アーニャは五百年を恥じていた。
串刺し公を非難できない生き方を自分たちはしてきたと。
さらった人間を血袋として飼うことも厭わなかった。
言い訳なんかいくらでもできた。
牛や豚と何がちがう。
同じ人間同士でも踏みつけ合っているじゃないか。
こいつらは死んでも天国に行ける。
そうやって五百年、存亡の危機になりふり構わず討って出た。
その結果が今の世界だ。
計画を聞かされた時はなんて見苦しいと呆れた。
自分たちが生きるためなら世界がどうなろうと知ったことじゃない。
アナスタシアは人間側に計画を明かすこともしなかったし、事変後はまさに彼らの思い描いていた通りのやり方で人間側に潜り込んだ。
アーニャはもう耐えられなかった。
いい加減に、しでかしたことから逃げるのはやめたいと。
彼らを同族に堕とした責任を取りたいと。
クリプトは崩壊し、入居していた吸血鬼の多くは政府の施設に移ったが、あぶれた者も多かった。
政府だって、吸血鬼みたいな厄介者を抱えていたくなかったのだ。
脛に傷持つ者は容赦なく切り捨てられた。
現地では若き探偵コンビが彼らを守ろうとしているらしいが、たった二人でできることはたかが知れている。
きっとすでに多くが“失踪”を遂げているだろう。
自分も、あの街で何かしたい。
そのためなら死んだっていい。
死んだっていい。じゃない。
アーニャは死ぬ口実を欲しがっていた。
だから、ひとりで死地へ向かおうとする彼女に俺も付き合うと言った。
惚れた女のために体を張らないなんて男じゃない。
アーニャと出会ってから、その意地が遠田の全てになった。
最初はただ、地下室に集まって暮らすだけだった。
もっと多くを救うためには組織だったネットワークが必要だ。
ハンターの目を逃れられる隠れ家。
吸血鬼が就ける夜間の仕事。
その思いから興した団体がが後の教団となる。
昔は、自分がよければそれでよかった。
少し前は、アーニャがいればそれでよかった。
今は、こいつらを何が何でも守りたい。
こいつらだけじゃない。まだ見ぬこいつらも。
最初はただの互助会のようなもので、宗教色なんか欠片もなかった。
しかし会長が吸血鬼というので攻撃され、ならばいっそと、今で言う逆張り根性で伯爵を旗印にしようと思い立った。
湊ができたのは、申し訳ないが予期せぬことだった。
遠田はすでに初老と言っていい年だったし、そもそも吸血鬼が妊娠するなんてアーニャも知らなかった。
実は何十年も前に判明していたのだが、誰もがネットをするような時代ではなかったから。
産むだけなら吸血鬼は人間の妊婦よりはるかに簡単だ。
股を裂いて胎児を取り出すのも、傷がすぐ塞がるから大した負担じゃない。
問題は産んだ後。
胎児は人間だが、その体は母胎、つまり吸血鬼の体組織でできている。出産は地下で行わねばならなかったし、生まれた子は当然鏡にもカメラにも映らなかった。
粉ミルク、ビタミンはサプリで補う。
地下から一歩も出さずに一年余り。
新陳代謝で徐々に細胞が置き換わり、全身が隈なくカメラに映るようになって、ようやく外へと連れ出した。
はじめて見る世界をキョロキョロ見回し、太陽の眩しさや車の音に泣き出す息子の映像を見てアナスタシアは咽び泣いた。
優しい子に育てよう。この子の生きる世界を守ろうと誓い合った。
息子は強く優しい子に育っていった。
世間からどれだけ偏見に晒されようとも負けない子に。
湊を産んでから、アーニャはまた死ぬことをひどく恐れるようになった。
新陳代謝では置き換わらない組織が人体にはある。
例えば脳だ。
脳の成長は胎児の時点で完成していた部分を基盤に新たな組織が増えていくだけで、他の細胞のように物質的に置き換わらない。
成人の脳の実に三分の一は胎児期に形成されたままなのだ。
だからアーニャが死ねば湊は脳の三分の一を失う。
当然、死は免れない。
ヨシヤが死んでもあたしは死ねない。
ずっとずっと生き続けてあの子の一生を見守るんだ。
あの子も、この世界もあたしが守る。
アーニャは極力地下を出ないようになった。
自分たちだけで建物を守れるよう、ビル管理の資格をほぼ全て取得した。自社の社員まで信用しきれず、まるで串刺し公だと自嘲する。
ここが、この教団が二人にとってのよき世界、二人の全てだった。
だけど息子は、その母を守るために死んでいった。
そして遠田は、息子が守った妻を殺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます