第10話 本当の獣は牙を隠して相手を襲う

「私と一緒にいるのは、嫌なの?」


 笹浪さんは潤んだ瞳で、僕を見上げていた。


 弱々しい問いかけとは裏腹に、僕の腕を掴んでいる指には強い力が込められている。少しでも気を緩めれば、僕が姫月さんのほうへ行ってしまうと思っているかのようだった。


「嫌なわけないよ」


「でも、姫月さんとはデートしてる」


「それは、その……仮交際の一環だから」


「私とはしてくれないのに」


 笹浪さんの声が、さらに小さくなる。


 その隣で、姫月さんは珍しく言い返さなかった。


 僕たちの会話を聞いているはずなのに、どこか遠い過去を見ているような表情を浮かべている。


 何年も前から僕を知っていた。


 先ほど姫月さんが口にした言葉が、頭から離れない。


 僕は姫月さんと、いったいどこで会ったのだろう。


 彼女はどうして、僕にだけここまで執着するような態度を見せるのか。


「なつめくん」


 笹浪さんの低い声で、現実へ引き戻された。


「え?」


「また姫月さんを見てた」


「ご、ごめん。少し考え事をしていて」


「私が目の前にいるのに?」


 笹浪さんの瞳から、僅かに光が消える。


「やっぱり、今の私じゃ駄目なんだ」


「そんなことはないよ」


「でも、なつめくんが見てるのは姫月さんばっかり」


 言葉に詰まった。


 姫月さんを見ていたのは、彼女の過去が気になったからだ。決して、笹浪さんを蔑ろにしたかったわけではない。


 けれど、今の笹浪さんに何を言っても、言い訳に聞こえてしまう気がした。


 しばらく俯いていた笹浪さんは、やがて何かを決意したように僕の腕を離した。


「笹浪さん?」


「ねえ、なつめくん」


 彼女は乱れた前髪の隙間から、僕を真っ直ぐに見つめる。


「私が髪を整えて、服もちゃんとして、お化粧もしたら……なつめくんは私を見てくれる?」


「もちろん見るよ」


「本当に?」


「うん。ただでさえ可愛い笹浪さんがお洒落をするんだから、楽しみに決まってる」


 僕は思ったことを、そのまま口にしただけだった。


 しかし笹浪さんは、息をすることさえ忘れたように目を見開いた。


「ただでさえ、可愛い……?」


「うん。今の笹浪さんも十分可愛いよ」


「髪、ぼさぼさなのに?」


「それも笹浪さんらしいと思うし」


「目つきも暗いし、愛想もないよ」


「でも、僕が一人でいる時に隣にいてくれた。見た目より、そっちのほうがずっと大切だよ」


 笹浪さんの頬が、見る見る赤く染まっていく。


 やがて彼女は顔を伏せ、肩を震わせた。


 泣かせてしまったのかと思ったが、次に顔を上げた時、その口元には強い笑みが浮かんでいた。


 普段の眠たげで儚い表情とは違う。


 何かを勝ち取ろうとする、覚悟を決めた少女の顔だった。


「分かった」


「何が?」


「なつめくんが、そう言うなら」


 笹浪さんは一歩後ろへ下がる。


 僕には柔らかく微笑んだあと、姫月さんへ視線を移した。


 その瞬間だけ、表情から温度が消える。


「今は、姫月さんに貸してあげる」


「貸す?」


 姫月さんの眉が、僅かに動いた。


「なつめくんは、あなたのものではないわ」


「それは姫月さんも同じ」


 二人の間に、冷たい火花が散る。


「次に会う時は、絶対に私を見てもらうから」


 笹浪さんはそう言い残すと、踵を返した。


「笹浪さん、もう帰るの?」


「用事を思い出した」


「一人で大丈夫?」


「大丈夫。なつめくんのためだから」


「僕のため?」


「何でもない」


 それ以上は教えてくれなかった。


 去っていく背中に、いつもの頼りなさはない。


 伸ばしっぱなしの髪を風に揺らしながら、彼女は一度も振り返らず、人混みの向こうへ消えていった。


「……妙ね」


 隣で姫月さんが呟く。


「何が?」


「あの子の目よ」


 姫月さんは、笹浪さんが消えた方向を鋭く見つめていた。


「何かを決めた人間の目をしていた」


「お洒落をしてみようと思っただけじゃないですか?」


「あなたは、もう少し自分が女の子へ与える影響を理解するべきね」


「僕が?」


「ええ。あれは、お洒落をしたい女の顔ではないわ」


 姫月さんは僕の腕を抱き寄せ、逃がさないように指を絡める。


「好きな男を、ほかの女から奪い取ろうとしている顔よ」


        ※ ※ ※


 夕方。


 僕と姫月さんは、ショッピングモールを出た。


 西へ傾いた太陽が空を橙色に染め、街並みの影を長く伸ばしている。


 僕は足を止め、思わず空を見上げた。


「どうしたの?」


「綺麗だなと思って」


「夕焼けが?」


「それもありますけど、こうして誰かと遊んだ帰りに、一緒に同じ空を見るのは初めてなので」


 友達の少ない僕には、休日に誰かと出かける経験そのものがほとんどない。


 一人で見る夕焼けと、誰かの隣で見る夕焼け。


 同じ景色のはずなのに、不思議と今のほうが鮮やかに見えた。


「今日は、ありがとうございました」


「どうしてお礼を言うの?」


「すごく楽しかったからです」


 僕は姫月さんへ向き直った。


「姫月さんみたいな綺麗な人とデートができて、本当に楽しかったです」


「……あなたね」


 姫月さんは一瞬で頬を赤くすると、僕から顔を逸らした。


「よく、その性格で今まで無事に生きてこられたわね」


「どういう意味ですか?」


「この人たらし」


「僕がですか?」


「自覚がないから、もっと悪質なのよ」


 姫月さんは不満そうに頬を膨らませた。


 氷の女王と呼ばれている彼女が見せるには、あまりにも幼く可愛らしい仕草だった。


「でも、今日は本当に楽しかったです」


「二度も言わなくても聞こえているわ」


「大切なことなので」


「……三度目は許さないわよ」


 そう言いながらも、姫月さんの口元は嬉しそうに緩んでいた。


 ふと何かを思い出したように、彼女は鞄からスマートフォンを取り出す。


「そういえば、私たち、まだ連絡先を交換していなかったわね」


「確かに、恋人なのに連絡先を知らないのは変ですね」


「仮の、だけれど」


 付け加えた声は、どこか寂しそうだった。


「僕と交換しても大丈夫ですか? ほかの人から何か言われたりしませんか?」


「誰に許可を取る必要があるの?」


「友達とか……」


「残念ながら、私には友達と呼べる相手がそれほど多くないわ」


 淡々とした口調だった。


 しかし、その言葉の奥にある寂しさを感じ、胸が痛んだ。


「それなら、これからは僕がたくさん連絡します」


「え?」


「友達が少ない寂しさは、僕にも分かりますから。姫月さんが迷惑じゃなければ、ですけど」


「迷惑なわけがないでしょう」


 姫月さんは即答した。


「毎日送りなさい」


「毎日ですか?」


「朝と夜は必ず」


「恋人というより、定期連絡みたいですね」


「既読がつかない時は電話するわ」


「僕が寝ていたら?」


「起きるまでかける」


 冗談だと思って笑ったものの、姫月さんの目は真剣だった。


 彼女が表示した連絡先交換用のコードを読み取る。


 僕のスマートフォンの画面に、姫月三郷という名前が追加された。


 家族と企業の公式アカウントばかりだった一覧へ、初めて同年代の女子の名前が並ぶ。


「追加できました」


「今、何か送って」


「今ですか?」


「ちゃんと届くか確認したいから」


 僕は少し考え、短い文章を送信した。


『今日はありがとうございました。また一緒に出かけたいです』


 送った直後、姫月さんのスマートフォンが鳴る。


 画面を確認した彼女は、しばらく何も言わなかった。


「何か変でしたか?」


「いいえ」


 姫月さんはスマートフォンを胸元へ抱き締めた。


「絶対に消さないだけ」


「そこまで大事な内容ではありませんよ」


「私には大事なの」


 小さく呟いたあと、姫月さんは僕へ柔らかく微笑んだ。


「それじゃあ、また週明けに会いましょう。私の彼氏さん」


「はい。また学校で」


「敬語」


「……また学校でね、姫月さん」


「それも、いずれ直してもらうから」


 何のことか分からないまま、僕たちは帰路についた。


        ※ ※ ※


 週明けの月曜日。


 僕はいつもどおり一人で学校へ向かっていた。


 髪を切ってから数日が経ったものの、周囲からの視線にはまだ慣れない。


「やっぱり影久くん、隠れイケメンだったんだよ」


「前髪で顔が見えなかったもんね」


「連絡先、聞いてみようかな」


 近くを歩く女子生徒たちの声が聞こえる。


 その一方で、男子生徒からは、理由の分からない敵意を含んだ視線が向けられていた。


 居心地の悪さを感じながら校門を抜けた時、その視線が一斉に逸れる。


 理由はすぐに分かった。


 前方に、姫月さんが立っていたからだ。


 周囲の生徒が無意識に距離を空ける中、彼女は真っ直ぐ僕のもとへ歩いてくる。


「おはよう、影久なつめくん」


「おはようございます、姫月さん」


 挨拶を返すと、姫月さんは明らかに不満そうな顔をした。


「今さらだけれど」


「はい?」


「私たちは仮とはいえ、恋人同士なのよね」


「そうですね」


「敬語はやめて」


「急に言われても、なかなか……」


「それと、姫月さんも禁止」


「では、何と呼べば?」


「三郷」


 姫月さんは当然のように言い切った。


「名前で呼んで」


「でも、人前で急に名前を呼ぶのは恥ずかしいというか……」


「私は、なつめくんと呼んでいるでしょう?」


「それはそうですけど」


「呼んでくれないなら、今日はずっとここから動かないわ」


 本気で実行しそうだった。


 周囲から集まる視線に耐えられず、僕は覚悟を決める。


「お、おはよう……三郷」


「ええ。おはよう、なつめくん」


 先ほどまでの不満が嘘だったように、三郷は嬉しそうに微笑んだ。


 それだけで、周囲から悲鳴にも似た声が上がる。


 三郷は気にする様子もなく、僕の空いている手を取った。


「行きましょう」


「うん」


 繋がれた手に引かれ、昇降口へ向かおうとした。


 その時だった。


 三郷の足が、突然止まる。


「どうしたの? 三郷」


 返事はなかった。


 彼女は昇降口の一点を、目を見開いたまま見つめている。


 僕もその視線を追いかけた。


 朝日が差し込む昇降口の中央に、一人の少女が立っていた。


 最初に目を奪われたのは、髪だった。


 いつもは好き勝手に跳ね、顔の多くを隠していた茶髪が、今日は丁寧に梳かされている。柔らかな毛先は胸元で緩やかに内側へ曲がり、歩くたびに絹のような艶を帯びて揺れていた。


 長い前髪も整えられ、これまで隠れていた顔がはっきりと見える。


 薄く施された化粧は、彼女の儚げな美しさを損なっていない。


 眠たげだった瞳は淡い色で縁取られ、伏せられた長い睫毛が、朝の光を受けて影を落としている。


 制服も、これまでとはまるで違った。


 皺一つなく整えられたシャツ。


 結び直されたリボン。


 少し大きすぎたカーディガンは体に合うものへ替えられ、細い腰と華奢な輪郭を上品に引き立てている。


 派手ではない。


 それでも、誰もが一度は振り返らずにいられない。


 普段は分厚い雲に隠れていた月が、一夜にして姿を現したようだった。


「誰、あの子……」


「一年生?」


「芸能人じゃない?」


 生徒たちの囁きが、昇降口へ広がっていく。


 けれど僕は、彼女が誰なのか一目で分かった。


 髪型も。


 化粧も。


 纏っている雰囲気も。


 何もかもが変わっている。


 それでも、僕を見つめる不安そうな瞳だけは、いつもと同じだったからだ。


「笹浪さん?」


 僕が名前を呼ぶと、少女の肩が大きく震えた。


「……分かったの?」


 消え入りそうな声だった。


「もちろんだよ」


「でも、こんなに変わったのに」


「見た目が変わっても、笹浪さんは笹浪さんでしょう?」


 僕は思わず三郷の手を離し、笹浪さんのもとへ歩み寄った。


「すごく似合ってる」


「本当?」


「うん。昨日も可愛いと思っていたけど、今日は驚くくらい綺麗だよ」


 笹浪さんの瞳が、潤む。


「ただ」


「……ただ?」


「無理はしてない?」


 彼女の顔へ、僅かに疲れが残っているように見えた。


「もしかして、昨日はあまり寝てない?」


「どうして分かるの?」


「少し目が赤いから」


「ずっと、髪とかお化粧の練習してた」


「僕のために?」


 笹浪さんは黙って頷いた。


 胸が締めつけられた。


 僕へ見てほしいという理由だけで、慣れないことを一晩中続けたのだろう。


「ありがとう」


「……迷惑?」


「迷惑なわけないよ」


 僕は乱れかけていた彼女の髪を、指先でそっと整えた。


「こんなに頑張ってくれたことが嬉しい。でも、笹浪さんが辛くなるまで無理をしてほしくない」


「なつめくんが見てくれるなら、辛くない」


「僕は、どんな笹浪さんでもちゃんと見てるよ」


「……っ」


「今日みたいに綺麗にした笹浪さんも、いつもの少し髪が跳ねた笹浪さんも、どちらも大切な笹浪さんだから」


 堪えていたものが崩れたように、笹浪さんの瞳から涙が零れた。


 せっかくの化粧が崩れてしまう。


 僕が慌ててハンカチを取り出すと、彼女は自分から僕の手へ頬を寄せた。


「私、綺麗?」


「うん」


「三郷さんよりも?」


 答えに困った。


 比べるものではないと思う。


 しかし、今の彼女が求めている言葉も理解できた。


「三郷とは違う綺麗さだよ」


「一番じゃないんだ」


 笹浪さんの瞳が曇る。


「でも、今日一番驚かされたのは笹浪さんだよ」


「……本当?」


「本当。見た瞬間、目を離せなかった」


 その言葉を聞いた途端、笹浪さんの表情が花開くように明るくなる。


「じゃあ、成功」


「成功?」


「なつめくんに、私だけを見てもらう作戦」


 涙に濡れた瞳で笑う彼女は、先ほどよりもさらに綺麗に見えた。


「これから毎日、この格好にする」


「毎日は大変じゃない?」


「大丈夫。なつめくんが見てくれるから」


「でも、眠る時間はちゃんと取ってね」


「じゃあ、毎朝褒めて」


「それで眠ってくれるなら」


「約束だから」


 笹浪さんは僕の腕を抱き、体を密着させた。


 その背後から、凍てつくような冷気が流れてくる。


 振り返ると、三郷が無表情で立っていた。


 先ほどまで繋いでいた自分の手を見下ろし、その手を奪った笹浪さんへ視線を移す。


「随分と、見違えたわね」


「なつめくんに見てもらうために頑張ったから」


「そう」


 三郷は微笑んだ。


 ただし、瞳には一切の光がない。


「でも、彼にはすでに恋人がいるのよ」


「仮の、だけど」


「人前でそれを言わない約束でしょう?」


「私は約束してない」


 笹浪さんは僕の腕をさらに強く抱き締めた。


「それに、なつめくんは私を見た瞬間、三郷さんの手を離した」


 三郷の頬が引きつる。


 僕はそこでようやく、自分が無意識に彼女の手を離してしまったことに気づいた。


「ご、ごめん、三郷。笹浪さんがあまりにも変わっていたから」


「あまりにも綺麗だったから?」


「それもあるけど――」


「言い訳はいいわ」


 三郷は僕の反対側の腕へしがみつき、笹浪さんに負けない強さで抱え込む。


「行きましょう、なつめくん」


「どこへ?」


「教室よ。私の恋人として、私と一緒に」


「私も同じクラスだから一緒に行く」


「あなたは一人で歩けるでしょう?」


「三郷さんも歩ける」


 二人の間に挟まれながら、僕は周囲から向けられる視線へ気づいた。


「影久、両側に美少女が……」


「あの子、笹浪さんだったの?」


「今日から絶対人気出るぞ」


「姫月さん、顔が怖い……」


 僕の学校生活は、髪を切った日から急激に変わり始めた。


 そして今日。


 これまで自分を隠していた笹浪寿羽という少女が、僕へ見てもらうために、美しい姿で光の下へ踏み出した。


 その姿を、僕はきっと忘れない。


 同時に、彼女が纏っていたのは綺麗な服や化粧だけではなかった。


 僕を誰にも渡さないという、静かで重い覚悟もまた、あの朝の彼女を誰より美しく見せていた。



―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


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すでに応援いただいている読者様には感謝しかないです! 頑張って続きを書いていきますので、よろしくお願いします!


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