第12話「狂乱の牙」
新羅の密貿易商人が潜むとされるのは、京の外れ、鴨川の河原に近い寂れた倉庫街だった。
夜の帳が降りる頃、そこには鼻を突くような生魚の饐(す)えた匂いと、川泥の重い匂いが立ち込めていた。
「おい、薬師。本当にこの先なんだな?」
坂上厳馬が、暗闇の中でせっかちに拳を打ち鳴らした。
その背中には、彼が愛用する無骨な大刀が背負われている。
「黙れ。お前の声の振動で空気が揺れ、匂いが散る」
景光は薬箱を片手に、路地の奥へと視線を向けた。
魚の生臭さの奥から、昼間に嗅いだあの脳を刺すような甘さ――阿片の匂いが、じわりと這い出てくるのを捉えていた。
「前方、三つ目の蔵だ。中で、炭を熾(おこ)して何かを炙っている匂いがする」
「よしきた! 俺が先陣を切る。源氏の坊んちと薬師は、後ろで大人しく見てな!」
「厳馬殿、待て! 深追いは禁物だ!」
清重の制止の声も聞かず、厳馬は獰猛な笑みを浮かべて弾丸のように飛び出していった。
「おい、新羅の泥棒猫ども! 検非違使庁の坂上厳馬が直々にひっ捕らえに来てやったぞ!」
厳馬が頑丈な蔵の扉を、自慢の剛脚で一撃のもとに蹴り破った。
中には、異国の衣服をまとった新羅の男たちが数人、薬壺を囲んで座っていたが、厳馬の乱入に驚いて一斉に立ち上がった。
「曲者だ! 斬れ!」
男たちが湾曲した鋭い刀を抜いて襲いかかる。
しかし、厳馬の荒々しい実戦の腕前は本物だった。大刀を抜くことすらせず、鞘のまま男たちの顎を殴り飛ばし、みぞおちを蹴り抜いていく。
「ハッ、だらしねえな! この程度の腕で宮中を揺るがそうなんて、百年早えよ!」
あっという間に大半の敵を叩き伏せ、厳馬が勝ち誇ったように笑ったその時。
蔵の奥の暗がりから、不気味な笑い声が響いた。
「ふふふ……さすがは検非違使の荒馬。だが、肉体の強さなど、我が国の至宝の前には無力よ」
現れたのは、顔に深い傷のある新羅人の男だった。
男が手にした小さな香炉を地面に叩きつけると、中から爆発的に「どす黒い灰色の煙」が噴き出した。
「厳馬、下がれ!」
遅れて蔵に突入した景光が、その煙の色を見た瞬間に叫んだ。
「それはただの煙じゃない! 阿片の成分を限界まで濃縮した、即効性の毒煙だ!」
「あぁ!? んな煙ごとき、気合で――」
厳馬が言いかけた瞬間、彼の身体が激しく強張った。
黒い煙をまともに吸い込んだ厳馬の目が、一瞬で血走り、異様な光を帯びる。
「ガッ、あ、熱い……! 頭が、割れる……!」
厳馬は大刀をその場に落とし、自分の頭を両手で抱えて激しく悶絶した。
強靭な肉体も、脳を直接破壊する異国の劇薬の前には形を成さない。
厳馬は喉の奥から獣のような咆哮をあげると、そのまま白目を剥いて床に倒れ込み、激しく痙攣し始めた。
「厳馬殿!」
清重が鋭く踏み込み、倒れた厳馬を庇うように刀を構えた。
傷のある新羅の男は、冷酷に笑いながら、さらに多くの薬壺を手に闇へと退がっていく。
「この男の脳は間もなく恐怖と幻覚で焼き切れる。宮中を嗅ぎ回る犬どもよ、まずは身内の死を嘆くがいい」
「清重、敵を追うな! 厳馬の呼吸が止まる!」
景光は叫びながら、猛烈な煙が満ちる蔵の中へ、自らの袖で口を覆いながら飛び込んだ。
「景光、危ない!」
綾子も必死に後を追う。
景光は倒れた厳馬の胸ぐらをつかみ、その首筋の脈を測った。凄まじい速さで脈が打たれ、呼吸は浅く、皮膚は不気味な紫色に変色し始めている。
「阿片の急性中毒だ。五臓の気が暴走している。一刻も早く脳の麻痺を解かなければ、このまま息が絶えるぞ」
景光は薬箱をひっくり返し、生薬の袋を次々と引き出した。
「綾子、私の懐から細針を出せ! 清重、厳馬の身体を押さえろ! 幻覚で暴れる!」
「承知!」
清重が厳馬の巨体を生身で押さえつける。
案の定、厳馬は意識を失いながらも、幻覚に怯えるように凄まじい怪力で暴れ狂い始めた。清重の衣服が引き裂かれ、床の板が厳馬の拳で叩き割られる。
「綾子、針の先に、この麝香(じゃこう)と氷片(ひょうへん)を練った液を塗れ! 急げ!」
「は、はいっ!」
綾子は震える手で、景光の指示通りに針を準備した。景光はその針をひったくるように受け取ると、厳馬の脳天の百会(ひゃくえ)、そして両手の秘穴へと、迷いなく深く突き刺した。
「ガハッ……!」
厳馬の口から、どす黒い血の混じった息が吐き出された。
激しい痙攣が、嘘のようにぴたりと止まる。
顔の紫色の鬱血が引き、微かではあるが、規則正しい呼吸が戻ってきた。
「……助かった、のか?」
清重が額の汗を拭いながら聞いた。
「命は繋ぎ止めた。だが、異国の猛毒だ。脳の麻痺が完全に抜けるまで、数日は意識が戻らないだろう」
景光は立ち上がり、新羅の男が逃げ去った奥の暗がりを見つめた。
そこには、中和しきれなかった阿片の、不気味で甘い匂いがまだ重く淀んでいる。
あれだけ強固な厳馬の肉体を、一瞬で無力化した新羅の組織。
物部貞文とは比較にならない「容赦のなさ」が、そこにはあった。
翌朝、検非違使庁の救護所。
寝台の上で、厳馬は全身に包帯を巻かれ、深く眠り続けていた。
「厳馬様、まだ起きないね……」
綾子が心配そうに布を絞る。
そこへ、連絡を受けた菅原朝葉が、引き締まった表情で部屋に入ってきた。
「景光様、大変なことになりましたわ。厳馬様が倒れたという報せは、すでに宮中の『一部の貴族』の間で、大層な喜びと共に噂されております」
景光は窓の外を見つめたまま、静かに言った。
「やはり、新羅と繋がっている内通者が宮中にいるな」
「ええ」と朝葉はうなずき、綾子をちらりと見た。
「私も、後宮の女房たちの間で不審な動きがないか、本腰を入れて調べることにいたします。……これ以上、景光様の周りの方が傷つくのは見ていられませんもの」
清重が刀の鯉口を静かに切る。
「厳馬殿のピンチは、我々への明確な警告。ですが、これで引き下がるわけにはいきません」
景光は懐の薬包をきつく握りしめた。
新羅の阿片。その凶悪な匂いを、景光の鼻は決して忘れない。
仲間を傷つけられた薬師の目の奥に、静かだが、最も熱い逆鱗の火が灯っていた。
第十二話「狂乱の牙」 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます