20. 聖蹟の記録

 マルコが宿に来たのは朝だった。


「ボスが呼んでいる。教会の件だ」


 館の二階に上がると、ダリオが扉を開けて部屋に迎え入れた。

 レオーネは窓際の卓に座っていたが、赤紫の酒は手つかずのまま置いてある。書類の束がいつもより高く積まれていた。


「教会の調達係から連絡があった。お前の鑑定士について」

「トラブルか?」

「いや。奇跡が起きたと言っている」


 レオーネは束から一枚を抜き出し、卓の上に滑らせた。


「三ヶ月伏せっていた修道士が起き上がった。鑑定士が出入りする時期と重なるとな。調達係のベルナルドが上に報告を上げた」


 ヴォルクは紙に目を落としたが、読めない。教会の書体だ。


「奇跡の中身は」

「病人が治った。それだけだ。だがそれで十分らしい。教会を建てた聖人に似ているとか、銀の髪がどうとか」

「教会って、上層部は狸ばっかだけど、現場の人間は真面目に神に仕えてるからねぇ。物事を信じやすいって言うか」


 ダリオは懐疑的だ。レオーネは杯に口をつけたが、半分残して卓に戻した。


「教会が列聖の手続きを始めたいと言い出した。まだ正式ではないが、ベルナルドが記録をまとめている」

「聖人認定か」

「聖人が出れば巡礼が増える。宿と飯と土産物に金が落ちるし聖遺物も売れる。教会は権威を得て、街は潤う」


 レオーネがヴォルクを見た。


「そしてその巡礼の道筋の整備、宿の手配、聖遺物の供給はうちが握っている」


 ヴォルクは黙って酒に手を伸ばした。城門の外の水割りとは別物だが、雪の国の蒸留酒を飲み慣れた舌には軽い。


「問題がある」

「何だ」

「あいつの顔は人を狂わせる。崇拝が加熱すれば、制御が利かなくなるだろう」


 レオーネは顎を引いた。


「どういう意味だ」

「あの男に入れ込んだ人間たちがどうなるか、俺は知っている」

「入れ込んで、捧げ物しまくって身を滅ぼすとかぁ? 芸術品みたいに綺麗な顔だし、わかんなくもないけど」


 軟派そうに見せているが、リコリスの顔を観賞用だと割り切っているらしいダリオは首を傾げている。起こることはそれよりも悲惨だが、ヴォルクは黙っていた。

 レオーネは暫く黙り、卓の上の紙を端に寄せた。


「儲かる話だが、危険だということか。……リリスの教会への出入りのペースを調整しろ。列聖の件は引っ張っておく」

「ペースは抑えられるが、止まる保証はない」


 レオーネは答えず、窓の外に目をやった。金が動く方角を見る男の目だった。


 館を出ると、日差しが石畳を白く焼いている。

 崇拝と執着は違う。雪の国の貴族や皇帝は個人の執着だったから、まだ何とかなったところがある。

 群衆にはそれが通じない。制御不能に陥れば、始末に負えないことになる。

 リコリスにも何が起きるか、まだ分かっていないだろう。


---


 鑑定が終えたリコリスは、薬草酒を飲みながらベルナルドの手元を見ていた。いつもなら記録をとって品を片づけるのだが、今日はまだ書き続けている。


「ベルナルドさん、何を書いているんですか」


 ベルナルドの筆が止まった。少し間を空けてからリコリスの方を向いた。


「リリスさん。お伝えしなければならないことがあります」


 声が硬い。何かを決意した表情だった。普段とは異なる様子にリコリスは思わず姿勢を糺す。


「病から快復した修道士が三人になりました」

「……それは、よいことですね……?」


 修道士の快復が、自分に何の関係があるのかと思っていれば、ベルナルドは思わぬことを口にした。


「あなたが訪れた時期から、快復が始まったのです。教会の上層が、あなたについての聖蹟を正式に記録するよう指示しました」

「僕が何かをしたわけでは」

「存じております。ただ、教会としては記録を残さざるを得ない。聖蹟の証言が重なれば、その次は列聖の手続きに入ることになるでしょう」


 聖蹟。列聖。その言葉にベルナルドを見た。事実を事実として伝えているだけの表情に見えた。

 それだけに困る。全くもって思い当たる節がない。

 リコリスは杯を卓に置いて反論を試みた。


「お待ちください、僕は聖人ではありません。今までの人生で、周りの人が快癒するようなことはありませんでした」

「授けられるタイミングはまちまちで、自覚のない方もいらっしゃいます」


 ベルナルドの声は静かだったが、視線はリコリスの顔に留まっていた。壁の絵と比べるのをやめている。もう比べる必要がないと判断した目だった。

 ここ最近の教会中の視線が腑に落ちた。リコリスの風貌が聖エレーナに似ていると看做され、何の因果か聖人の快癒と思われる現象が続いた。取り巻かれるようなことは起こらなかったが、奇蹟を期待され、注目されていたのだ。


「証言は事実を記すものです。あなたが何かをしたかどうかではなく、何が起きたかを書きます。それだけです」


 断る選択肢は、おそらくない。

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