第8話 どちらを選ぶの?

 週末の土曜日。


 僕は約束の時間より二十分ほど早く、ショッピングモールの正面入口へ到着していた。


 休日ということもあり、周囲には家族連れや学生、恋人らしき男女が絶え間なく行き交っている。待ち合わせをしている人も多く、誰も僕のことなど気にしていない。


 それなのに、落ち着かなかった。


 何度もスマートフォンの時計を確認し、ガラスへ薄く映った自分の髪を整える。


 立花さんたちのおかげで以前より身なりは整ったものの、中身まで急に変わったわけではない。


 友達すら少なかった僕が、学校一の才女と休日に二人で出かける。


 しかも相手は、氷の女王と呼ばれている姫月三郷さんだ。


 仮交際の一環だと分かっていても、緊張しないほうが無理だった。


「やっぱり、早く来すぎたかな……」


 約束の時間までは、まだ十分以上ある。


 近くの店でも見ていようかと考えた、その時だった。


 入口付近を流れていた人の波が、不自然に左右へ分かれる。


 通り過ぎる人々の視線が、一人の少女へ吸い寄せられていた。


 艶やかな黒髪を背中へ流し、白いブラウスに淡い水色のロングスカートを合わせている。清楚で落ち着いた服装ながら、立ち姿には誰も近づけないような凛々しさがあった。


 学校の制服姿とは違う。


 それでも、彼女が姫月さんだと一目で分かった。


 男女を問わず周囲の人間を振り返らせる美しさと、近寄り難いほど研ぎ澄まされた空気。


 けれど、僕を見つけた瞬間だけ、その冷たい雰囲気が柔らかく溶けた。


「お待たせ、なつめくん」


「い、いえ。僕も今来たところです」


「嘘ね」


「え?」


「あなた、十五分以上前からここにいたでしょう?」


「どうして分かったんですか?」


「少し離れたところから見えていたから」


 姫月さんはそう言いながら、僕の前まで歩いてきた。


「待ち合わせに遅れないよう、早めに来てくれたのでしょう?」


「姫月さんを待たせたくなかったので」


「……そういうことを、何でもないように言うのね」


「変なことを言いましたか?」


「いいえ。むしろ、あなたらしいわ」


 姫月さんは満足そうに微笑むと、僕の右手を取った。


 指と指を絡める、いわゆる恋人繋ぎだった。


「ひ、姫月さん?」


「恋人同士のデートなのだから、普通でしょう?」


「今日は仮交際の練習ですよね?」


「人前で仮だと言わないで」


 握られた手に、僅かに力が込められる。


「今ここで、私たちが本物かどうかを知っている人はいない。なら、あなたは私の本当の恋人として振る舞いなさい」


「分かりました」


「それと」


 姫月さんは僕の顔を見上げ、薄く目を細めた。


「今日は私から逃げないでね」


「逃げませんよ」


「本当に?」


「姫月さんみたいに綺麗な人と出かけられるのに、逃げる理由がありません」


 答えた途端、姫月さんの足が止まった。


「……今の言葉」


「はい?」


「ほかの女にも言っていないでしょうね?」


 声は穏やかだった。


 けれど、その瞳の奥には、答えを間違えれば何か大切なものを失いそうな暗さがある。


 僕は記憶を探った。


 軽井沢さんを綺麗だと褒めた覚えはある。しかし、逃げる理由がないとまで言ったのは初めてだ。


「姫月さんだけですよ」


「そう」


 短い返事だった。


 それでも、姫月さんは頬を赤くし、僕の手を先ほどより強く握った。


「なら、忘れないで」


「何をですか?」


「今の言葉を、最初に言った相手が私だということ」


 氷の女王と恐れられている彼女も、一人の少女なのだ。


 そう思うと、普段との違いが可愛らしく感じられた。


「今日の姫月さんは、いつもより可愛いですね」


「……なつめくん」


「はい?」


「今日は、絶対に私のそばから離れないで」


 なぜ念を押されたのか分からないまま、僕たちはショッピングモールの中へ入った。


        ※ ※ ※


 姫月さんの言っていた『私色に染める』という言葉は、決して冗談ではなかったらしい。


 最初に連れていかれた男性向けの服屋では、僕が自分で商品を選ぶ余地などほとんどなかった。


「こちらを試着して」


 姫月さんは迷いなく、白いシャツと濃紺のパンツを差し出した。


「また服を買うんですか? この前、凛花さんとかなり買いましたけど」


「立花さんが選んだ服でしょう?」


「姫月さんも一緒に選んでくれましたよね」


「私一人で選んだものではないわ」


 姫月さんは僅かに不満そうな顔をする。


「あなたには、私が選んだ服も着てほしいの」


「それなら大切に着ます」


「……本当に?」


「はい。姫月さんが僕のために選んでくれた服ですから」


 その答えを聞いた途端、姫月さんは顔を逸らした。


「早く試着してきなさい」


「どうして怒ってるんですか?」


「怒っていないわ」


 声が少しだけ上擦っていた。


 試着室で着替え、カーテンを開けると、姫月さんは僕の姿を上から下までじっと見つめた。


 まるで自分の所有物に傷がないか確かめるような、熱のこもった視線だった。


「どうでしょう?」


「似合っているわ」


「よかったです」


「でも、少し襟が乱れている」


 姫月さんは僕へ近づき、シャツの襟元へ手を伸ばした。


 白い指が首筋へ触れる。


 距離が近い。


 彼女の髪から漂う甘い香りを意識した途端、心臓が激しく鳴り始めた。


「じっとして」


「は、はい」


「顔が赤いわよ」


「姫月さんが近いので」


「恋人なのだから慣れなさい」


「努力します」


「仮交際が終わる頃には、ほかの女が近づいても何も感じないくらい、私に慣れさせてあげる」


 それは仮の恋人に必要な訓練なのだろうか。


 疑問に思ったものの、姫月さんは真剣な顔をしていたため、口には出せなかった。


 その後も数着の服を試し、姫月さんが最も気に入った組み合わせを購入した。


 会計を済ませた姫月さんへ礼を伝えると、彼女は当然のように答えた。


「私の彼氏を、私好みにしただけよ」


「お金は必ず返します」


「必要ないわ」


「でも、姫月さんに負担をかけたくありません」


「なら、別の形で返して」


「別の形?」


「今日一日、私だけを見ていて」


 僕には簡単なお願いに聞こえた。


「分かりました」


 そう答えると、姫月さんは嬉しそうに笑った。


 僕はその約束の重さを、まだ理解していなかった。


        ※ ※ ※


 服屋を出たあと、僕たちは書店へ向かった。


 姫月さんは文芸書の棚を眺め、僕は新刊の並ぶ平積み台へ視線を向ける。


 ふと、鞄の中に入れていた椎名さんの本を思い出した。


 今日の夜から読み始めよう。


 そう考えた瞬間、隣にいた姫月さんの声が聞こえた。


「なつめくん」


「はい?」


「誰のことを考えていたの?」


「え?」


「今、私を見ていなかった」


 表情はいつもと変わらない。


 けれど、声には僅かな寂しさが混じっていた。


「すみません。借りている本を思い出していました」


「椎名小春の本?」


「はい」


 姫月さんの視線が、僕の鞄へ向けられる。


「デート中に、ほかの女から借りたものを思い出すのね」


「嫌でしたか?」


「……嫌だと言ったら、その本を返す?」


「それはできません。大切に読むと約束したので」


「そう」


 姫月さんの表情が曇る。


 誰かとの約束を破ることはできない。


 けれど、目の前にいる姫月さんを悲しませたいわけでもなかった。


「でも、今は姫月さんとの時間を大切にします」


「口だけなら、何とでも言えるわ」


「では、何をすれば信じてもらえますか?」


「私だけを見て」


 即答だった。


 僕は姫月さんへ体ごと向き直った。


「見ました」


「そういう意味ではないのだけれど……」


「今日は姫月さんと過ごすために来たんです。だから、本のことは帰ってから考えます」


「本当に?」


「はい」


 姫月さんの手を取り、再び指を絡ませる。


「姫月さんと一緒にいる今を、ほかのことを考えて無駄にしたくありませんから」


「……馬鹿」


「また僕、何か間違えましたか?」


「間違っていないから困っているのよ」


 姫月さんは顔を赤くしながら、僕の肩へ寄り添った。


 その後は書店を見て回り、二人で同じ本を一冊ずつ購入した。


 読み終わったら感想を話そう。


 そう提案すると、姫月さんは本を胸元へ抱きしめ、何度も頷いてくれた。


        ※ ※ ※


 買い物を終えたあと、姫月さんに連れられてやってきたのは、ショッピングモールの上階にある展望テラスだった。


 休日にもかかわらず人は少なく、開けた場所から街並みを一望できる。


 遠くに並ぶ建物の屋根が、午後の日差しを浴びて輝いていた。


「綺麗な場所ですね」


「ええ。落ち着いて話ができると思って」


 姫月さんは手すりの近くへ立ち、風に揺れる髪を押さえた。


 しばらく街を見つめたあと、僕へ向き直る。


「ねえ、なつめくん」


「はい」


「私、ちゃんと彼女として振る舞えているかしら?」


「突然どうしたんですか?」


「答えて」


 その瞳には、冗談では済ませられない不安が浮かんでいた。


 学校一の才女で、何をしても完璧にこなす姫月さん。


 そんな彼女でも、恋人としての自分に自信がないらしい。


「姫月さんは、ちゃんと僕の恋人をしてくれていますよ」


「本当に?」


「はい。僕にはもったいないくらいの、自慢の恋人です」


 姫月さんが息を呑む。


「……仮交際だということを、忘れていない?」


「忘れていません」


「なら、どうしてそんなことを言うの?」


「仮であっても、僕が傷ついた時に手を差し伸べてくれたのは姫月さんです。今日だって、僕のために色々考えてくれました」


 僕は言葉を選びながら、自分の気持ちを伝えた。


「形が仮でも、姫月さんが僕にしてくれたことは本物でしょう?」


「……っ」


「だから、僕にとって姫月さんは、自慢の恋人です」


 姫月さんは顔を伏せた。


「馬鹿」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女は僕の手を強く握り、足早に歩き出す。


 表情は見えなかったが、耳が真っ赤に染まっていた。


 テラスの端にある、人目につきにくい場所まで来ると、姫月さんはようやく足を止めた。


「なつめくん」


「はい」


「あなたは、これからどうしたい?」


「どうしたい、とは?」


 姫月さんは一度目を伏せ、静かに息を吐いた。


「神木蜜璃のことよ」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 楽しかった時間を塗り潰すように、あの日の記憶が蘇る。


『なぁんてね』


『全部ぜーんぶ嘘』


『夢見すぎなんだよ』


 神木さんとその友人たちの笑い声。


 信じていた日々を、くだらない罰ゲームだったと言い捨てられた絶望。


 まだ、忘れられてはいない。


「……やり返したい気持ちは、消えていません」


 僕は拳を握った。


「神木さんたちを傷つけたいわけではないです。でも、僕を馬鹿にしたことが間違いだったと思わせたい」


「ええ」


「自分のことを、夢を見てはいけない人間だと思いたくありません」


 姫月さんは黙って、僕の言葉を聞いてくれている。


「だから」


 僕は彼女へ深く頭を下げた。


「もう少しだけ、僕の彼女でいてください。お願いします、姫月さん」


 しばらく返事はなかった。


 不安になっていると、頭上から優しい声が降ってくる。


「顔を上げなさい」


 言われたとおりにすると、姫月さんは穏やかに微笑んでいた。


「お願いされなくても、私はあなたの彼女よ」


「仮交際が終わるまで、ですよね?」


 その瞬間、彼女の表情が僅かに曇った。


 けれど、すぐに笑顔を作る。


「ええ。少なくとも、今は」


「ありがとうございます」


「あなたが望む限り、私はあなたを守る。だから、あなたも私の彼氏でいて」


「もちろんです」


「誰かに取られないで」


「取られるような人間ではありませんよ」


「それを決めるのは、あなたではないわ」


 姫月さんは僕の頬へ両手を添えた。


 指先が微かに震えている。


「あなたは、自分がどれほど人を惹きつけるのか分かっていない」


「そんなことありません」


「あるのよ」


 姫月さんの顔が近づいてくる。


 長い睫毛が震え、潤んだ瞳には僕だけが映っている。


「だから、誰かに奪われる前に……」


 声が吐息へ変わる。


 唇と唇の距離が、ゆっくりと縮まっていった。


 これは仮交際だ。


 そう分かっているのに、僕は体を動かせなかった。


 むしろ、目を閉じようとしていた。


「ようやく見つけた」


 聞き覚えのある声が、静かなテラスへ響いた。


 僕たちの唇が触れ合う直前、反射的に声のほうへ顔を向ける。


 姫月さんの手が僕の頬から離れた。


 彼女はゆっくりと声の主へ視線を移し、明らかな苛立ちを浮かべる。


「こんなところにいたんだ」


 そこに立っていたのは、笹浪さんだった。


 普段と同じ、少し乱れた茶髪。


 しかし、その顔にはいつもの気だるげな様子がない。


 肩で息をし、長い時間僕たちを探し回っていたことが伝わってくる。


 何より、その瞳には光がなかった。


「笹浪さん? どうしてここに……」


「朝から、ずっと探してた」


「僕を?」


「二人で出かけるって聞いたから」


「誰から聞いたんですか?」


「誰でもいい」


 笹浪さんは僕たちの繋がれた手と、先ほどまで顔が触れそうだった距離を順番に見た。


「仮なのに、どうしてキスしようとしてたの?」


「さ、笹浪さん。声が大きいです」


 周囲に人がいないことを確かめながら、僕は慌てて声を抑えるよう促した。


 一方、姫月さんは僕から手を離さなかった。


 それどころか、笹浪さんへ見せつけるように、僕の腕を胸元へ抱き寄せる。


「あら」


 姫月さんは、氷の女王らしい冷たい笑みを浮かべた。


「偶然ね、笹浪寿羽さん」


「偶然じゃない」


 笹浪さんは一歩、こちらへ近づく。


「なつめくんを探して、モールの中を全部回ったから」


「約束もしていない男を、休日に追いかけ回したの?」


「彼女でもないのに、恋人みたいな顔をしている人には言われたくない」


 姫月さんの瞳から、笑みが消えた。


「私は彼女よ」


「仮の」


「人前では本物として振る舞う約束なの」


「今、誰もいなかった」


 笹浪さんは僕を見つめた。


 瞳に光はないのに、その奥には泣き出しそうな感情が揺れている。


「誰も見てないのに、キスする必要なんてないよね?」


「それは……」


 僕が答えに詰まると、笹浪さんの表情がさらに曇った。


「なつめくんも、したかったの?」


「分かりません。突然だったので」


「嫌じゃなかった?」


 答えられなかった。


 拒絶しようとは思わなかった。


 それを正直に告げれば、笹浪さんを傷つける気がした。


 けれど、黙っていることもまた、彼女を傷つけてしまったらしい。


「そっか」


 笹浪さんは唇を噛み、俯いた。


「私がずっと一緒にいたのに」


「笹浪さん」


「辛い時も、神木さんを好きだった時も、私は隣にいた」


 震える声が、少しずつ強くなる。


「それなのに、なつめくんが初めてキスする相手は、姫月さんなの?」


「まだしていないわ」


 姫月さんが冷たく訂正する。


「あなたが邪魔をしたから」


「よかった」


 笹浪さんが顔を上げる。


 涙を浮かべながら、僅かに笑っていた。


「まだなら、間に合う」


「何に間に合うというの?」


「私が先になるのに」


 笹浪さんは僕の空いている腕を掴んだ。


「なつめくん。私ともデートして」


「え?」


「姫月さんだけずるい」


「これは仮交際に必要な行動よ」


「私もなつめくんに必要とされたい」


 僕の両腕を、二人の少女がそれぞれ抱え込む。


 姫月さんからは凍りつくような冷気が、笹浪さんからは息苦しくなるほど重い執着が伝わってきた。


「離しなさい」


「嫌」


「なつめくんは私の彼氏よ」


「本当の彼女じゃない」


「それでも、今は私のものよ」


「なつめくんは、誰のものでもないって言ってた」


 二人の視線が正面からぶつかる。


 氷と氷が衝突し、鋭い破片を撒き散らしているような錯覚を覚えた。


「それなら、なつめくんに選んでもらいましょうか」


 姫月さんが僕の腕へ頬を寄せる。


「今日、このまま私とのデートを続けるのか」


 笹浪さんも反対側から、僕の服を強く握った。


「それとも、私と帰るのか」


 二人の瞳が、同時に僕へ向けられる。


 どちらも僕の答え一つで、壊れてしまいそうな顔をしていた。


「なつめくん」


「影久なつめくん」


「どちらを選ぶの?」


 週末の穏やかなデートになるはずだった。


 それなのに僕は今、逃げ場のない展望テラスで、二人の少女が抱えるあまりにも重い感情の中心に立たされていた。



―――――――――――――――――――――――――――あとがき!!


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


少しでも続きが気になった方は、これからの執筆へのモチベーションに繋がりますので、作品フォロー&★評価機能で応援いただけると大変励みになります!


すでに応援いただいている読者様には感謝しかないです! 頑張って続きを書いていきますので、よろしくお願いします!


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