第13話「対岸の毒煙」

坂上厳馬が新羅の毒煙に倒れてから三日。


 検非違使庁の救護所には、今も重苦しい空気が漂っていた。


 厳馬の呼吸は安定したものの、昏睡状態は続いている。時折、何かに怯えるようにうわ言を漏らすその姿は、かつて宮中の夜を騒がせたあの男の面影を完全に奪い去っていた。


 「……脳の芯が、まだ眠っているな」


 景光は厳馬の枕元で、その顔に漂う匂いを嗅ぎ分けた。


 麝香の残臭の奥に、依然としてねっとりとした阿片の「濁り」が張り付いている。


 「景光、お上の時みたいに、すぐに毒を消す薬は作れないの?」


 綾子が心配そうに、厳馬の額の布を替えながら聞いた。


 白梅の香りが、少しでも部屋の薬臭さを和らげようと健気に漂っている。


 「あの神薬とは、根本的に毒の性質が違う」


 景光はぶっきらぼうに首を振った。


 「物部の毒は肉体を壊すものだったが、新羅の阿片は『魂(こころ)』を直接縛る。有澄の桂皮を使った改良案すら越えている。おそらく奴らは、吸わせるだけでなく、別の生薬を混ぜて『解毒を拒む』細工をしている」


 「解毒を拒む細工、ですか」


 部屋の隅から、静かに言葉を重ねたのは源清重だった。


 いつもの冷静な佇まいだが、その手は厳しく太刀の柄を握りしめている。


 「前衛の厳馬殿をあそこまで一瞬で無力化した男だ。新羅の組織には、こちらの『薬師の存在』をあらかじめ知っていたかのような、狡猾な調合師が背後にいますね」


 「その通りだよ、源氏の武士殿」


 御簾を派手に跳ね上げて入ってきたのは、陰陽寮の賀茂輪狗だった。


 不敵な笑みを浮かべているが、その目にはいつになく険しい光が宿っている。


 「陰陽寮の密偵から面白い情報が入った。難波津の商人どもを裏で束ねているのは、新羅の旧族の一味だ。名を『金(きん)』という。奴らはただの密貿易商じゃない。新羅の優れた医術と、呪術を融合させた『毒』の専門家を囲っている」


 「毒の専門家……」


 綾子が小さく息を呑む。 


 「ああ」


 輪狗は景光の前に歩み寄り、一枚の奇妙な「干からびた植物の根」を机に置いた。


 「厳馬が倒れた蔵の跡地から、私の式神が見つけてきた。お前の鼻なら、これが何だか分かるだろう?」


 景光は無言でその根を拾い上げ、鼻先へ近づけた。


 かすかに、泥と……「腐った大根」のような、鼻を突く嫌な匂いがした。


だがその奥に、強烈な冷気のような刺激がある。


 (……これは!)


 「草烏頭(そううず)――新羅の北方にしか生えない、極大の猛毒を持つ烏頭の亜種だ」


 景光の目が鋭く細くなった。


 「奴らは阿片の甘い匂いに、この草烏頭の麻痺成分を絶妙な比率で混ぜ込んでいる。だから吸った者は一瞬で神経を奪われ、普通の解毒薬では五臓が拒絶反応を起こして死に至る」


 「じゃあ、厳馬様を治すにはどうしたらいいの!?」


 「その比率を逆転させる『中和の核』を見つけるしかない」


 景光は根を薬箱へと放り込んだ。


 「奴らの本拠地に直接乗り込み、使われた毒の『原液』をこの鼻で直接嗅ぎ分ける。それが一番早い」


 「話が決まれば、すぐに動くぞ」


 清重が刀を鳴らした。


 「厳馬殿の部下たちの調べで、新羅の連中が鴨川の倉庫を引き払い、京の西、嵯峨野の竹林の奥にある廃寺に逃げ込んだことが分かっています。そこが奴らの本当の巣窟です」


 「私も行くぞ」


 輪狗が符を指に挟み、冷たく笑った。


 「新羅の呪術師どもが日本の宮中を舐め腐っているのは我慢ならん。薬師、お前の鼻が曇らぬよう、背後は私が守ってやる」


 「勝手にしろ。ただし、私の邪魔をするな」


 夜の嵯峨野は、どこまでも続く竹林が風に揺れ、不気味なざわめきを轟かせていた。


 湿った土の匂いと、青臭い竹の匂い。その中に、景光の鼻は確実に「あの甘く、そして冷たい匂い」が混ざり始めているのを捉えていた。


 竹林の奥に佇む、荒れ果てた廃寺。


 御堂の隙間から、うっすらと紫色の煙が夜空へと立ち上っている。


 「いるな」


 清重が音もなく先頭に立ち、門をくぐった。


 庭に入った瞬間、四方の竹林から、前回の蔵とは比較にならない数の新羅の刺客たちが一斉に飛び出してきた。


 「ここから先は通さん!」


 「ふん、数だけは一丁前だな!」


 輪狗が符を放ち、空中で激しい火花を散らす。

 清重の太刀が闇を切り裂き、刺客たちの刃を冷徹に叩き折っていく。


前衛の厳馬を欠いたとはいえ、洗練された二人の連携は、新羅の兵どもを寄せ付けない強さがあった。


 「景光、今のうちに御堂の中へ!」 


 綾子が景光の背中を押す。


 景光は薬箱を抱え、清重たちが作った道を駆け抜け、御堂の重い扉を押し開けた。


 御堂の中は、視界を遮るほどの「紫色の毒煙」で満たされていた。


 これまでのものより遥かに濃い。吸えば、常人なら一歩で崩れ落ちる濃度だ。


 「くっ……!」


 綾子が激しく咳き込み、その場に膝をつく。


 「綾子、無理をするな! 外へ出ろ!」


 「だ、大丈夫……景光の声を、聞かなきゃ……!」


 景光は自らの薬箱から、急ぎ調合しておいた防毒の薬種を綾子の口に含ませた。


 そして、御堂の奥、巨大な香炉の前に立つ「あの傷のある男」を睨みつけた。


 「また来たか、典薬寮の猟犬め」


 男は不敵に笑い、手にした青い薬壺を香炉の上にかざした。


 「この御堂全体が、我が国の『金氏』が誇る究極の毒香の檻だ。ここでお前たちの息の根を止め、今度こそ宮中へ阿片を流し込んでやる!」


 景光は一歩も引かなかった。


 猛烈な煙を敢えて深く吸い込み、その脳内で、複雑に絡み合う匂いの糸を、一本一本力任せに解きほぐしていく。


 (阿片が三……草烏頭が二……。いや、待て。この奇妙な清涼感は――)


 「……見つけたぞ」


 景光の口元に、冷徹な確信の笑みが浮かんだ。


 「お前たちが隠していた解毒の拒絶反応の正体、それは『龍脳』の配合比率の偽装だ。冷気で麻痺させていると見せかけて、五臓の門を無理やり開かせ、毒の吸収を早めていた。……その比率さえ分かれば、厳馬を縛る呪縛は解ける」


 「な、何だと……!? この煙の中で、一瞬でそこまで嗅ぎ分けるというのか!?」


 新羅の男の顔が、驚愕で激しく歪んだ。


 「そこまでだ、異国の毒売りめ!」


 背後から、輪狗の放った強力な雷符が御堂の天井を突き破り、激しい爆風が室内の毒煙を一気に吹き飛ばした。


 同時に、清重の太刀が男の手元を正確に狙い、青い薬壺を鮮やかに叩き割った。


 「しまっ……!」


 薬壺が砕け散り、原液が床に広がると、男は形勢不利と見て、御堂の奥の隠し通路へと素早く飛び込み、姿を消した。


 「追うか、清重!」


 輪狗が叫ぶが、清重は床に落ちた薬壺の破片を拾い上げ、景光に渡した。


 「いえ、本尊の正体と、厳馬殿を救う『鍵』は手に入れました。まずは厳馬殿の命を救うことが最優先です」 


 景光は破片に残った液体の匂いを嗅ぎ、深くうなずいた。


 「ああ。これで厳馬は助かる」



 翌朝、検非違使庁の救護所。


 景光が徹夜で調合した「真の解毒薬」を飲まされた厳馬は、大きく一つ呼吸をすると、ゆっくりとその重い目を開けた。


 「……あぁ? ここは……どこだ……?」


 「厳馬様!」


 綾子が嬉しそうに声をあげる。


 厳馬はまだ顔色が悪いものの、その目の奥には、いつものギラギラとした野性の光が戻っていた。


 寝台の脇に立つ景光を見て、厳馬は決まり悪そうに頭を掻いた。


 「ちっ……不覚を取った。あの煙を吸った途端、頭の中に化け物が現れて動きが取れなくなっちまった。……薬師、お前に命を救われたのは、これで二度目だな」


 「お前が勝手に自滅しただけだ」


 景光は冷淡に薬箱を閉じた。


 「だが、新羅の『金氏』の狙いははっきりした。奴らは厳馬を消し、検非違使の目を逸らした隙に、宮中の『ある大物』へ阿片を仕掛けようとしている」


 清重が静かに窓の外、内裏の方向を見つめる。


 「宮中の内通者……いよいよ、後宮の闇へ踏み込む時が来ましたね」


 厳馬が寝台から起き上がり、包帯の巻かれた拳を強く握りしめた。 


 「新羅の泥棒猫ども……次こそは、この拳で全員残らず叩き潰してやる!」


 新たな仲間の復活。しかし、新羅の組織が仕掛ける本当の陰謀は、すでに宮中の最も深い場所、後宮へと侵食を始めていた。



       第十三話「対岸の毒煙」 了

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