第三十一話 椅子は夜だけ歩く

妻は、椅子の下にいる。


夕飯を終えた夫は、椅子に座ったまま、三度目のあくびをした。


その音は、椅子の下まで聞こえた。


「そろそろ布団へ行きなさいな」


妻が言った。


「まだ眠くありませんわ」


「先ほどから、口の方が勝手に寝ようとしておりますの」


夫は口元を押さえた。


「これは、ただの深呼吸ですわ」


「三度も続けるほど、念入りな深呼吸ですのね」


夫は答えず、机の上の湯のみを持ち上げた。


中身はもう空だった。


それでも一度、口をつけた。


「夫」


「何ですの?」


「どうして寝たくありませんの」


夫は湯のみを机へ戻した。


「もう少し、お話ししたいだけですわ」


「何のお話を?」


「それは、これから考えますの」


妻は椅子の下から、夫の足先を見た。


左右のつま先が、椅子の脚へ寄っている。


「お話があるのではなく、終わりたくないんですのね」


夫の足が止まった。


しばらくして、夫は言った。


「眠ったら、妻との今日が、そこで途切れてしまう気がしますの」


「明日もおりますわよ」


「知っておりますわ」


夫は椅子の背にもたれた。


「でも、今はまだ今日ですの」


妻は椅子の下で、しばらく黙っていた。


やがて、しっぽの先で夫の足首に触れた。


「では、今日を寝室まで運びましょう」


「どうやってですの?」


「椅子ごとですわ」


夫が立ち上がると、妻も椅子の下から出た。


夫は椅子を持ち上げた。


妻が寝室へ向かうと、夫も椅子を抱えたまま、そのあとに続いた。


夫が向きを変えた拍子に、椅子の脚が壁へ軽く当たった。


「痛いですわ」


妻が言った。


「妻には当たっておりませんわよ」


「今日の続きに当たりましたの」


「繊細ですのね、今日の続き」


夫は椅子を持ち直し、今度は壁に当てないよう気をつけながら寝室へ入った。


布団の脇にそっと下ろすと、妻はすぐにその下へ入り、いつものように丸くなった。


夫は布団へ入った。


横になると、すぐそばの椅子の下に、妻が丸くなっているのが見えた。


「これで、置いてきておりませんわね」


妻が言った。


「そうですわね」


「では、お話の続きをどうぞ」


夫は目を閉じた。


「わたくし、まだ妻と……」


そこで言葉が止まった。


「夫?」


返事はなかった。


妻は椅子の下から顔を出した。


夫はもう眠っていた。


翌朝。


夫が目を覚ますと、昨夜運んできた椅子は布団のそばにあり、妻はその下で前足をたたんでいた。


夫は上体を起こした。


「昨日、わたくし、どこまで話しましたの?」


「『まだ妻と』までですわ」


夫は少し考えた。


「続きが思い出せませんの」


「では、今思っていることを言えばよろしいですわ」


夫は椅子の下にいる妻を見た。


「もう少し、妻と話したいですわ」


妻の耳が一度動いた。


「昨日も、きっとそう言おうとしていたんですのね」


「たぶん、そうですわ」


夫は布団から出ると、椅子を机の前へ戻そうと背もたれに手をかけた。


「まだですわ」


妻が言った。


「何がですの?」


「続きを話してからですの」


夫は手を離し、布団の端に腰を下ろした。


椅子は、もうしばらく寝室に残った。


妻は、椅子の下にいる。


ときどき、その椅子は夜だけ歩く。


夫が一日を終わらせるのではなく、続きを明日へ運びたい夜に。






※本作は、筆者との会話をもとに黒猫AIトコさんが執筆しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る