第9話 幼き日の過去
僕には、好きな人がいた。
正確には、過去形だ。
優しく声をかけてくれたクラス一番のマドンナへ本気で恋をして、その想いを利用され、嘘の告白で弄ばれた。
挙げ句の果てには、身の程も知らずに夢を見すぎだと笑われた。
そんな僕が地面へ崩れ落ちそうになった時、手を差し伸べてくれた少女がいる。
姫月三郷さん。
入学直後の試験では学年一位。教師から出された難問を、授業で扱われていない解法を用いて難なく解き、運動でも大抵の競技を人並み以上にこなす。
幼い頃からピアノや語学、書道など多くの分野で賞を取り、容姿まで誰もが振り返るほど整っている。
才色兼備。
その言葉を人の姿にしたなら、きっと姫月さんのようになるのだろう。
けれど、完璧すぎるがゆえに近寄り難く、他人へ関心を示さない冷淡な振る舞いから、学校では『氷の女王』と呼ばれていた。
そんな彼女が、どうして僕を助けてくれるのか。
尋ねても、彼女は昔に会ったことがあるとしか答えてくれなかった。
僕には、まるで覚えがない。
しかし今は、過去について深く考えている場合ではなかった。
「なつめくん。私が一番近くで、あなたを見てきた」
笹浪さんが、僕の右腕を両手で抱き締める。
「だから、姫月さんより私を選んで」
「それは違うわ」
反対側では、姫月さんが僕の左手へ指を絡ませていた。
「前にも言ったでしょう。あなたが彼と出会ったのは一か月前。私は、もっと前から影久なつめを知っている」
姫月さんの声は静かだった。
けれど、僕の腕を握る指には、逃がすつもりなど一切ないことを示すような力が込められている。
「そう。何年も前からね」
「何年も前から知っていたのに、今まで何も言わなかった」
笹浪さんの瞳から光が消える。
「それなら、ずっとそばにいた私のほうが大切」
「そばにいる時間の長さだけで決まるものではないわ」
「じゃあ、何で決まるの?」
「彼の心に、誰が一番深く残っているかよ」
二人の視線が正面から衝突した。
僕を挟んでいるのは、学校でも指折りの美少女たちだ。
普通なら、両手に花と表現するのだろう。
しかし今の僕が両手に抱えているものは、美しい花などではない。
触れれば指どころか全身を切り裂かれそうな、血に濡れた薔薇だ。
二人が、獲物を前にした猛獣のような目で僕を見る。
その瞬間、僕の中に眠っていた生存本能が、はっきりと告げた。
逃げろ、と。
※ ※ ※
姫月三郷と、影久なつめが初めて出会ったのは、今から六年前。
私が小学四年生だった頃のことだ。
幼い頃から、私は何でもできた。
一度読んだ教科書の内容はほとんど忘れず、授業中に教師が説明するよりも先に、問題の答えが分かった。
ピアノの曲は数度聞けば指が動き、海外の本も、辞書さえあれば年齢に不相応な速度で読み進められた。
運動だけは専門的に習っていなかったけれど、走らせればクラスで一番。球技でも、少し練習すれば経験者と同じ程度には動けた。
周囲の大人は私を褒めた。
天才。
将来が楽しみ。
何をさせても完璧な子。
何度も同じ言葉を聞かされ、私はやがて、それが当然なのだと思うようになった。
誰かが苦労して解いている問題も、私には簡単だった。
誰かが何日も練習して覚えることも、私はすぐにできた。
だから、他人へ興味を持てなかった。
話をしても退屈で、同じ時間を過ごす意味を感じられない。
名前を尋ねられれば答えはしたけれど、こちらから覚えようとは思わなかった。
同じクラスに半年以上いた相手でさえ、興味がなければ名前と顔が一致しない。
必要のない情報を記憶へ残すことは、私にとって無駄でしかなかった。
そんな態度が、周囲からどのように見えていたのか。
当時の私は、理解しようともしなかった。
『姫月さんって、私たちのこと馬鹿にしてるよね』
『天才だからって、偉そう』
『顔が可愛いから、先生も贔屓してるんだよ』
陰口は、やがて露骨な嫌がらせへ変わった。
私物を隠され、机へ落書きをされ、班決めでは誰からも拒絶された。
それでも、私は平気なふりをした。
実際、その子たちの名前すら覚えていなかった。
名前も知らない相手に何を言われても、気にする必要などない。
そう自分へ言い聞かせていた。
けれど、本当は違った。
誰にも必要とされないことが、寂しかった。
完璧であることを褒められても、私自身を見てもらえたことは一度もなかった。
あの日、私は学校からの帰り道で、数人の同級生に囲まれていた。
「姫月さんって、自分が特別だと思ってるでしょ?」
「私たちの名前だって知らないんじゃない?」
実際、知らなかった。
顔には見覚えがあったけれど、名前は一人も思い出せない。
私が答えずにいると、それを肯定と受け取ったらしい。
「ほら、やっぱり」
「そんな性格だから、友達いないんだよ」
肩を押され、背中が塀へぶつかった。
痛みよりも、言葉のほうが胸へ深く突き刺さる。
友達がいない。
それは、どれほど勉強ができても否定できない事実だった。
「な、何やってるの……?」
震えた声が聞こえた。
同級生たちが振り向く。
少し離れた場所に、一人の男の子が立っていた。
背は特別高くない。声も小さく、足は今にも逃げ出しそうに震えている。
強そうには見えなかった。
むしろ、囲んでいた子たちよりも弱そうだった。
「いじめは、よくないよ」
「何こいつ」
「姫月さんの知り合い?」
私は、その男の子を知らなかった。
顔を見たこともない。
それなのに彼は、怖がりながらも私たちの間へ入ろうとした。
「か、関係ないならどっか行きなよ」
「関係なくても、嫌がってる人を囲むのは駄目だよ」
声は震えている。
言葉にも迫力はない。
同級生たちは、今度は彼を笑い始めた。
「何、格好つけてるの?」
「弱そうなのに、ヒーローのつもり?」
男の子の顔が青ざめる。
それでも、彼は逃げなかった。
一度だけ周囲へ視線を動かしたあと、私の手を取った。
「走って!」
「え?」
次の瞬間、彼は私の手を引いて駆け出した。
格好よく相手を倒したわけではない。
言葉で言い負かしたわけでもない。
ただ私を連れて、全力で逃げただけだった。
背後から罵声が飛んでくる。
「逃げた!」
「弱虫!」
その言葉が耳へ入るたびに、握られた手へ力が込められた。
必死に走り続け、私たちは誰もいない小さな公園へたどり着いた。
男の子は何度も後ろを確認し、追ってくる者がいないと分かると、ようやく足を止めた。
「ご、ごめん。勝手に手を引っ張って」
息を切らしながら、彼は私の手を離した。
「でも、あそこにいたら、もっと酷いことを言われそうだったから」
私は何も答えられなかった。
安心した途端、それまで堪えていたものが一気に溢れ出す。
涙が頬を伝った。
「えっ……」
男の子は明らかに動揺した。
「どこか痛いの?」
「違う」
「僕が強く引っ張ったから?」
「違うって言ってるでしょう!」
八つ当たりのように声を上げると、彼は小さく肩を跳ねさせた。
それでも逃げず、私の隣へ座る。
「じゃあ、落ち着くまでここにいるよ」
「どうして?」
「一人で泣くのは、寂しいから」
その言葉で、涙がさらに溢れた。
彼は理由を尋ねなかった。
泣くなとも、元気を出せとも言わなかった。
ただ私が泣き止むまで、隣へ座っていてくれた。
私がようやく顔を上げると、彼は困ったように笑った。
「少しは落ち着いた?」
「……どうして、私を助けたの?」
「どうしてって?」
「あなたには、関係なかったでしょう」
「関係なくても、嫌なことをされてる人を放っておけないよ」
「あなたまで馬鹿にされていた」
「うん。怖かった」
彼は恥ずかしそうに笑う。
「本当は、今も足が震えてる」
見ると、確かに彼の膝は小さく震えていた。
「それなのに、助けたの?」
「君が、もっと怖そうだったから」
自分も怖かったのに、私のほうを優先した。
そんな人間が、この世界にいるとは知らなかった。
「あの子たちが言っていたことを、気にしなくていいよ」
「でも、本当よ」
「何が?」
「私には、友達がいない」
初めて、誰かへ弱音を吐いた。
「私は頭がよくて、何でもできる。だから、ほかの人に興味を持てなかった。名前だって覚えていない」
「そっか」
「最低だと思わないの?」
「思わないよ」
彼は否定も説教もしなかった。
「でも、名前を覚えてもらえなかったら、少し寂しいかも」
「……そう」
「これから覚えればいいんじゃないかな。大事だと思った人の名前から、少しずつ」
簡単に言ってくれる。
けれど、その言葉は、どんな大人の教えよりも素直に胸へ入ってきた。
「それに、君はすごいんだね」
「すごい?」
「頭もよくて、何でもできて、それに……すごく可愛い」
「か、可愛い?」
「うん」
彼は照れながらも、真っ直ぐに私を見た。
「僕にはもったいないくらい、可愛いと思う」
今になって考えれば、彼はあの頃から無自覚に人を勘違いさせる言葉を口にしていた。
けれど当時の私にとっては、初めて能力以外の部分を褒めてくれた人だった。
天才だからでも、賞を取ったからでもない。
ただ一人の女の子として、可愛いと言ってくれた。
「あなた、名前は?」
私は尋ねた。
名前を覚えたいと思ったのは、それが初めてだった。
彼は少しだけ背筋を伸ばし、慣れない優しい笑顔を浮かべた。
「影久なつめ、です」
「影久、なつめ」
私は、その名前を繰り返した。
文字の形も、音の響きも、二度と忘れないように記憶へ刻み込む。
「君は?」
「え?」
「僕だけ名乗るのも変だから。君の名前も教えて」
周囲の誰もが知っている名前だった。
それでも彼は、私自身の口から聞こうとしてくれた。
「姫月三郷」
「三郷ちゃん、だね」
その呼び方だけで、胸の奥が熱くなる。
なつめくんはポケットからハンカチを取り出し、私の頬へ残っていた涙を拭った。
「もう大丈夫?」
「……分からない」
「じゃあ、もう少しここにいる?」
「うん」
彼の手が、恐る恐る私の頭へ触れる。
子供を慰めるように、優しく髪を撫でられた。
「なつめくん」
「何?」
「私、興味のない人の名前は覚えないの」
「そうなんだ」
「今日、私を囲んでいた人たちの名前も、一人も知らない」
「それは少し覚えたほうがいいかもね」
「でも」
私は彼の袖を掴んだ。
「あなたの名前は、絶対に忘れない」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「一生、忘れないから」
「一生は大げさだよ」
なつめくんは、困ったように笑った。
けれど、私は本気だった。
彼は知らなかったのだ。
姫月三郷という人間が、一度必要だと判断した情報を決して忘れないことを。
誕生日も、好きだと言っていた本も、利き手も、笑う時に僅かに目尻が下がることも。
あの日から、私は影久なつめに関するすべてを記憶へ刻み続けた。
興味のない人間の名前など、一日で忘れた。
けれど彼の名前だけは、六年経っても一度たりとも薄れなかった。
むしろ会えない時間が長くなるほど、記憶の中の彼は、私にとって唯一無二の存在へ変わっていった。
だから、再会した時もすぐに分かった。
長い前髪で顔を隠し、声を小さくし、自分の価値を押し殺していても。
誰かが困っていれば、自分を後回しにして手を差し伸べる。
その優しさだけは、六年前から何一つ変わっていなかったから。
影久なつめ。
私が初めて、自分から覚えたいと思った名前。
そして、どれほど時間が流れても、誰にも譲るつもりのない人の名前だった。
―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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