第22話 退廃の才女と、不純な衣装合わせ

 翌日の昼休み。


 僕は約束どおり、借りていた文庫本を片手に第二校舎の空き教室へと向かっていた。

 ……はずだった。


「どこへ行くの? なつめくん」


 背後から、静かでひんやりとした声が鼓膜を震わせる。

 振り返ると、そこには白銀の髪を美しく揺らした椎名小春さんが、いつもの無表情のまま佇んでいた。


「あ、椎名さん。今から空き教室に行こうと思って」


「違う。そっちは空き教室じゃない。美術室がある方向」


「え?」


 椎名さんの指摘に周囲を見回し、僕は自分が第二校舎のさらに奥、つまり浅利先輩の『絶対的な領地』の前に立っていることに気づいて凍りついた。

 三郷たちからの放課後の事情聴取、そして天音さんや椎名さんからの包囲網。

 度重なる精神的重圧のせいで、僕の方向感覚は完全に狂ってしまっていたらしい。


「間違えたみたいだ。急いで戻ろう――」


 僕が踵を返そうとした、まさにその瞬間だった。


 ガタァン!


 目の前にある美術室の分厚い扉が、昨日とまったく同じ大爆音を立てて、内側から蹴破るように開いた。

 カーテンの閉め切られた真っ暗な闇の奥から、白磁のような細い手がずるりと這い出てくる。


「ヒッ!?」


 もはや条件反射となった情けない悲鳴が、僕の喉から飛び出した。

 逃げる間もなく、床を這う白い手が、僕のローファーを履いた足首をガシリと掴む。


「見つけた。私の伴侶」


「うわぁぁぁぁぁっ!? またこのパターンですか!?」


 驚異的な力で引っ張られ、僕は資料と文庫本を抱えたまま、真っ暗な美術室の深淵へとあっさり引きずり込まれた。


 バタン!


 背後で扉が閉まり、完全な密室の暗闇が訪れる。

 気がつけば、僕はまたしても床へ押し倒され、その上には長い黒髪を無造作に垂らした浅利先輩が、完全なマウンティングポジションで馬乗りになっていた。


「せ、先輩! 今日は先生のパシリじゃないです! 離してください!」


「嫌。あなたが、私の完成。私の衣装を、着て」


「衣装!?」


 暗闇に目が慣れてくると、美術室のあちこちに、絵の具にまみれた奇妙な形のドレスや、中世の貴族が着るような大仰な服が、マネキンに着せられて並んでいるのが見えた。


「生徒会の人から聞いた。文化祭。私に、コスプレをしてステージに出ろと。条件は、あなたが私の隣に立つこと。だから……これ」


 浅利先輩は生気のない瞳の奥にどろりとした熱を宿しながら、僕の目の前へ、一枚の真っ黒な布地を突き出してきた。

 それは、どう見ても悪魔か吸血鬼が着るような、怪しげな漆黒のマントだった。


「あなたが、闇の王。私が、その生贄。そういう絵を、みんなの前で完成させる」


「それ、ただの先輩の趣味ですよね!? 文化祭の出し物として不健全すぎます!」


「不健全じゃない。芸術。さあ、今すぐ服を脱いで、これを着て」


「脱ぎません! 誰か助けて!」


 僕が必死に叫んだその時、美術室の扉が勢いよく開け放たれた。

 差し込んできたまばゆい光の中に立っていたのは――。


「……なつめくんから、離れてください」


 白銀の髪を逆立てるようにして、青い瞳に静かな怒りの炎を灯した椎名さんだった。

 彼女は胸元に抱えた文庫本を武器のように構え、美術室の中へと迷いなく踏み込んできた。


「椎名さん!?」


「浅利先輩、不純です。なつめくんは、私の小説の主人公。悪魔の衣装なんて、似合わない。着るなら、白い騎士の服」


「違う。彼は私の伴侶。闇に染まるのが正しい」


 浅利先輩は僕の上に跨ったまま、無表情で椎名さんを睨みつける。

 美術室の空気は一瞬にして、氷点下へと叩き落とされた。


「……日和先輩! またお昼休みに何やってるんですか!?」


 さらに背後から、予算要望書を抱えた生徒会の穂状紗理奈さんが、「またですか!」と頭を抱えながら割って入ってきた。

 穂状さんは手際よく浅利先輩を僕から引き剥がし、部屋の隅へと隔離する。


「影久くん、大丈夫!? 本当にこの先輩、目を離すとすぐこれなんだから!」


「た、助かったよ、穂状さん……。本当に心臓が止まるかと思った」


 僕は床にへたり込んだまま、乱れた制服の胸元を整えて大きく息を吐き出した。

 すると、隔離されていたはずの浅利先輩が、じっと僕を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「伴侶が着てくれないなら、私は、文化祭に出ない。書類も、二度と出さない」


「ちょっと先輩! それは生徒会として困ります!」


 穂状さんが慌ててツッコミを入れるが、浅利先輩の目は本気だった。

 彼女の説得を成功させなければ、生徒会での僕のコスプレ参加も免除されない。つまり、ここで僕が先輩を説得するしかないのだ。


 僕は意を決して、キャンバスの裏から覗く浅利先輩の前に歩み寄った。


「浅利先輩」


「……何?」


「悪魔の衣装は困りますけど……もし、もう少し普通の、綺麗な衣装だったら、僕も一緒にステージに立ちます。だから、文化祭に出てください」


 僕が真っ直ぐにそう告げると、浅利先輩の虚ろだった瞳が、またたく間に光を取り戻していった。


「本当……? 私と、お揃い?」


「お揃いというか、文化祭の企画としてなら……はい」


「分かった。じゃあ、天使と、その守護者。綺麗な衣装、私が徹夜で作る」


「徹夜はしないでください!」


 思わずツッコミを入れてしまったが、どうにか浅利先輩の説得には成功したらしい。

 心底嬉しそうに微笑む先輩を見て、僕は少しだけ胸を撫で下ろした。


「ずるい。なつめくん、私の騎士の衣装はどうするの?」


 今度は、隣にいた椎名さんが僕の制服の裾をぎゅっと握り締めてきた。

 その青い瞳には、隠しきれない独占欲の光が宿っている。


「あ、いや、椎名さんの衣装も、僕がちゃんと選ぶから……!」


「約束。破ったら、許さない」


 大人しいはずの文学少女からの、逃げ場のないプレッシャー。

 さらに部屋の入り口からは、噂を聞きつけたらしい三郷と笹浪さんの、絶対零度の気配が近づいてくるのが見えた。


 天音さん、椎名さん、浅利先輩、そして三郷と笹浪さん。

 才女たちの熱い包囲網は、文化祭に向けて、さらに逃げ場のない修羅場へと加速していくのだった。


―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!


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