香薬奇譚Ⅱ〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜

優涼

第11話「海を渡る青」

物部貞文の失脚から半月。

 宮中は一時の平穏を取り戻したかに見えた。

 だが、典薬寮の薬棚の前に立つ景光の鼻は、すでに別の「不浄」を敏感に捉えていた。


 「――景光、これ。惟忠殿から」


 綾子が持ってきたのは、一枚の古びた包み紙だった。


 白梅の香を突き破って、景光の鼻に飛び込んできたのは、ひどく塩辛い、そして鉄が錆びたような特異な匂い。


 「これは宮中の匂いではないな」


 景光は包み紙を指先で弾いた。


 「うん。物部邸の地下深く、隠し倉庫で見つかったものだって。清重さんが今、検非違使庁でその元を調べているんだけど……ちょっと厄介な人と揉めてるみたい」


 「厄介な人?」


 「現場叩き上げの、ものすごく気が荒い検非違使の執事(しゅし)がいるんだって。名前は坂上厳馬(さかのうえの げんま)様」



 検非違使庁の裏庭からは、激しい罵声と、肉体がぶつかる鈍い音が響いていた。


 「おいおい、大人しく宮中に引きこもっていればいいものを、源氏の坊んちが何をしに来やがった!」


 大男が、手にした木刀を清重の鼻先に突きつけていた。


 筋骨隆々とした体躯に、無精髭。着物を着崩し、凄まじい威圧感を放っている男――それが坂上厳馬だった。


 清重は刀を抜くことなく、ただ最低限の動きで厳馬の木刀をかわしている。


 「厳馬殿。私は惟忠殿の命で、物部が隠し持っていた『密輸品』の出所を追っているだけだ」


 「知るか! 物部が死のうが生きようが、現場を仕切るのは俺たち検非違使だ。貴族の犬がチョロチョロ嗅ぎ回るんじゃねえ!」


 そこへ、景光と綾子が歩み寄った。

 厳馬は景光の姿を見ると、あからさまに不快そうな顔で鼻を鳴らした。


 「あぁ? 今度は典薬寮のひょろ高い薬師か? ここは戦場だ、もやし男が来るところじゃねえぞ」


 景光は厳馬の罵声を完全に無視し、厳馬の足元、そして彼が手にしている「押収品」の木箱に近づいた。


 ゆっくりと息を吸い込む。


 「……新羅の、塩辛(じょっかる)の匂いだ」


 景光が短く言った。



 「……あん?」


 厳馬の動きが止まった。


 「それと、この木箱の底に染み付いているのは、ただの泥ではない。筑紫(つくし)の難波津(なにわづ)、つまり外国の船が着く港の砂だ。お前、その箱を検める前に、新羅の密貿易商人と一悶着あっただろう」 


 景光の言葉に、厳馬は目を見開いた。


 「なんでそれを……。俺が今朝、難波津から紛れ込んだ不審な新羅船の荷を差し押さえてきたばかりだってことを、誰も話してねえはずだぞ」


 「お前の拳から、新羅の安物の酒と、奴らが好むにんにくの匂いが染み付いている。殴り飛ばした証拠だ」


 清重がふっと口元を緩めた。


 「厳馬殿。これが、惟忠殿が最も信頼する薬師、景光殿の『鼻』だ」


 厳馬は頭をガリガリと掻きむしり、木刀を地面に突き刺した。


 「ちっ……化け物め。だが、面白い。その鼻が本物なら、この中に何が入ってるか当ててみろ」


 厳馬が木箱の蓋を強引に叩き割ると、中から「青い陶器の小さな壺」が現れた。



 景光は壺に顔を近づけた。


 蓋は蝋で厳重に密閉されている。だが、その微かな隙間から漏れ出てくる匂いに、景光の身体が一瞬、硬直した。


 「……これは、日本の生薬ではない」


 「何が分かるの、景光?」


 綾子が心配そうに顔を覗き込む。


 「脳の奥が痺れるような甘さ。そして、鉛のような重い残臭。……新羅の商人どもが、唐のさらに西の国から仕入れたとされる劇薬だ。


名は『阿片(あへん)』。


これまでの物部の毒香とは比較にならないほど、人間の理性を一瞬で破壊する」


 「阿片……!」


 清重の顔から余裕が消えた。

 厳馬もまた、表情を険しくして拳を握りしめた。


 「物部の野郎、こんなヤバいものを新羅の奴らから買い付けようとしてやがったのか」


 「いや、違う」


 景光は壺をじっと見つめた。


 「物部は買い手ではない。この壺についた匂いの新しさは、物部が失脚した『後』に、この箱が動かされたことを示している。新羅の商人どもは、物部という駒を失い、自らこの毒を使って宮中へ直接揺さぶりをかけるつもりだ」



 「なら、話は早い!」


 厳馬が拳を打ち鳴らし、獰猛に笑った。


 「その新羅の売人どものアジトなら、俺の拳が場所を覚えている。おい、薬師! お前のその鼻で、その『阿片』って奴の匂いを追え。俺が前衛で邪魔な奴らを全員叩き潰してやる!」


 「私はお前の指図は受けない」


 景光は冷淡に言った。


 「だが、薬師の領分に、海外の得体の知れない毒を持ち込まれるのは虫ずが走る。清重、行くぞ」


 「御意」


 清重が応じ、厳馬が「へっ、生意気な野郎だ!」と大笑いしながらそれに続く。


 綾子は、新しく加わった荒々しい仲間の背中を見ながら、小さく息を吐いた。


 「……また、騒がしくなりそうだね」


 物部貞文の背後にいた、本物の「海の向こうの闇」。


 景光たちの新たな戦いが、今、難波津の波音とともに幕を開けた。



       第十一話「海を渡る青」 了

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