第17話 は、ハレンチ!!
その日の昼下がり、僕はいつも通り平穏に過ごせるものだと、本気でそう思い込んでいた。
もっとも、最近の僕の日常に「平穏」なんて二文字が存在するのかと聞かれれば、少し自信はない。
学校一の才女と仮とはいえ交際を始め、最初の友人には「次は私の番」とデートを予約され、静かな文学少女には意味深なことを言われ、モデルとして活動する美少女には人並み以上に好きだと告げられた。
そして今朝まで、僕はただ静かに学校生活を送りたいだけの人間だったはずなのだ。
どうしてこうなった。
しかも世の中というものは、どうやら僕が平穏を願えば願うほど、その願いを面白半分に踏み潰してくるらしい。
特に、才女たちに囲まれるようになってからの僕の日常は、常にブレーキの壊れたジェットコースターへ放り込まれているようなものだった。
※ ※ ※
四限目終了後、僕は担任の先生から頼まれ、一人で第二校舎の美術室へ向かっていた。
次の授業で使用する過去の絵画資料を取ってきてほしいという、本来なら五分もあれば終わる何の変哲もない雑用である。
しかし――問題は目的地だった。
美術室。それは、あの底なし沼のような退廃的魅力を放つ浅利先輩が支配する、絶対的な領地。
以前から、彼女についてはどうにも普通ではない気配を感じていた。
静かで、無表情で、息を呑むほどの美人。そして、何を考えているのか全く分からない。
それだけならまだいい。問題は、僕を見る時だけ、死んでいるようだった瞳の奥へ、妙にどろりとした熱が宿ることだった。
「まあ……いくら何でも考えすぎか」
僕は自分の臆病さに苦笑する。
さすがに学校の美術室で命の危機に遭遇するなんて、そんな漫画みたいなことが起きるはずが――。
バンッ!
「ひぃっ!?」
まさにその瞬間だった。
静まり返った廊下の奥、僕の目の前にある美術室の分厚い木製扉が、内側から蹴破られたのではないかと思うほどの勢いで開いた。
あまりの爆音に、僕は反射的に肩を跳ねさせ、その場で硬直する。
美術室の中は暗かった。カーテンは閉め切られ、照明もついていない。
外から差し込む僅かな光さえ部屋の奥へ進むにつれて飲み込まれていく、その暗闇の中から――白い手が、ずるりと這い出てきた。
「……え?」
白磁のような細い指が床へ爪を立て、まるで這い出してくる幽霊のように少しずつこちらへ近づいてくる。
「ヒッ!?」
情けない悲鳴が、喉の奥から飛び出した。
逃げろ、と僕の中に残る僅かな生存本能が全力でそう叫ぶ。
僕はすぐに踵を返そうとした。しかし、それよりも早かった。
「捕まえた」
「え?」
ガシッ。
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
白い手が僕の手首を掴んだ。
細い腕からは想像もできないほどの力で引っ張られ、身体が一気に前へ傾く。
「ちょっ、待っ、僕まだ心の準備がぁぁぁぁぁ!」
そのまま僕は、暗い美術室の奥へ引きずり込まれた。
バタン、と背後で扉が閉まり、完全な暗闇が訪れる。
次の瞬間には床へ押し倒され、背中へ固い感触が走った。
「いっ……!」
逃げようと身を起こしかけたが、すぐに僕の腰の上へ柔らかな重みが乗る。
誰かが、完全に僕へ馬乗りになっていた。
「あ、あの! 僕を食べても脂肪と骨ばかりで美味しくないですよ!?」
「食べない」
「よ、よかった……」
「別の意味で欲しい」
「全然よくなかった!」
闇に目が慣れ始めるにつれて、僕は自分を押し倒している人物の顔を認識した。
長い黒髪が僕の頬の横へ垂れている。生気の薄い白い肌、人形のように整った顔。
何を考えているのか分からない虚ろな瞳の奥には、今まで見たこともないような熱が宿っていた。
「浅利先輩……」
「来たのね」
「はい?」
浅利先輩の顔が近づく。吐息が触れそうな距離。
彼女は僕の制服の胸元を両手で掴み、逃がさないように身体を密着させた。
「私の伴侶」
「違います!」
即答した。
「僕は先生に頼まれて資料を取りに来ただけの、ただの一般生徒です!」
「違う」
「何がですか!?」
「あなたは、私の伴侶」
「話を聞いてください!」
「私の絵の完成」
「せめて人間として扱ってください!」
論理が一切通じない。これが芸術家という人種なのだろうか。
いや、絶対に違う。僕の知る芸術家の人たちに謝りたい。
浅利先輩は僕の否定など全く気にしていなかった。
むしろ、逃げようと身体を捩るたび、僕を押さえ込む力を強めてくる。
「ずっと描いてた」
「何をですか?」
「あなた」
「僕を?」
「でも足りなかった」
浅利先輩の指先が僕の頬をなぞる。ひやりと冷たい。
「本物に触れないと、完成しない」
「それで僕を拉致したんですか!?」
「拉致じゃない」
「では何ですか!」
「運命」
「警察の前で同じこと言えます!?」
僕の必死な抵抗も虚しく、浅利先輩の顔はさらに近づいてくる。
形の良い唇、長い睫毛。近すぎるせいで彼女の呼吸まで分かる。
とても綺麗な人だ。だからこそ、怖い。美しすぎる肉食獣を前にしているようだった。
「せ、先輩……近いです」
「知ってる」
「少し離れてください」
「嫌」
「即答!?」
「逃げるから」
「逃げますよ!」
「だから離さない」
完全に詰んでいた。しかも浅利先輩の唇が、本当に僕の唇へ迫ってくる。
近い。近すぎる。あと数センチ。
これまで誰かと付き合った経験すらほとんどない僕にとって、それは明確な貞操の危機だった。
「待ってください! こういうのは、お互いの気持ちとか、段階とか、色々あるんじゃないですか!?」
「気持ちはある」
「先輩だけでしょう! 正式」
「なら、あなたの分も私が持つ」
「何その暴論!」
嘘告の記憶を思い出す暇すらない。僕はぎゅっと目を閉じた。
その時だった。
ガチャリ。
場違いなほど元気よく、美術室の扉が開いた。
「先輩! そろそろ生徒会に提出する予算要望の書類を――って、ふぉっ!?」
明るい廊下の光が美術室へ差し込む。入り口には、一人の女子生徒が立っていた。
見たことのない少女だった。小柄な身体、赤みがかった黒髪。制服の腕には、生徒会の腕章。
その彼女が、床へ押し倒されている僕と、その上に完全なマウンティングポジションを決めている浅利先輩を凝視する。
数秒の沈滅。そして少女の顔が、一気に真っ赤になった。
「せ、せっセック……!」
「違います!」
「今からおっぱじめるんですか!? 白昼堂々! 神聖な美術室で! 芸術的な何かを!?」
「誤解です! 盛大すぎる誤解です!」
「だ、だって先輩が上で、君が下で、その、完全にそういう配置じゃないですか!」
「配置で判断しないでください!」
僕が必死に叫ぶ中、浅利先輩だけは無表情のまま僕の制服を握って離さなかった。
「私の伴侶」
「違います!」
「逃げるな」
「逃げます!」
「逃がさない」
「誰か助けて!」
「た、助けます! というか先輩! 離れてください! 不健全です!」
生徒会の少女が慌てて浅利先輩へ駆け寄り、背後からその身体を引き剥がそうとする。
「嫌」
「嫌じゃありません!」
「あと三秒」
「何の三秒ですか!?」
「接吻」
「やめてください!」
「先輩ぃぃぃぃっ!」
数分後。僕はどうにか生還した。
※ ※ ※
「コホン。それで、浅利先輩とそこの君は……」
「違います」
「まだ何も聞いていませんけど」
「でも違います」
「必死すぎる……」
僕は美術室の椅子へ腰掛け、乱れた制服を整えていた。
一方、浅利先輩は部屋の隅、巨大なキャンバスの裏側へ隔離されている。といっても、時々こちらを覗いている。怖い。
「僕は本当に、先生に頼まれて資料を取りに来ただけなんです。決して神聖な美術室で、いかがわしい破廉恥な行為をしようとしたわけではなくて!」
「分かりました」
目の前の少女は深々とため息を吐いた。
「君の必死すぎる顔を見ていれば、どちらが被害者なのか一目瞭然です」
「あ、ありがとうございます……」
救われた。初対面の人に潔白を信じてもらえることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
少女は僕から視線を外し、部屋の隅を睨む。
「それにしても、浅利先輩」
「……」
「一体全体、何をやってるんですか?」
「惜しかった」
「何がですか?」
「あと少しで、ヒロインレースに完全勝利できた」
「学校を競馬場か何かと勘違いしないでください!」
鋭いツッコミだった。僕は思わず感心してしまう。
どうやら、この人は日頃から浅利先輩へ振り回されているらしい。
「そもそも先輩、予算要望書まだ出してませんよね?」
「芸術に書類は不要」
「生徒会には必要です!」
「魂で感じて」
「経理は魂では動きません!」
相性がいいのか悪いのか分からない。ただ、この少女が相当に苦労していることだけは理解できた。
彼女は再び深くため息を吐く。それから僕へ向き直ると、今度は丁寧に頭を下げた。
「申し遅れました」
赤みがかった黒髪がさらりと揺れる。
「私は穂状紗理奈(すいじょう・さりな)。これでも一応、生徒会役員の末席にいます」
「影久なつめです」
「影久……」
穂状さんが目を瞬かせた。
「もしかして、最近噂になってる?」
「え?」
「姫月先輩の彼氏で、才女たちに囲まれてるっていう」
「どうしてそんな噂が広がってるんですか!?」
「かなり有名ですよ?」
「聞きたくなかった……」
僕が頭を抱えると、穂状さんは少し楽しそうに笑った。
先ほどまでの鋭いツッコミとは違う、年下らしい、柔らかな笑顔だった。
「でも」
「はい?」
「思ってたより普通の人ですね」
「どんな人だと思ってたんですか?」
「もっとこう、女の子を次々と手玉に取る悪魔みたいな……」
「酷すぎません?」
「だって噂だけ聞くと、そうとしか思えないんですよ」
「僕はそんなことしてません!」
「はい。今ので分かりました」
穂状さんはくすくすと笑った。
「むしろ、振り回される側なんですね」
「よく分かってくれました」
初対面なのに、この人とは少し仲良くなれそうな気がした。
僕はようやく本来の目的を思い出し、先生から頼まれていた絵画資料を探し始める。
「あ、それならこちらです」
「手伝ってくれるんですか?」
「もちろん。先輩がご迷惑をかけたお詫びもありますから」
「ありがとうございます」
「そんなに丁寧にお礼を言われるほどでは……」
「でも、一人だったら授業に遅れていたかもしれませんから。本当に助かります」
僕がそう言うと、穂状さんは僅かに目を見開いた。
「どうかしました?」
「いえ」
彼女は僕から顔を逸らした。
「噂になる理由、少しだけ分かった気がして」
「何の話ですか?」
「こちらの話です」
また僕だけ分からない会話が増えてしまった。
二人で資料を集め、僕はそれらを小脇へ抱える。
「それでは、そろそろ戻ります」
「お気をつけて」
穂状さんが頭を下げる。僕も会釈を返し、今度こそ美術室を出ようとした。
その時だった。
「ま、待って」
「ひっ!」
今日一番の情けない声が出た。
背後から伸びてきた冷たい手が、僕の制服の裾をきゅっと掴む。
恐る恐る振り返ると、そこに浅利先輩がいた。
「先輩、今度こそ何ですか?」
「……」
返事がない。ただ、じっと僕を見ている。
また第ニ波が来る、そう思って僕は身構えた。しかし――。
「また来て」
「え?」
浅利先輩が、微笑んだ。
初めて見た。これまでの虚ろな無表情ではない。誰かを驚かせるためでも、狂気を含んだ笑みでもない。
ただ一人の少女として浮かべた、驚くほど綺麗で、どこか儚い笑顔だった。
「また、ここに来て、私の伴侶」
制服を掴む指先が、ほんの少し震えている。
「その呼び方はやめてほしいですけど……」
僕は少しだけ困ってから、それでも頷いた。
「資料とか、何か用事があれば」
浅利先輩の表情が、ほんの僅かに明るくなる。それを見ていると、断れなかった。
「用事がなくても」
「え?」
「来て」
僕は言葉に詰まった。
今までなら、怖いから絶対に嫌だと答えていたかもしれない。けれど、先ほどの笑顔がどうしても頭に残った。
「……時間があれば」
「本当?」
「はい」
その瞬間、浅利先輩は今度こそ心から嬉しそうに笑った。
「約束」
「約束までは……」
「約束」
「……分かりました」
僕が折れると、先輩は満足したように制服から手を離した。
ほんの少し前まで僕の貞操を奪おうとしていた人と同一人物とは思えない。けれど、その笑顔だけは妙に胸へ残った。
誰かから必要とされること。待っていると言われること。
昔の僕ならそれが少し怖かった。けれど今は――ほんの少しだけ、嬉しいと思えるようになっていた。
※ ※ ※
今度こそ美術室を脱出し、僕は廊下で大きく息を吐いた。
「生きてる……」
まるで猛獣の檻から生還したかのような心地だった。資料を抱え直しながら胸を撫で下ろす。
「なんだったんだ……今の」
浅利先輩の最後の笑顔を思い出す。正直、今でも怖い。けれど、あの人もずっと一人で美術室にいるのだろうか。
そんなことを考え始めてしまった自分に、僕は小さくため息をつく。
「僕もお人好しすぎるのかな」
そう呟いた、その矢先だった。パタパタと小気味よい足音が響く。
「あの!」
「はい?」
振り返ると、先ほど僕を助けてくれた穂状さんが立っていた。少し走ってきたらしく、肩で小さく息をしている。
「あの、影久くん!」
「どうしたの? 穂状さん」
そう返すと、穂状さんは一瞬だけ目を丸くした。
「……随分あっさり名前で呼んでくれるんだね」
「え? 駄目だった?」
「駄目じゃないけど。むしろ、ちょっと嬉しいかも」
穂状さんはそう呟いてから、少しだけ頬を赤らめた。
先ほどまで浅利先輩へ容赦なくツッコミを入れていた姿とは違い、こうして見ると、やはり僕と同じ一年生の女の子なのだと思う。
「それで、どうしたの?」
「あ、うん。その……」
穂状さんは一度視線を逸らす。そして胸元で両手を握り、何かを決意したように僕を真っ直ぐ見つめた。
「あの! もしよければ、少しだけ私に付き合ってもらえないかな!?」
「え?」
今度は僕が固まった。
「付き合う……?」
「う、うん!」
その言葉が持つ意味を考え、僕の頭の中へ三郷の顔が浮かぶ。
続いて笹浪さん、凛花さん、椎名さん、天音さん。
そして最後には、なぜか美術室の中から浅利先輩の「私の伴侶」という声まで聞こえた気がした。
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