鮎
やこ
本文 3600文字
鮎
1.
これは長野のとある下宿でのこと、ぼくと三平くんは、とてもいい仲だったが、困ったことがあった。それは、ぼくがめっぽうにも鮎が無理だということだ。焼かれていようが、蒸されていようが、ほんとうにダメだったのだ。駄目というのは、食べれないのです。口先のひとつもつけられないから、三平くんは困った様子で、わかったから僕のおじやと交換しなさいと、盆をひょいと入れ替えてしまいました。
なぜ駄目なのかというのは、明確な理由があって、それはぼくの過去の話に遡ることになるのだ。
「そんな昔まで?最初は落語でよく云う『まんじゅうこわい』のようなものだと思っていたよ。」
だなんて三平くんは云うものだ。僕にとって恐ろしかったのは、鮎そのものであってべつにあの落語のように嘲ろうと思ったことなど一度もたりともなくって、圧倒に、冪乗に、考えれば考えるほど恬淡として目を背けた。あの目のこと。
まるで、おまえをしっかりと粉々になってでも仇を讐いるだろうと約束されたみたいだ。なにをそんなに怯えてるんだ。と、三平くんが頭から、がりりと砕いたところで、ぼくは畏れに畏れを成しては、ああ、ああと目を背けた。
両手をわなわなさせておいて、後ろに椅子がもう倒れそうなところまで来ている。それくらい嫌だった。
だって、見るがいいあの目を、どこに行ったってあんな目があることはありゃしないのだ。あれは死の先の通り越した恨みの目のことだ。がっとして、ぐりんとして、ぐわんとしているのだから、ぼくは「あっ」となって思い出すのです。その、遠い昔の確実にあったことを。
2.
これは、ぼくが小学生の倶楽部に参加して河で鮎掴みをしていたことである。どんな倶楽部だったかは覚えていない。そういう集まりがあったということだけが確かに残ってあった。花卉の余り香のようなものだ。追憶のことでした。
鮎掴みというのは、そう、ぼくがここでトラウマを抱えた徹底のところである。いまも鮎の焼き姿にわなわなしているのは、これが原因かと確実に思う。生意気なことを言って申し訳ないが、ぼくにとって魚の中で鮎だけは耐えられないのだ。許せないとか、そういうのではなくて、本当に受動的に、耐えられないのだ。それに、ぼくに責任があるとは思えないのです。ぼくではなく、鮎でもない。ここに、性悪説は持っていけなかったのです。
鮎掴みは、まず足を水に浸からせると、疲れ切った肌が潤っている。水に、なってしまいそうだった。その中に、こつりこつりと当たる何かがぼくに八つ当たりしている。こいつらは、なんだろうか、と、揺らめく水面を眺めているとしばらくして目が慣れてきて、彼らが見えてくるのでした。ぷかぷかと息をしていたのは、水草をつむぐ鮎の群れでありました。
ぼくたち人間と、鮎のこの圧倒的な力の差よ。どう足掻いてもかれらはかれらで、ぼくらはぼくらであったこの命運に、すごい悲劇を感じる。わたしは大人から、この鮎たちのひとつを汲み取って、掴んだら、殺しなさいと食育をすすめられた。
そう、鮎を目の前にしてトラウマになってしまったのだ。ごめんなさい、ごめんなさいと一度と殴打した、いま、苔が蒸しついた岩の艶の鱗片に、鱗と血が鰓から出てきたところのが付いて、そう、へばりついた。ぼくは大人の優しい受け入れに、今思えば倶楽部としての圧に、逆らえなかった。嗚呼、この鮎はもうすぐもっと下流か上流かわからないが、遠くへ行って天寿の景色を眺めるところで子孫を残せた可能性だってあった。それに、こいつらはそのために生きてきた。人間より、短い、かつ濃い自然の中にいたのだ。それをぼくは圧に負けて汲み取って、一心に、どかりと殴りつけてしまったのだ。この命の一部と、人間の命と、どこに代わりがあんのかだなんて、ぼくには到底わからなかったんだ。
本当に、ごめんなさい。
一発、そういって殴った。殴打したら、へにゃりとしたかと思えば、まだピチピチと動き出してしまった。まだ、生き生きしているのだ。これは、なんとも痛かっただろう、さぞ、想像に耐えない。苦しかったはずだ。今の一撃は。
これとは別に、僕は毎度と思い出す。もっと小さい頃に、あった示しとしては蝉の一例であった。ほんとうに死んだ蝉は一節いちふしと、しっかり足手を折り畳んでいるようです。それを知っていたぼくは、折り畳んでいない蝉を見たことがあった。しかし彼は、そこの目の前にぱたりと落ちていて、まるで塵のひとつかのようにあった。これは、まだ生きている証拠だ。どうにも休んでいるのか、瀕死だったのかわからないものであった。
暑さで茹っていた頭だったのか、僕と三平くんは笑い合って、何かを談笑してた記憶に思える。
ぼくは、それを踏み潰した。
「ぐりん。」という音が鳴って死んだ。
最低だ。最低なんだ。ぼくは。
これまで生きていく中で、幾多の命を殺しただろうか。それも、生命維持ならまだしも、単なる娯楽として行ったものだから、身震いがこの上ないほど込み上げているものだ。
僕は思うに罪人だと思う。原罪とはよく云うが、それとは違う。この身を世界に落とした後の、後天的な、めっぽうな罪である。僕は、あの後どうしただろう。少し黙ってから、談笑を進めたまま、帰っただろうか。いや、それだけではなかった。
靴の裏を洗っていた気がする。気持ち悪かったんだと。あの頃の君に僕は話したい。ひとの罪過は、まとわりつく霧のようなものだ。君が得たのはただの後悔であって、それ以上の愉しさなど、全くありはしないのだ。これは、呼吸することと同じことだ。
3.
僕は2匹目の鮎を箸でつかめずにいたまま、三平に話しかける。鮎は2匹あったのだ。
「なぁ、命の意味ってなんだろうね」
三平は、顎に手を当てて、野球部の剃った綺麗な丸頭を光らせた。僕はマネージャーだった故に、前分けのショートであったが、男同士の仲ではありました。
「ただ、そこにあるだけやないかな。俺にとっては、何も気にしてなかったよ。」
「そうか、そうだよな。人間から申し訳ないと思うのもエゴの一つだったもんな。」
「あんた、変なこと言うもんだね。俺はそこは悪く思っちゃないけど」
きっと、考えたんだ。僕たちが維持をし続けるのは、単なる崩壊に向かっているだけなんだって。増大した発生が、いつか崩れるその時まで、僕らは進み続けるだけなんだということ。
この下宿は、断崖絶壁に建てられたものであって、窓に向かっていると川が下に見られる。食堂、せりのところに座って腰を落としたままに、僕らは川を眺めていた。もう、他のグループは部屋に戻ったり風呂に行ったりして、ここには残っていなかった。僕を眺めていたのは三平だけだった。彼は、僕が鮎を食べ終わるのをしきり待っていた。
「食いや、しないのか?」
「ちょっと、待っててくれ。」
その川の音は、僕らを包んで放さない。赤い薄色のカーペットは柔らかく、足裏をくすぐる感触に、やけに沈んでいきそうだ。
「僕は、昔きみと帰り道、蝉を踏み潰したことを覚えているかい?」
「なんだ…そんなこと覚えとらんよ。」
三平は既に、冷め切った僕の鮎を皿を持って自らの近くに持っていき、腹を箸先で分けているところだった。
「そんな嫌ならおれが食っちまうからね。一口しかつけてないじゃないか。キスでもしたもんかい。」
風にたゆる柳を、僕は眺めて、その奥に苔がむした断壁には、複数の摩崖仏がいるようだ。僕は健全な暮らしをしていると思っているが、とっくのとうに罪人なのだ。それを、償う方法として、僕は鮎を食べれるようにならないといけないのだ。
「ごめん、やっぱり俺が食うよ」
「…そうか?」
三平は、このぐだっているくだりに、呆れることもなく、これは友達の決意の時なのだと決して嗤いはしなかった。
皿は、僕の方に戻された。威勢だけは、皿まで食らわんとするいきおいであったのだ。
4.
僕は、この正面から見た顔に慄きながらも、ゆっくりと口を運ぶ。これでさえ、何でさえ、一つの命で、痛みがあったのだ。齧ると、痛みだって噛み砕くものだ。僕の一部になったんだ。まるで、この眼下にある川のひとつになってしまったかのように、僕は今までの自分を裏切ったような。
寒気が止まらなかった。寡黙だった僕だが、こんな弱点があったんだ。策略を立てるのが策士と言われた僕だったが、こんな弱点があったんだ。家族と円満で、何一つ音楽好きの英才な僕でも、こんな弱点があったんだ。それは、食べず嫌いという、くだらない欠点だったんだ。
「いいから、涙ふけよ。とうに木漏れ日が差しとるぞ」
三平は、手から投げ落とすように、そこにあった紙の一枚をはらりと差し出した。僕は、この焼き魚に「さよなら」を感じた。
夏は恐ろしく迫る。テーマは逃亡である。夜祭りでもいい。向日葵畑でもいい。だが、今の自分はエアコンの効いた広部屋の一角で、過去に裏切りを持ち、立ち向かった。
これは、単なる下宿の話だった。
鮎 やこ @kuzuingen194
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます