19. 聖エレーナ

 五度目の訪問時、物品管理室に入ると、卓の隅に分厚い写本が開いたまま置かれていた。ベルナルドがリコリスに気づき、写本を静かに閉じて棚に戻した。


「お待ちしていました。今日の品はこちらです」


 聖遺物入れの銀、聖書の表紙の石、聖水盤の金属。手順通りに確かめて真贋を伝えた。

 終わってから杯に手を伸ばすと、もう薬草酒が注いであった。いつ注いだのか気づかなかった。

 口に運びながら、ベルナルドが写本を戻した棚の方をちらりと見た。革表紙の背に金の文字が押してあるが、読めない書体だった。


「ベルナルドさん」


 呼びかけると、ベルナルドがやっとリコリスの顔を見た。そしてまた、あの表情になった。リコリスと壁の絵の間で視線が行き来している。初回は一瞬だったのが、回を重ねるごとに長くなっている。


「何か気になることがありますか」

「……いえ。申し訳ございません」


 ベルナルドは小さく首を振って、品を片づけ始めた。

 リコリスはフードを被り直して部屋を出た。廊下で今度は三人の修道士とすれ違い、三人とも立ち止まった。


 ヴォルクは回廊の入り口で待っていた。並んで歩き出してから、リコリスは少し迷って口を開いた。


「ヴォル、教会の人の態度が変わってきた気がする」

「どう変わった」

「鑑定の腕か、顔を見られていると思っていたけど、違う。最近は……何かを噂されている感じ」

「問題になりそうか」

「……わからない」


 問題になるとしたら、この顔か、体質らしきものだと思っていた。それなら慣れている。今回は、何が起こっているのかわからないまま遠巻きにひそひそと見られていることに、リコリスは不気味さを感じていた。


---


 七度目の訪問で、物品管理室に入ったとき写本が開いたまま卓の上にあった。前回はリコリスに気づいて閉じて棚に戻していたのに、今日は片づけ忘れたらしい。


「お待ちしておりました。今日の品はこちらです」


 ベルナルドが示したのは、小ぶりの聖像と、奉納用の銀の皿が二枚。手に取って重さと質感を確かめた。銀の皿は光に透かし、刻印を読む。


「聖像は真作です。銀の皿は一枚目が真作、二枚目は鍍金です。銀の層が薄く、端を爪で引くと下地の銅が覗きます」


 ベルナルドは頷いて記録をとった。品の少ない日はすぐに終わる。

 杯に手を伸ばすと、薬草酒がもう注いであった。苦くて重い味にも少し慣れてきている。

 飲みながら、開いたままの写本にちらりと目を落とした。


 回廊の壁で見た聖人と同じ顔が、写本の頁にも描かれていた。銀色の髪に光輪、両手を広げた姿。壁の絵よりも色が鮮やかで、衣の青と光輪の金がまだ残っている。

 絵の下に細かい文字がびっしりと並んでいるが、読めない書体だった。


「ベルナルドさん、この方は」


 呼びかけると、ベルナルドが顔を上げた。一瞬ためらう間があり、写本の方に近寄ってきた。


「聖エレーナです。この教会を創建した時代の聖人で、銀の髪を持ち、触れた者の病を癒したと伝えられています」


 声が少し変わっていた。穏やかな調子ではなく、何かを量っているような慎重さがある。


「癒す、というのは」

「頭に手を置いて祝福を授けるのです。聖エレーナが祝福した病人は痛みが和らぎ、重い病から快復したと記録されています」


 リコリスは、「祝福」と口に出して、写本の聖人の顔をもう一度見た。


「この聖人は……祝福を授ける力を、どのように習得したのでしょう」


 ベルナルドの手が止まった。


「習得、ですか」

「はい。癒す力を、自分から望んで持ったのか。それとも」

「聖人伝にはそこまでは書かれていませんね。ただ、聖エレーナは生涯を教会に捧げ、最後まで祝福を授ける務めを果たしたとあります」


 リコリスは杯を卓に戻した。


「その力が要らないと思った人も……いたのでしょうか」


 ベルナルドが黙った。聖職者にとって、祝福ができる能力を要らないという発想は理解の外にあるのかもしれない。


「かつての祝福の力は神からの賜物です。望んで得るものではなく、授かるもの。近年は修行を経て習得しますが、要不要という考えの範疇では……」


 ベルナルドは言葉を切った。リコリスの顔を見ている。壁の絵ではなく、リコリスだけを。


「リリスさん。なぜそのようなことを」

「……いえ。聖人伝を読んだことがなかったので、気になっただけです」


 リコリスは立ち上がり、フードを被り直しながら扉に向かった。

 廊下で声が聞こえた。修道士が二人、早足で歩きながら話している。


「ルカ修道士が起き上がった。三ヶ月も伏せっていたのに」

「あの方が通うようになってからだ。たまたまにしては出来すぎている」


 フードの中で足が止まった。あの方、というのが誰を指すのか、一瞬わからなかった。

 背後でベルナルドの息が止まる気配がした。


「本日はありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします」


 ベルナルドが絞り出した声は丁寧だったが、手が小さく震えていた。

 リコリスは軽く頭を下げて部屋を出た。廊下を歩くと、すれ違う修道士たちが壁際に寄って道を空けた。

 何が変わりつつあるのか、リコリスにはまだわかっていなかった。

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