第15話「檻の中の白梅」
後宮の隅に位置する、古びた物置の中。
外から閂をかけられた密室に、どす黒い阿片の毒煙が容赦なく満ちていく。
「くっ、はあ……!」
菅原朝葉は、着物の袖で必死に口元を覆ったが、新羅の「金氏」が誇る濃縮毒煙は衣服の隙間からじわじわと彼女の肺を侵食していく。
視界が激しく揺れ、厳馬を襲ったあの狂気の手前のような、激しい頭痛が彼女を襲った。
「無駄な抵抗だ、菅原の娘。その細い身体なら、あと数息で正気を失い、二度と目覚めぬ眠りへと落ちる」
顔に傷のある新羅の男が、闇の中から冷酷に嘲笑う。
朝葉は薄れゆく意識の中で、青く染まった景光の匂い袋を強く握りしめた。
(景光様……私は、ここまで、なのですか……)
その頃、内裏の結界の外。
景光の足が、ぴたりと止まった。
「――匂いが途絶えた」
「えっ!? 朝葉様の?」
隣を歩いていた綾子が、顔を真っ青にする。
景光は深く息を吸い込んだ。
夜の御所を吹き抜ける風の中に、これまで感じていた朝葉の香水の匂いが、突如として「押し潰された」ような不自然な空白を感じ取っていた。
代わりに漂ってきたのは、あの嵯峨野で嗅いだ、五臓を狂わせる甘く冷たい阿片の残臭。
「朝葉様が危ないわ! 景光、場所は分かる!?」
「弘徽殿の北西、開かずの物置だ。毒煙が立ち込めている。……清重、厳馬、行くぞ!」
「だが景光殿、そこは後宮の――」
清重が言いかけたが、それを遮ったのは厳馬だった。
大刀を肩に担ぎ直し、獰猛な顔で足を踏み出す。
「男が入っちゃいけねえ場所だあ? 知るかよ! 仲間が中で殺されかけてんだ、ルールの壁ごと叩き潰してやらぁ!」
「そこまでだ、不届き者ども!」
物置の前に駆けつけた景光たちの前に、新羅の商人に買収された内通者の女房と、数人の私兵が立ち塞がった。
「おいおい、俺を一度ハメた毒煙使いのボスは中にいるんだな?」
厳馬が前に出た。
兵たちが一斉に襲いかかるが、怒りに燃える厳馬の拳は、前回の比ではない破壊力を持っていた。
一撃で二人を吹き飛ばし、廊下の高欄ごと粉砕する。
清重の太刀もまた、電光石火の速さで残りの兵の武器を叩き落としていった。
「景光、扉が開かないわ! 外から頑丈な閂が……!」
綾子が物置の扉に取りすがり、必死に閂を外そうとするが、新羅の工作によって強固に固定されている。
「どけ、お嬢ちゃん!」
厳馬が割り込み、丸太のような足で扉の鍵元を思い切り蹴り抜いた。
バキ、と凄まじい音を立てて扉が内側へ弾け飛ぶ。
室内に満ちていたどす黒い煙が、一気に廊下へと噴き出した。
「綾子、これを口に含め!」
景光は即座に中和の薬草を綾子に握らせると、自らは煙の中に飛び込んだ。
床には、意識を失いかけて倒れている朝葉の姿があった。
その手前には、勝ち誇った顔で短刀を振り下ろそうとしている新羅の男。
「死ね!」
男の刃が朝葉に届く寸前、景光の薬箱が男の顔面に叩きつけられた。
生薬の詰まった重い木箱が直撃し、男は鼻血を噴き出して後ろへよろめく。
「おのれ……薬師風情が!」
男が再び刃を構えた時、景光の背後から清重が滑り込み、男の腕を容赦なく捻りあげて床に組み伏せた。
「新羅の金氏の狗め。日本の後宮を汚した罪、その命で購え」
「朝葉様! 朝葉様!」
綾子が朝葉を抱き起こし、必死に声をかける。
朝葉の呼吸は浅く、顔色は土色に変色していた。重度の阿片中毒による仮死状態だ。
「景光、どうしよう……息をしてない……!」
景光は朝葉の傍らに膝をつき、彼女の胸元から、青く染まった匂い袋を掴み取った。
「朝葉、お前が命がけで手に入れた証拠だ。無駄にはさせない」
景光は自らの袖を破り、薬箱から取り出した「強烈な刺激臭を持つ薬液(極純の薄荷と生姜の蒸留液)」を浸した。
それを、朝葉の鼻腔に強く押し当てる。
「……目を覚ませ、情報通」
ツンと鼻を突く、暴力的なまでの清涼感が朝葉の脳を突き刺した。
「――ガハッ……! コホッ、ゴホッ!」
朝葉が激しく咳き込み、大きく息を吸い込んだ。
その瞳に、ゆっくりと正気の光が戻ってくる。
目の前にいる景光の姿を見て、彼女は涙を浮かべながら微かに微笑んだ。
「景光、様……私、やりましたわ……青い、袋……」
「ああ、見事だ。お前のおかげで、宮中の内通者も、この毒の親玉も完全に捕らえた」
景光は立ち上がり、清重に捕らえられた新羅の男を見下ろした。
翌日、内裏の一角。
朝葉が命がけで暴いた証拠により、弘徽殿の汚職貴族と新羅の密輸組織は一網打尽となった。狙われていた女御様も、景光の調合した薬によって一命を取り留めた。
検非違使庁の廊下で、少し体調の戻った朝葉が、綾子に支えられながら歩いていた。
「朝葉様、本当によかった……。一時はどうなることかと」
「ふふ、心配をかけましたわね、綾子。でも、これで少しは私も、景光様の『特別』になれたかしら?」
朝葉が茶目っ気たっぷりに言うと、綾子は「もう! そんなこと言う元気があるなら大丈夫ね!」と頬を膨らませた。
そんな二人のやり取りを、厳馬が「ハッ、女の戦いは毒煙より恐ろしいぜ」と笑い飛ばす。
景光は、青く染まった匂い袋を薬棚に収め、静かに西の空を見つめた。
新羅の「金氏」の企みは防いだ。
しかし、捕らえた男の服から漂っていたのは、新羅のものだけではない――さらに巨大な、大陸の覇者である「唐」の、見たこともない洗練された香料の匂いだった。
「……海の向こうの闇は、まだ終わっていないな」
景光の鼻は、次なる巨大な陰謀の予兆を、すでに掴み始めていた。
第十五話「檻の中の白梅」 了
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