第16話 最後の才女と伴侶

 その日の昼休み、初夏の陽光がそそぐ中庭は、どこか落ち着かない熱を帯びていた。

 僕はいつものように三郷と向かい合い、購買のパンと弁当を広げていた。


 少し前までなら、クラスのマドンナに嘘の告白で弄ばれ、底辺の掃き溜めにいた僕にとって、一人きりで過ごすのが当たり前だった時間だ。

 それが今では、学校一の美少女と噂される三郷とこうして二人で昼食をしている。


 それだけでも僕にとっては天変地異に等しい変化なのだが、今日に限っては、朝から校舎中から突き刺さる視線の数が異常だった。

 元マドンナに「夢見すぎ」と嘲笑われた僕が、なぜ彼女たちと親しくしているのか――周囲の猜疑心と羨望が、皮膚をチクチクと刺してくる。


「また見られてるね」

 

「気にする必要はないわ。そのうち慣れるもの」


 三郷は周囲の喧騒など一顧だにせず、涼しい顔で綺麗な卵焼きを口へ運んだ。

 凛としたその佇まいは、まるでそこだけ切り取られた絵画のようだ。


 僕がまだこの環境に気後れしていることを察したのか、彼女は箸を止め、じっと僕の瞳を覗き込んできた。


「なら、私だけ見ていればいいでしょう? 周りを見るから気になるのよ。私だけを見ていなさい」


 あまりにも自然に、そして当然の権利のように告げられた言葉に、僕は危うく思考を停止させられそうになった。

 僕を奈落に突き落とした元マドンナの嘲笑とは対照的な、絶対的な肯定がそこにはあった。

 だが、生真面目すぎる僕の脳細胞は、その言葉を文字通りに受け取ってしまう。


「でも、それだとご飯が食べられないよ」

 

「……そういう意味ではないわ」


 三郷は心底呆れたように、ふう、と小さくため息をついた。

 けれど、白磁のような彼女の頬がほんのりと朱に染まっているのを、僕は見逃さなかった。


 僕が何か的外れな返答をしてしまったのだろうか。

 そんな甘やかな疑問を抱いた、まさにその瞬間だった。


 ざわり、と。

 中庭を包んでいた空気が、一瞬にして凍りついた。


「あ、あの人は……まさか、本当に美術室から出てきたの?」

 

「初めで見た……あれが噂の――」


 周囲の生徒たちが、弾かれたように一斉に同じ方向へ顔を向ける。

 六月の湿気をさらに重く塗り替えるような、異質な威圧感。


 まるでそこだけ雨雲が局所的に降りてきたかのように、暗く、静かで、それでいて誰もが目を逸らせない絶対的な存在感が、そこにはあった。


 三郷が誰よりも早くその気配を察知し、その人物を認識した瞬間、彼女の美しい眉が不快そうに跳ね上がった。


「……最悪。できれば周囲が使う俗称で呼びたくはないのだけれど」


 三郷は心底嫌そうに目を細め、獲物を警戒する肉食獣のような鋭さでその少女を睨みつける。


「五人の才女。その最後の一人――浅利日和(あさり ひより)先輩よ」


 僕も彼女の視線の追って、息を呑んだ。

 そこにいたのは、幽霊を思わせるほどに儚く、そして狂気的なまでに美しい少女だった。


 長い黒髪は手入れされているのかも分からないほど無造作に垂れ下がり、抜けるように白い肌は、陽の光を拒絶して生きてきたかのように青白い。

 虚ろで焦点の合わない瞳は、眠っているようでもあり、世界のすべてを拒絶しているようにも見えた。


 触れればガラス細工のように壊れそうなのに、同時に、触れた人間の精神を深い底なし沼へ引きずり込みそうな危うさがある。

 退廃的という言葉がこれほど似合う人間を、僕は初めて見た。


「生徒会所属。絵画、彫刻、書道、写真、映像――芸術に関するあらゆる分野で賞を総なめにした人よ。才能だけなら異常と言っていいわ。ただし、基本的には美術室から出てこないし、誰とも関わらないはずなのに……」


 三郷の警戒を他所に、その浅利先輩がゆっくりと顔を上げた。

 そして、前髪の隙間からのぞく虚ろだった瞳が、まっすぐに僕を捉えた。


 その瞬間に宿った、爛々とした異様な光。


「見つけた。私の――」


 声は蚊の鳴くように小さかったはずなのに、なぜか僕の鼓膜へ直接響いた。

 一歩、また一歩。


 彼女は長い黒髪を揺らしながら、ほとんど無表情のまま、一直線にこちらへ歩みを早めてくる。

 その独特の歩幅は、徐々に速度を増し、最後には奇妙な必死さを伴って走りに変わった。


「なつめ、下がって!」


 三郷が鋭く叫んで立ち上がったが、それよりも先輩の突進の方が早かった。

 柔らかな、そして微かに絵の具と石鹸が混ざったような香りと共に、僕の胸に衝撃が走る。


 浅利先輩が、勢いのまま僕の身体に深く抱きついてきたのだ。

 細い腕が僕の背中に回され、強固な鎖のようにロックされる。


「やっと、見つけた。私の永遠の伴侶」

 

「あ、浅利先輩? えっと……どこかで会ったこと、ありましたっけ?」

 

「ない。でも、ずっと知ってた」


 僕の胸元から顔を上げた先輩の顔は、心臓が止まるほど至近距離にあった。

 虚ろだった瞳の奥には、今やドロドロとした熱が渦巻いている。


 彼女の冷たい指先が、僕の頬をなぞるように触れた。


「ずっと描けなかった。私の絵に足りなかったもの。あなたを見た瞬間、分かった。あなたが、私の完成」


 芸術家の感性など僕には分からない。

 けれど、向けられた執念の重さだけは、嘘告で傷ついた僕の心を容赦なく揺さぶってくる。


 そんな僕たちの間に、氷点下の声が割り込んだ。


「日和先輩。人の彼氏から、今すぐ離れてもらえますか?」


 三郷の眼光は、文字通り相手を刺し殺さんばかりに冷徹だった。

 しかし、浅利先輩は「嫌」と即答し、僕の身体にさらに強くしがみつく。


 聞こえなかったのかという三郷の威嚇に対しても、先輩は全く動じず、「彼は私の伴侶」「違う」「私のなつめくんです」「違う」と、無表情のまま言葉の銃撃戦を繰り広げた。


 普段は冷静沈着な三郷が、珍しく声を荒らげて感情を露わにしている。

 完全に置いてけぼりにされた僕は、二人の視線の火花に挟まれ、小さく首をすくめることしかできなかった。


「あ、あの、僕の意思は……」

 

「なつめは黙っていて」

 

「伴侶は黙ってて」

 

「はい……」


 どうやら僕に人権は残されていないらしい。

 三郷が僕の腕を掴んで引き離そうとするが、先輩は頑なに離れようとしない。


 それどころか「彼女は私」と言い間違え、現場の混乱をさらに極限へと加速させていく。

 そんな、僕を中心とした美少女たちのキャットファイトの最中。


「おーい! なつめくーん!」


 中庭の空気を一気に塗り替えるような、弾けた明るい声が響いた。

 振り返ると、そこにいたのは校内屈指のスポーツ才女、軽井沢天音さんだった。


 彼女は満面の笑みでこちらへ駆け寄ってきたが、僕に文字通り寄生している浅利先輩の姿を視界に捉えた瞬間、その表情を露骨に引きつらせた。


「うげっ。なんでまた美術室の主が出てきてんの?」

 

「伴侶を見つけた」

 

「何言ってんの、この人。はいはい、離れようねー」


 天音さんは持ち前の高い身体能力を活かし、躊躇なく浅利先輩の両肩を掴むと、力任せに僕から引き剥がした。

 先輩は「嫌、返して」と無表情のまま抵抗するが、天音さんは「なつめくんは物じゃないから」とばっさり切り捨てる。


 様子を見ていた三郷が、珍しく天音に対して「よくやったわ」と賛辞を送るほど、現場の利害関係は一致していた。


 才女二人が先輩を牽制している隙に、僕は一歩後ろへ下がって呼吸を整え、天音さんに問いかけた。


「それで、天音さんはどうしたんですか? 僕を探していたんですよね」


 その問いを発した瞬間、さっきまで猛獣のように先輩を剥ぎ取っていた天音さんの動きが、ピタリと止まった。


 彼女は急に頬を赤く染め、視線をあちこちに彷徨わせながら、落ち着かない様子で両手を背中に回した。

 その初々しい仕草は、グラウンドで見せる凛々しい彼女からは想像もつかないものだった。


「その……少し、付き合ってほしくて」


 その言葉に、三郷と浅利先輩の視線が同時に天音へと突き刺さる。

 僕も驚きに目を瞬かせた。


 付き合う、という言葉の持つ意味が、この修羅場においてはあまりにも劇薬すぎたからだ。

 天音さんは自分の失言に気づいたのか、耳まで真っ赤にして手を激しく振った。


「あっ、違う! いや、違わなくもないけど、今すぐそういう意味じゃなくて! その、今度、大事な地区大会があるの」


 そう言った天音さんの声が、微かに震えていることに僕は気づいた。

 全国レベルで活躍し、常に自信に満ち溢れているはずの彼女。


 そんな彼女の指先が、ユニフォームの裾をぎゅっと握りしめている。

 学校中の憧れであるスポーツ才女が、今、僕の前でひどく怯えた迷子のように佇んでいた。


「私、今まで試合で緊張することなんてなかったんだ。でも、今回はちょっと怖い。だから……なつめくんに、練習を見てほしい。なつめくんに見てもらえたら、私、もっと頑張れる気がする」


 その真っ直ぐな吐露に、僕の胸の奥がじんわりと熱くなった。


 元マドンナに「お前みたいな底辺に価値はない」と全否定された僕だ。

 技術的なアドバイスなんてできるはずもないし、彼女の力になれる要素なんて一つもない。


だけど、彼女は僕という人間を必要として、勇気を振り絞って頼ってくれたのだ。

 なら、僕が返す答えは、最初から一つしか用意されていない。


「もちろんです。僕でよければ、喜んで見に行きます」

 

「本当に……? 私なんかの練習でも?」


 天音さんの口から出た『私なんか』という自虐が、僕には少しだけ寂しかった。

 だから、僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、自然と笑みを浮かべていた。


「『私なんか』じゃないですよ。天音さんは、僕が一番落ち込んでいた時に、三日間も一緒に練習して励ましてくれた。友達だと言ってくれた。だから今度は、僕が天音さんの力になりたいです。それに、天音さんが頑張ってるところ、僕もちゃんと見たいですから」


 僕にとっては本心からの言葉だった。

 けれど、それを聞いた天音さんは、まるで思考回路が焼き切れたかのように完全に固まってしまった。


真っ赤になった顔を両手で覆い、「今、無理。顔見ないで」と悶絶している。

 そんな僕たちのやり取りを、背後から見つめていた三郷の気配が、一気に絶対零度まで下がった。


「なつめ。少し、話があるわ。どうして天音の練習を見に行くことになっているのかしら? 私との予定は?」

 

「え? まだ何も決めてないよね?」

 

「今、決めるわ。同じ日に」


 三郷の有無を言わさぬ提案に僕が戦慄していると、今度は自由になった浅利先輩が再び僕の腕にしがみついてきた。


「私、行く。伴侶が行くところに、私も行く」

 

「来なくていいから!」

 

「嫌」

 

「じゃあ、私がなつめくんを連れていく!」


 三人の美少女たちの声が中庭に響き渡り、周囲のモブ生徒たちの視線は、もはや羨望を通り越して畏怖に近いものへと変わっていた。


かつて誰からも必要とされず、誰にも見つからず、ただマドンナの引き立て役として踏みにじられた僕の日常。

 それが今、この激しい修羅場の中で、確実に書き換えられていくのを感じていた。


彼女たちが僕を求めて競い合っている。

 その事実は、僕の臆病な心に、少しの怖さと――それ以上の、確かな救いを与えてくれていた。


「分かりました。天音さんの練習、ちゃんと見に行きます。でも、三郷も浅利先輩も、来たいならみんなで来ればいいと思います。みんなで応援したほうが、天音さんも心強いでしょう?」


 これ以上ない平和的解決策を提示したつもりだった。

 だが、僕のその無自覚な言葉は、火に油を注ぐ結果にしかならなかったようだ。


三郷はこめかみを押さえて天を仰ぎ、天音さんは顔を真っ赤にして僕の反対側の腕を掴んで「私を一番見てね!」と迫ってくる。

 そして三郷が、僕の正面にゆっくりと歩み寄ってきた。


彼女は僕の頬にそっと冷たい手を添え、吐息が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。

 その黒い瞳には、独占欲と、深い情愛が混ざり合った、妖しい光が宿っている。


「覚えておきなさい。あなたは、自分が思っているほど誰にとっても『ただの人』ではないのよ。誰かを救った責任は、重いの」


 その言葉の真意を、当時の僕はまだ理解していなかった。


ただ、浅利日和という最後の才女に『見つかって』しまったこの日を境に、僕の日常はもう二度と、元の平穏には戻れない場所まで加速してしまったことだけは、確かに理解していたのだった。

 

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