第3話

潮が満ちる。


引いていったぶんを、海はいちどきに取り返しにきた。膝まで、腰まで。冷たさは感じなかった。感じる場所が、もう俺のものではないようだった。


鳥居岩が、動いた。沈むのではない。せり上がってくる。黒い柱が、水を割って、伸びていく。あれは岩ではなかった。ずっと下にある、途方もなく大きな何かの、いちばん上の先だった。どこまで続くのか、目で追おうとして、やめた。追えば、頭の裏側が軋んだ。


トヨの唄が、村じゅうの声になっていた。膝をついた者が、みな、口を開いていた。


——満ちた。満ちた。数が、満ちた。


頭の中で、何かが数えていた。俺の声ではなかった。ひとつ、ひとつ、浜の頭を。俺の番が、最後だった。


——満ちた。


数えおえると、ふいに、体が軽くなった。


海は、取りにきたのではなかった。返しにきたのだ。


沖から、白い顔が、いくつも、浮き上がってくる。ひとつ、ふたつ、数えきれない。三十年前に消えた漁師たち。もっと前に消えた、その父たち。みな、濡れて、青白く、記憶の顔のまま、浜へ上がってくる。


村の者が、立ち上がった。それぞれの一人を、迎えるように。トヨが、皺だらけの手を、若い漁師に伸ばした。ヤスが、膝から崩れて、「親父」と、ひと言だけ言った。


俺の前に、叔父が立った。


水を滴らせ、記憶のとおりの顔で。ただ、古傷が、逆の眉にあった。左を割ったはずの傷が、右にある。鏡に映したように、どこかが、裏返っていた。それでも、叔父の目だった。


「帰ろう」と、叔父は言った。生きていたころの、あの声で。村へ、と。


俺は、その手を取った。取れてしまった。傷が逆なことも、指の冷たさも、もう俺には障らなかった。俺の手も、とうに、同じ温度だったからだ。


夜が明ける。浜には、誰もいない。打ち上げられた魚は、いつのまにか消えていた。鳥居岩は、また、ただの岩の顔をして、沖に立っている。潮が引いても、根は見えない。


俺は、叔父と、村道を上っていく。バスは、来ない。一日に二本のバスを、俺はもう、待たない。


三十年後、海がまた頭数を数えるとき。


そのとき自分が、渡す側にいるのか、返される側にいるのか。俺はもう、それを知っている。


——起こすな、起こすな。


盆の唄が、俺の喉からも、低く、こぼれた。

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網代の海 中務ジェルフ @nakatsukasa-jelly

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