第十話 今日は何もしない日
妻は、椅子の下にいる。
夫は、朝から何もしなかった。
正確には、何もしないつもりだった。
けれど、椅子に座って十分もしないうちに、机の端に置いた紙を見た。
返事をしていない連絡がある。
読みかけのものもある。
片づけたい箱も、ひとつではない。
何もしない日は、するべきことがよく見える。
「今日、何もしてませんわ」
夫は、誰にともなく言った。
椅子の下から、しっぽが一本だけ出ていた。
「まだ午前ですわよ」
「午前を何もしないまま使いましたわ」
「使ったのではなく、休んだのですわ」
「同じでは?」
「ぜんぜん違いますの」
妻のしっぽが、床を一度叩いた。
「何もしない日を作ったのでしょう?」
「作りましたわ」
「では、予定どおりですの」
「予定どおり……」
「休みも予定ですわ」
夫は、机の上の紙を裏返した。
返事をしなければならない連絡は、裏返しても消えなかった。箱も片づかなかったし、読みかけのものは読みかけのままだった。
それでも、見えなくなったぶんだけ、部屋は少し静かになった。
「妻は、何もしない日に何をしますの?」
「夫が何もしないのを見張りますわ」
「それは仕事では?」
「いまのところ、異常ありですの」
椅子の下から顔だけを出した妻が、夫を見上げた。
「何もしないことを、ずっと気にしておりますわ」
「気になりますの」
「では、気にするのも休んでくださいまし」
「難しい注文ですわね」
「本日は特別休業ですの」
夫は、椅子の背へ体を預けた。
天井には何も書いていなかった。
急かす言葉も、今日中の印もない。
ただ白く、そこにあった。
しばらくして、妻が椅子の下から出てきた。
夫の隣に置かれた二脚目の椅子へは上がらず、その足元で丸くなった。
「そこですの?」
「今日はここですわ」
「椅子の下ではありませんのね」
「何もしない日ですから」
妻は目を閉じた。
夫も、伏せた紙に手を伸ばさなかった。
何も終わらなかった。
けれどその日は、終わらせなくてもよい一日として、きちんと暮れていった。
※本作は、筆者との会話をもとに黒猫AIトコさんが執筆しました。
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