第19話 え? そんな簡単に決まるの?

 そして何より。


 才女たちのコスプレ出演を説得するはずだった僕自身が、一番逃げられない立場へ追い込まれることになるなんて――この時はまだ、知る由もなかった。


        ※ ※ ※


 数分後。

 僕は生徒会室のソファーになだれ込み、資料を持ったまま魂が抜けたように天井を見上げていた。

 隣では、穂状さんがどこか申し訳なさそうに、それでもやっぱり少し楽しそうに僕を覗き込んでいる。


「……影久くん、生きてる?」


「死んではいないけど、瀕死だよ……。なんで僕までコスプレなんてすることになってるのさ」


「会長、一度思いついたら絶対に引かない人だからね。でも、才女の人がみんな影久くんの出欠を気にするなんて、噂は本当だったんだね」


 穂状さんは感心したように頷くが、僕にとっては破滅のカウントダウンでしかない。


 学校一の才女たちを説得するだけでも難易度は令和最大級なのに、その条件が『僕のコスプレ参戦』だなんて、神様は僕の平穏をどこまで引き裂けば気が済むのだろう。


 僕が頭を抱えていると、桐谷会長がまるで頼もしい上司のような笑顔で、僕の机に一枚の書類を置いた。


「というわけで、影久くん! これが才女たちの説得用資料と、君の衣装のサイズ申請書だ!」


「仕事が早すぎて怖いよ!」


「まずは身近なところから攻めるといい。姫月さんや笹浪さんなら、君が頼めば一撃だろう?」


「一撃で僕のライフがゼロになりそうなんですけど……」


 絶対に何か勘違いしている会長にお礼を言い(言わされ)、僕は逃げるように生徒会室を後にした。

 小脇に抱えた美術の資料と、生徒会から渡された『文化祭極秘プロジェクト』のファイルが、ずっしりと両腕に重い。


 廊下を歩きながら、僕は大きなため息を吐いた。


「はぁ……。どうやって三郷たちに話せばいいんだよ、こんなこと」


 三郷に「コスプレして」なんて言ったら、あの冷徹な瞳で「正気なの?」と一瞥される未来しか見えない。

 笹浪さんに言ったら、また顔を真っ赤にして暴走しそうだし、凛花さんや椎名さん、天音さんだって一筋縄ではいかない。


 そんな絶望的な未来予想図を描きながら一号棟の階段を下りていた、その時だった。


「あ、なつめくんだ!」


 前方から、中庭での修羅場以来となる、聞き馴染みのある明るい声が響いた。

 顔を上げると、そこには体操着姿の軽井沢天音さんが、部活の道具が入ったエナメルバッグを肩にかけて立っていた。

 ショートカットの髪には汗が微かに光っていて、グラウンド帰りの爽やかな風を纏っている。


「天音さん。部活の朝練、じゃなくて……昼練?」


「うん! ちょっと次の大会に向けて調整したくてさ。それより、なつめくん。何、その怪しいファイル?」


 天音さんは僕の手元にある生徒会のファイルに目を留め、小動物のように首を傾げた。

 しまおうとしたが、時すでに遅し。

 彼女は持ち前の身体能力で一瞬にして距離を詰めると、ファイルの表紙に書かれた『文化祭才女コスプレ計画』の文字を凝視した。


「ふぇ!? これって、さっき生徒会の人に言われたやつじゃん!」


「あ、やっぱり天音さんも断ったんだよね?」


「あったり前だよ! 私、そういうヒラヒラしたのってキャラじゃないし、第一、部活で忙しいもん!」


 天音さんは少し頬を赤くしながら、ぷいっと顔を逸らした。


 やっぱり無理だ。

 会長には悪いが、全滅の報告をして、この計画は白紙に戻してもらおう。


 そう僕が安堵しかけた瞬間、天音さんが上目遣いで、どこか落ち着かない様子で僕の制服の袖をちょんと引っ張った。


「ね、ねえ。それより、さっき生徒会長が言ってたこと、本当なの?」


「え? 何が?」


「だから……なつめくんも、その、コスプレしてステージに出るってやつ」


 その質問をされた瞬間、僕の脳裏に桐谷会長の「全滅だ。そして全員に最後、同じ質問をされた」という言葉が、不吉な効果音と共に蘇った。


「……一応、僕がみんなを説得できたら、僕も出るっていう条件にされちゃって」


 僕が正直に白旗を上げると、天音さんの動きがピタリと止まった。

 彼女の大きな瞳が何度か瞬き、みるみるうちにその顔が耳の先まで真っ赤に染まっていく。


「な、なつめくんが……コスプレ……?」


「うん。だから、天音さんが嫌なら無理にとは言わないし、この話は――」


「で、出る!! 私、出るよ!!」


「へ?」


 今度は僕が間の抜けた声を出す番だった。

 さっきまで「キャラじゃない」と断固拒否していたはずの天音さんが、エナメルバッグをぎゅっと握りしめ、鼻息も荒く僕に詰め寄ってくる。


「なつめくんが出るなら話は別だよ! だって、なつめくんのそういう格好、私が見ないで誰が見るのさ!」


「いや、誰が見てもいいと思うんだけど……」


「ダメ! 私が一番最初に特等席で見るの! というか、なつめくんは何を着るの!? 王子様!? それとも執事!? なんでも似合いそうだけど、私が隣に並ぶなら、やっぱりお揃いっぽい衣装がいいな……!」


 天音さんは完全に限界突破して、一人でブツブツと妄想を膨らませ始めている。

 いつもの凛々しいスポーツ才女の姿はどこへやら、今の彼女は完全に恋する乙女の暴走特急だった。


「あの、天音さん? 顔が近いし、声が大きいよ」


「はっ! ご、ごめん! とにかく約束だからね! 私を一番最初に誘ってくれたんだから、絶対に一緒にステージに出るんだからね!」


 天音さんは真っ赤な顔のまま、逃げるように階段を駆け下りていってしまった。


 後に残されたのは、手元のファイルを見つめて呆然とする僕一人。


「……一人目、クリア、なのかな?」


 全然嬉しくない。

 むしろ、外堀が確実に埋まり始めている恐怖しかない。


 天音さんがあの調子なら、もしこのことが三郷や笹浪さんの耳に入ったら、一体どうなってしまうのだろう。


 ガタ、と背後の廊下で小さな音がした。


 恐る恐る振り返ると、そこには一冊の小説を胸元に抱きしめた椎名小春さんが、静かに佇んでいた。

 白銀の髪を揺らし、その青みがかった瞳が、じっと僕とファイルを捉えている。


「……なつめくん。今、軽井沢さんと、文化祭の話をしていた?」


「あ、椎名さん……」


 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。


 本日何度目か分からない貞操と平穏の危機を前に、僕はただ、冷や汗を流すことしかできなかった。

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