第16話「黒い来航」
新羅の密輸組織「金氏」の企てを暴き、後宮の危機を救ってから一ヶ月。
京には盛夏の容赦ない日差しが降り注いでいた。
朝葉は完全に体力を回復し、厳馬も相変わらず豪快に検非違使庁を仕切っている。
平穏を取り戻した典薬寮で、景光は一人、ある「奇妙な匂い」が染み付いた布を睨みつけていた。
「――やっぱり、ここにいた」
綾子が、冷たい麦茶を持って御簾をくぐってきた。
汗ばんだ空気を、彼女のまとう白梅の香りが涼やかに変える。
「景光、またその布を嗅いでるの? 朝葉様が新羅の男から奪ったやつでしょう?」
「ああ」
景光は布を鼻先から離し、眉をひそめた。
「新羅の阿片や草烏頭の匂いは完全に消した。だが、その奥にこびりついている『この匂い』がどうしても解せない。極めて洗練された、だが同時に、底知れない悪意を感じる香りだ」
「洗練された悪意?」
「麝香や沈香といった最高級の香料を、見たこともない複雑な比率で調合している。これは新羅の技術ではない。もっと巨大な国……『唐』の、それも宮廷お抱えの調香師クラスでなければ不可能な芸当だ」
「その疑念、どうやら正解のようです、景光殿」
いつの間にか気配もなく部屋に入ってきたのは、源清重だった。
その顔は、いつになく厳しく強張っている。
「惟忠殿から緊急の召集です。難波津(港)に、唐の朝廷からの使節団を乗せた正規の『遣唐使船』が帰国したのですが……その船内で、奇妙な事件が起きているとのことです」
「遣唐使船だと」
景光が立ち上がる。
物部や新羅といった「裏社会の密輸」ではない。
国家間の公式な大船団が、闇を連れて帰ってきたというのだ。
「現場にはすでに厳馬殿と、陰陽寮の輪狗殿が向かっています。我々も急ぎましょう」
京の外れにある臨時の検問所。
そこには、港から上がってきたばかりの豪華な衣装をまとった唐の役人たちと、それを包囲する検非違使たちが一触即発の空気を生み出していた。
「どけと言っている! 我らは唐の皇帝陛下より、日本の帝へ親書と至宝を届けに来た使節団だぞ! なぜこのような場所で足止めされねばならん!」
唐の通訳が激しい調子で叫んでいる。
それに対し、坂上厳馬が大刀を地面に突き立てて行く手を塞いでいた。
「うるせえ! 外国の大物だろうが関係ねえんだよ。お前らの船が港に着いてから、乗組員が三人、続けて不審な『狂死』を遂げてる。その原因が分かるまでは、京の土は一歩も踏ませねえ!」
「狂死だと? 航海の疲れによる病だと言っているだろう!」
揉める両者の間に、景光と清重、そして綾子が到着した。
景光は一歩足を踏み入れた瞬間、凄まじい「違和感」に襲われ、思わず片手で鼻を覆った。
「……くっ」
「景光!? 大丈夫?」
綾子が慌てて支える。
景光の脳を揺るがしたのは、唐の使節団の荷物から漂う、あの布切れと同じ――いや、その数百倍も濃い、ねっとりとした最高級香料の匂いだった。
しかし、その美しい香りの裏で、何かが「腐敗」している。
「おい、薬師! やっと来たか!」
厳馬が振り返る。その隣では、賀茂輪狗が数枚の符を指に挟み、冷や汗を流していた。
「遅いぞ、景光。こいつらの荷物、陰陽寮の霊視でも『真っ黒』な呪気が視える。だが、呪詛の術式が複雑すぎて、どこが情報源なのか掴めないんだ」
景光は無言で唐の使節団の前へ歩み出た。
そして、使節団の長が厳重に抱えている「漆塗りの美しい箱」を指差した。
「その箱を開けろ」
「不届きな! これは我が国の皇帝陛下より、そなたらの帝へ贈られる、不老長寿の秘薬『黒玉丹こくぎょくたん』であるぞ! 庶民が触れてよいものではない!」
使節の長が拒絶する。しかし景光の目は冷徹そのものだった。
「不老長寿の薬、だと? laughter(片腹痛い)。その箱から漂っているのは、人間の脳の機能を狂わせ、快楽の果てに狂い死にさせる、新羅の阿片すら子供騙しに見えるほどの『究極の毒薬』の匂いだ」
「な、何を根拠に……!」
「お前たちの船で死んだ三人、共通して『耳の裏が黒く変色し、笑いながら息絶えた』はずだ。その箱に塗られた防腐の香料と、中の薬が混ざり合った時、その毒煙が周囲の人間を蝕む。……お前たちは、日本の帝を暗殺しに連れてこられた、唐の『金氏』の真の黒幕の傀儡だ」
「無礼者! 出鱈目を!」
使節の長が逆上し、懐から異国の暗器(仕込み刃)を抜いて景光へ飛びかかった。
だが、その刃が景光に届くことはなかった。
「そこまでだ」
清重の太刀が電光石火の速さで一閃し、使節の長の暗器を根元から叩き折る。
同時に、厳馬が「待ちかねたぜぇ!」と地響きを立てて突進し、使節の長を床へ叩き伏せた。
「捕らえろ! 荷物をすべて没収しろ!」
検非違使たちが一斉に動き、唐の使節団を拘束していく。
輪狗がすかさず符を放ち、漆の箱の周囲に結界を張って毒煙の拡散を防いだ。
夕刻。没収された「黒玉丹」の箱を前に、景光たちは検非違使庁の地下室に集まっていた。
「新羅の裏にいたのは、やはり唐の巨大な権力者でしたか……」
清重が厳かに言う。
景光は、結界越しにその箱の匂いを静かに嗅ぎ、呟いた。
「物部を操り、新羅に阿片を流させ、最後は正規の使節団を使って帝に直接、この『黒玉丹』を飲ませる計画だったのだろう。奴らの狙いは、この国そのものを内部から腐らせることだ」
綾子が景光の隣で、その横顔を見つめる。
「海の向こうの、本当の敵が動き出したんだね……」
「ああ」
景光は薬箱を強く握りしめた。
これまでの戦いは、ただの序章に過ぎなかった。
大陸の覇者が仕掛ける、洗練された最凶の毒。
唐の「調香師」との、命を賭けた知恵比べが、今ここに幕を開けた。
第16話「黒い来航」 了
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