第15話 好きな人がいるかの有無
過去――僕の小学生時代は、決して良い思い出と呼べるようなものではなかった。
ふとした瞬間に思い出そうとするだけで、胸の奥が凍りつくように冷たくなる。
だから僕はいつしか、その暗い記憶のすべてに分厚い蓋をした。
二度と開かないように。
自分の中にそんな惨めな過去など最初から存在しなかったのだと、そう思い込めるくらい、強く、深く。
それでも、完全に消し去ることなんてできはしない。
誰かの激しい怒鳴り声や、悪意に満ちた視線に触れるたび、その蓋の隙間から、どす黒い昔の記憶がじわじわと滲み出してくるのだ。
だから、六限目の体育の授業も、最初は少しだけ憂鬱だった。
立花さんから聞いていた通り、今日は一年四組との合同授業。
体育館へ集められた僕たちに、教師がバドミントンの基本的なルールと練習方法を説明し終えると、近くの者同士で適当にペアを作るよう指示が出た。
周囲が一斉に動き出した、まさにその直後だった。
「なつめくん」
背後から名前を呼ばれて振り返ると、立花さんが真っ直ぐこちらへ歩いてくるところだった。
体操着姿の彼女は、いつもの洗練された制服を着ている時よりも、どこか少し幼く見える。
それでも、すっと背筋の伸びた姿勢や、前髪を耳にかける指先の圧倒的な上品さは健在で、周囲の女子とは明らかに違う特別なオーラを纏っていた。
体育館の白熱灯に照らされた彼女は、直視するのが躊躇われるほどに綺麗だった。
「約束通り、私と組んでくれるよね?」
「はい。もちろんです。よろしくお願いします、立花さん」
「うん。よろしくね」
立花さんが、開花するように柔らかく微笑む。
その瞬間、体育館のあちこちから、文字通り突き刺すような鋭い眼光が一斉に僕の身体に集まった。
特に、男子生徒たちからの嫉妬の視線が痛すぎる。
別に僕が立花さんを無理やり脅して連れてきたわけでもないのに、なぜ僕はこれから決闘へ向かう悪役領主のような目で見られているのだろうか。
「なつめくん、すごく注目されてるね」
「たぶん、立花さんが僕みたいな男と組んだからですよ」
「私じゃなくて、なつめくんが人気だからかもよ?」
「それはないと思います」
「そういうところなんだけどなぁ……」
立花さんは可笑しそうに、くすくすと小さく笑った。
僕には彼女が何を面白がっているのか分からなかったけれど、その濁りのない笑顔を見ていると、胸の奥に凝り固まっていた体育への憂鬱が、いつの間にか綺麗に霧散していくのを感じていた。
※ ※ ※
授業が始まると、まずは互いにシャトルを打ち返す基礎的な練習から始まった。
僕は決してバドミントンが得意なわけではない。
ただ、相手である立花さんが少しでも打ちやすい場所へ返すことだけを、必死に意識して身体を動かした。
彼女が右へ動けば、次に戻りやすいよう正確に中央へ。
彼女の体勢が少し崩れていれば、余裕を持って立て直せるように、あえて高めの球を浮かせて時間を作る。
ラケットを振るたびに、彼女が嬉しそうに笑ってくれる。それだけで、不思議と次の一球も、もっと丁寧に返したくなった。
「なつめくん、凄く上手だね」
「立花さんが、僕の下手な球でも拾いやすい場所にいてくれるからですよ」
「またそうやって、自然にそういうこと言うんだから」
「本当のことですけど……」
「無自覚って本当に怖いね」
「僕、何か怖いことしましたか?」
「してるよ。私の心臓に悪いことを、ずっとね」
立花さんはそう言って、白い頬をほんのりと林檎色に染めた。
けれどすぐに恥ずかしさを隠すようにラケットを構え直し、いつもの眩しい笑顔を浮かべる。
「でも、嫌じゃない」
「それならよかったです」
「そういう返しも、ずるいんだけどね」
またしても僕には意味の分からないことを言われてしまった。
基礎練習が終わると、次はペア同士で簡単な試合をすることになった。
僕たちの最初の対戦相手は、同じクラスの男子二人組だった。
だが、試合が始まる前から、彼らはなぜか僕に対して妙に殺気立っており、並々ならぬ気合いを漲らせていた。
「影久」
「はい?」
「悪いけど、今日だけはお前を全力で倒す!」
「どうしてそんなに真剣なんですか?」
「立花さんと組んでいるからだ!」
「それは僕に言われても……」
先生の笛が鳴り響いた瞬間、相手の一人が親の仇とばかりに、全力の強烈なスマッシュを僕のコートへ叩き込んできた。
「影久ぁ!」
「どうして僕の名前を叫びながら打つんですか!?」
僕は慌ててラケットを差し出し、どうにか死に物狂いでシャトルを返す。
しかし、次も、その次も、狙われるのは僕ばかりだった。
僕の後ろで構えている立花さんのほうへ打てば簡単に点数が取れるはずなのに、なぜか二人とも、全ての攻撃を僕一人へと集中させてくる。
「なつめくん、大丈夫?」
「大丈夫です。たぶん僕のレシーブ力を試してるんだと思います」
「絶対に違うと思うな」
立花さんが呆れたように苦笑した、まさにその直後だった。
ネット際へ強引に踏み込もうとした相手の男子の足元に、隣のコートから転がってきた別のシャトルが滑り込んだ。
「あっ」
激しく踏み込んだ彼のシューズが、そのシャトルを容赦なく踏みつける。
完全にバランスを崩し、彼の身体が床へ向かって激しく傾いた。
そのまま倒れれば、手首や顔を床に痛打する危険な体勢。
「危ない!」
考えるよりも先に、僕の身体は弾かれたように動いていた。
手にしたラケットを投げ捨て、ネット際へ全力で駆け寄ると、倒れゆく相手の腕を両手で強く掴み取る。
前方への凄まじい突進の勢いを受け止めきれず、僕も床へ激しく片膝をついた。
じり、と膝に痛みが走ったが、そのおかげで彼は床へ激突することなく、辛うじて転倒を免れることができた。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……」
「足、どこか捻ったりしていませんか?」
「平気、だけど……お前、なんで」
腕を掴まれたまま、相手の男子は信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。
「え?」
「俺、さっきまでお前ばっか執拗に狙ってたのに。なんで助けるんだよ」
「試合中だから狙うのは普通じゃないですか。でも、怪我をしたら大変ですから」
僕が息を切らしながら当然のように答えると、男子は耳まで真っ赤にして、ひどく気まずそうに顔を逸らした。
「……悪かった」
「大丈夫です。次から足元も気をつけましょう」
「なんでお前が注意する側なんだよ」
彼は小さく吹き出すと、僕の手を借りて立ち上がった。
その瞬間、体育館を包んでいた空気が、明らかに変わった。
それまで僕に対して向けられていた男子たちの刺々しい敵意が、嘘のように消えていく。
試合が再開されると、相手のスマッシュは相変わらず鋭かった。
けれど、そこにはもう、僕をただ引き摺り下ろそうとするような陰湿な悪意はない。
お互いに全力を尽くし、純粋にこの試合に勝つための、スポーツマンとしての熱い球だった。
「なつめくん、次来るよ!」
「はい!」
背後からの立花さんの凛とした声に、僕は迷わず前へステップを踏む。
相手のラケットから放たれた渾身のシャトルが、僕の目の前へ迫る。
かつての、背景として怯えていた僕なら、恐怖で一歩後ろへ引いていたかもしれない。
けれど、今の僕は逃げたくなかった。
僕の後ろには、立花さんがいる。
彼女が僕を信じて、背中を任せて構えてくれているのだ。
なら、ここで僕が情けなく背を向けるわけにはいかない。
「っ!」
気迫と共にラケットを振り抜く。
僕が弾いたシャトルは、ネット際の上空で不規則に浮き上がった。
相手の男子が前へ飛び込んでくる。その刹那、僕の背後から風が抜けた。
「なつめくん!」
「はい!」
僕は彼女の声だけを盲信し、即座に空いたカバーへと身体を滑らせる。
立花さんが美しく返したシャトルを、相手が強引にラケット面でねじ伏せてきた。
その鋭い軌道をギリギリで読み切り、僕は滑り込みながら決死の覚悟でラケットを振り抜いた。
パシィン、と心地よい音が響く。
僕の放ったシャトルは、ネットの白帯をかすめるようにして、相手コートの最も深い奥の隅へと音もなく落ちた。
直後、終了を告げる先生の笛が鳴り響いた。
「勝ち……ました?」
僕が床に膝をついたまま呆然と呟くと、立花さんが弾むような足取りで駆け寄ってきた。
「勝ったよ、なつめくん!」
弾けたような、心からの嬉しそうな声。
その響きに引っ張られるようにして、僕の胸の奥からも、今まで味わったことのない熱い感情が爆発するように込み上げてくる。
「やった……!」
「うん!」
立花さんは僕の手をぐっと掴むと、そのまま自分の両手で愛おしそうに包み込んだ。
興奮で僅かに上気した彼女の瞳が、至近距離で僕を捉える。
「今のレシーブ、凄く格好よかった!」
「立花さんが的確に声をかけてくれたから、迷わず動けただけですよ」
「またそうやって私のおかげにするんだから」
「本当にそう思ってます」
「だから、そういうところだよ……」
立花さんは少しだけ悔しそうに眉をひそめて笑ったあと、僕の手を握る力に少しだけ熱を込め、小さく呟いた。
「私、今のなつめくんを、誰にも見せないで独り占めしたいって思っちゃった」
「え?」
「何でもない!」
その後、対戦した同じクラスの男子が、照れくさそうに頭を掻きながらこちらへ近づいてきた。
「影久。負けたよ。普通に強かった」
「僕一人じゃ絶対に無理だったよ。立花さんが後ろで支えてくれたから」
「そういうとこだぞ、本当」
「え?」
彼は呆れたように笑い、僕の肩をポンと軽く叩いた。
「正直、立花さんと仲良く組んでるお前がムカついてたけどさ。さっき助けられたし、試合もちゃんと面白かった。だから、もう変に突っかかるのはやめるわ」
「ありがとうございます」
「あと、あのスマッシュ返されたのクソ悔しいから、次は普通に勝負な!」
「うん。よろしく」
僕が右手を差し出すと、彼は一瞬驚いた表情を見せたあと、嬉しそうにその手を力強く握り返してきた。
その手のひらの温もりは、さっきまで僕に敵意を向けていた冷たいものではなかった。
広い体育館の真ん中で、僕の居場所が、ほんの少しだけ外側へと広がったような気がした。
その一部始終をすぐ横で見ていた立花さんは、ひどく満足そうに目を細めていた。
「本当に、なつめくんってすごいね。敵だった人まで、いつの間にか味方にしちゃうんだから」
「僕はただ、怪我をしてほしくなくて助けたかっただけです」
「うん。計算じゃなくて、それを自然にやっちゃうところがすごいの」
僕を見つめる立花さんの声は、先ほどよりも少しだけ、甘く蕩けるような響きを帯びていた。
※ ※ ※
休憩時間になり、僕は体育館の壁際に置かれた木製のベンチへ腰を下ろした。
首にかけたタオルで汗を拭いていると、隣に立花さんが当然のように滑り込んできた。
お互いの肩が触れ合うほど、距離が近い。
けれど、さっきの試合で何度も隣り合って戦ったせいか、先ほどよりも緊張で心臓が爆発しそうになることはなかった。
「ねえ、なつめくん」
「はい」
「なつめくんは、姫月さんと付き合ってるんだよね?」
「一応……そういうことになっています」
「一応?」
「僕自身、まだこの急激な状況をきちんと理解できていなくて……」
あまりにも突然始まった、僕と三郷の関係。
学校一の才女である彼女が、本当は僕をどう思っているのか。そして、僕が彼女へ抱いているこの感情が、本当に世間一般で言う『恋』なのか。
今の僕には、まだ答えが出せないでいた。
「ねえ。キスはした?」
「えっ!?」
想像の斜め上を行くあまりにも過激な質問に、僕の声は情けなく裏返ってしまった。
立花さんは僕の過剰な動揺を見て取ると、さらに興味深そうに、いたずらっぽく身を乗り出してきた。
「もしかして、まだしてないの?」
「し、してません!」
「じゃあ、どこまで進んだの?」
「どこまでって……その、手を繋いだくらい、です」
「本当に?」
「本当です!」
立花さんは綺麗な指先を口元にあて、何かを緻密に計算するように、妖しく目を細めた。
「ふーん……じゃあ、まだ間に合うかも」
「何がですか?」
「ねえ、なつめくん」
彼女は僕の答えを遮るようにして、僕の耳元へと顔を近づけてきた。
運動した後の心地よい熱気と、彼女の身体から漂う柔らかな甘い香りが一気に鼻腔を支配し、僕の心臓がうるさく跳ね上がる。
「もし姫月さんに飽きたら、私と付き合ってもいいよ」
「な、何を言ってるんですか!?」
あまりの衝撃発言に、思わずベンチから飛び起きそうになった僕を見て、立花さんは鈴を転がすように可笑しそうに笑う。
「冗談だよ、冗談!」
「本当にびっくりしました……」
「でも、冗談は二割くらいだけどね」
「え?」
「残り八割は、今は秘密」
立花さんはそう言って、僕の額へ悪戯っぽく、ぽんと自分の人差し指を当てた。
「今日、私を守るみたいに動いてくれて嬉しかった。なつめくんは、誰かが転びそうなら、相手が自分に悪意を向けていても関係なく手を伸ばせる人なんだね」
「目の前で誰かが怪我をしそうなら、誰だって助けますよ」
「それを当たり前にできるところが、好き」
「す、好きって……」
「うん。好きだよ」
彼女は今度は視線を逸らさず、真っ直ぐに僕を見つめて微笑んだ。
「でも、今はペアとしてね」
「今は?」
「そこを自分から聞き返せるようになったら、また教えてあげる」
立花さんは意味深な言葉を残して立ち上がると、軽やかな足取りでコートへと戻っていった。
僕だけがベンチに取り残され、激しく高鳴る胸の鼓動を落ち着かせるまでに、かなりの時間を要してしまった。
ふと視線を感じて隣のコートへ目を向けると、そこにはラケットを両手で強く握りしめたまま、こちらをじっと凝視している笹浪さんの姿があった。
「ずるい……」
「笹浪さん?」
「立花さんだけ、なつめくんと楽しそうにしてる……」
彼女の表情は、今までに見たことがないほど真剣そのものだった。
きっと、僕たちとの試合に負けたことがよっぽど悔しかったのだろう。
次に対戦するときは、笹浪さんにも打ちやすい優しい球を返そう――僕がそんな場違いなことを考えていると、少し離れた場所から、立花さんの深いため息が聞こえてきた。
「なつめくんって、本当に幸せそうだね」
「はい。皆さんとこうして体育ができるのは、すごく楽しいです」
「……その答えが出てくるなら、今はそれでいいかな」
なぜか立花さんまで、遠い目をして呆れたように呟いていた。
※ ※ ※
体育の授業をどうにか乗り切り、男子更衣室として使われている一年二組の教室で着替えを済ませた。
そのまま午後の授業も終わり、放課後の時間を迎える。
今日は珍しく、いつも僕の周りにいる三郷からも、神木さんからも声をかけられなかった。
一人静かに机の上で帰る支度を整えていると、不意に、僕の机の横にすっと誰かの影が落ちた。
「ねえ、なつめくん」
顔を上げると、そこには笹浪さんが立っていた。
体育の時にコートの向こうから向けられていたあの鋭い眼光は、完全に消え失せている。
その代わり、今の彼女はどこか不安げに、自分の胸の前で細い指先をぎゅっと絡めていた。
「どうしたの、笹浪さん?」
「少し、聞きたいことがあるの。なつめくんは、その……今、好きな子、いるの?」
ストレートな質問に、僕はすぐには答えられなかった。
三郷とは付き合っている。けれど、彼女のことを本当に『異性として好きなのか』と問われれば、今の僕には自信を持って頷くことができなかった。
そんな曖昧な気持ちのまま、彼女の恋人だと胸を張って名乗っていいのだろうか。
「付き合っている人はいるけど……好きかどうかは、まだよく分からないんだ」
「分からない?」
「僕は、人を好きになることがどんな感情なのか、まだちゃんと理解できてないみたいで」
過去のトラウマに囚われていた僕は、誰かを心から信じることすら怖かった。
誰からも嫌われないように偽りの笑みを浮かべ、これ以上傷つかないように人と適切な距離を取って生きてきた。
そんな歪んだ僕が、恋愛だけを器用にこなせるはずがないのだ。
「ごめんね。変な答えだよね」
「ううん」
笹浪さんは小さく首を横に振った。
僕の答えを聞いた彼女の表情が、ほんの少しだけ、明るくなったように見えた。
「じゃあ、笹浪さんはいるの? 好きな人」
「うん。いるよ」
「そっか」
僕は彼女の恋を応援したくて、自然と笑みを浮かべていた。
「きっと、笹浪さんに好きになってもらえる人は幸せだね。笹浪さんは優しいし、何事にも一生懸命だから。僕だったら、そんな素敵な人に想ってもらえたら、すごく嬉しいと思う」
好きな相手に自分の気持ちが届く保証なんて、どこにもない。
それでも、僕は目の前の優しい彼女の恋が、どうか上手くいってほしいと心から願った。
「応援するよ。僕にできることがあったら、何でも言ってね」
「何でも?」
「うん」
「本当に、何でもしてくれる?」
「僕にできることなら」
僕が力強く頷くと、笹浪さんは突然ガタッと音を立てて俯いてしまった。
その隙間からのぞく彼女の耳が、真っ赤に染まっている。
「じゃあ……絶対に途中で逃げないでね」
「逃げる?」
「こっちの話!」
笹浪さんは勢いよく顔を上げると、呆れたように、それでもどこか愛おしそうに微笑んだ。
「この無自覚人たらし」
「え?」
「何でもない! 明日は一緒に帰ろうね、なつめくん」
「明日?」
「うん。約束!」
笹浪さんは僕の制服の手元へと手を伸ばすと、僕の小指を取り、自分の細い小指を絡めてきた。
その仕草自体はとても可愛らしかったのに、絡められた指先からは、何があっても絶対に離さないという、底知れない強い意思が伝わってきた。
「破ったら、迎えに行くからね」
「迎えに?」
「どこにいても」
僕が返事をするよりも早く、笹浪さんは顔を真っ赤にしたまま、疾風のように教室から出ていってしまった。
僕は一人、誰もいなくなった教室で首を傾げる。
彼女の恋を応援するつもりだったはずが、なぜか明日、二人きりで一緒に帰る約束が成立してしまっていた。
※ ※ ※
今日は誰とも合流することなく、一人で静かに家への道を歩いた。
冷たい鍵を開けて玄関の扉を開けても、家の中から返事が返ってくることはない。
「ただいま」
静まり返った薄暗い廊下に、僕の寂しい声だけが虚しく響いた。
僕の両親は、僕が幼い頃にすでに離婚している。
母に引き取られた僕は、今も二人でこの家に住んでいるが、母は生活を支えるために夜遅くまで働いているため、僕は一日の大半を一人きりで過ごしていた。
誰もいない居間の電気をつける。
パッと明るくなった室内の窓辺には、昔撮影した、まだ幸福だった頃の家族写真が置かれていた。
父と母と、まだ純粋に笑っていた幼い僕。
三人とも満面の笑みを浮かべている。けれど、その写真立てのガラス表面には一本の鋭い亀裂が走り、ちょうど僕たち家族の絆を分断するように冷たく伸びていた。
昔の僕は、毎晩のようにあの良かった頃へ戻りたいと神様に何度も願っていた。
壊れる前の、温かかった家族へ。誰も僕を傷つけず、僕も誰も疑わずに済んだ、あの無垢な世界へ。
けれど、今日という一日を振り返る。
学校には、僕の到着を待ってくれる人がいた。
一緒に体育をして、同じ勝利を喜び、笑い合ってくれた人がいた。
僕の好きな人について、顔を真っ赤にしながら勇気を出して尋ねてくれた人もいた。
さっきまで僕に敵意を向けていた男子と、最後にはしっかりとした握手を交わすことができた。
誰かを助けたことで、僕の周りの世界が、ほんの少しだけ優しく変わったのだ。
過去へは二度と戻れなくても、今ここから、新しい温かい関係を作っていくことはできるのかもしれない。
「良い日が来るのを待つだけじゃ、駄目だよね」
僕は愛おしさを込めて写真立てを手に取り、表面に薄く積もっていた埃をゆっくりと拭った。
「僕が、作らないと」
誰かを大層に救えるほど、今の僕は強くない。
それでも、目の前で本当に困っている人へ、迷わず手を伸ばすことくらいならできるはずだ。
昔の、孤独だった僕が喉から手が出るほど欲しかった『救いの手』を、今の僕なら、誰かに渡せるかもしれない。
写真を元の位置へ戻した、まさにその直後だった。
ズボンのポケットの中で、スマートフォンが激しく震えた。
画面を見ると、三郷からの新着メッセージが表示されている。
『なつめくん。今日は立花さんとずいぶん楽しそうだったわね。明日、放課後に詳しく聞かせて?(にっこり)』
メッセージの最後に添えられた顔文字は、確かに微笑んでいるはずだった。
なのに、なぜだろう。
画面から放たれるその圧倒的なプレッシャーに、背筋がゾクリと凍りつくような恐怖を覚えた。
明滅する画面に並ぶ彼女の名前を見て、僕は小さく、苦笑混じりのため息を吐き出した。
「……明日も、かなり大変そうだな」
そう呟きながらも、不思議と胸の奥は嫌な気持ちではなかった。
昔の僕は、誰からも見つからない暗い場所へ逃げ出したいとばかり思っていた。
けれど今の僕には、僕を見つけ出し、真っ直ぐに名前を呼んでくれる大切な人たちがいる。
彼女たちの僕に向ける感情が、恋なのか、あるいはただの激しい執着なのか、まだ僕には分からない。
それでも――。
もう一度だけ、人を心の底から信じてみたいと思えるくらいには。
僕の凍りついていた日常は、確かに、優しく温かくなり始めていた。
―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
少しでも続きが気になった方は、これからの執筆へのモチベーションに繋がりますので、作品フォロー&★評価機能で応援いただけると大変励みになります!
すでに応援いただいている読者様には感謝しかないです! 頑張って続きを書いていきますので、よろしくお願いします!
※この作品の評価機能は最新話のページ下部より可能です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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