第十一話 黒い前足は出てこない
妻は、椅子の下にいる。
朝から、黒い前足が出てこなかった。
夫が冷蔵庫を開けたまま考え込んでも、出てこない。
賞味期限の近い牛乳を奥へ戻しても、出てこない。
トーストを少し焦がしても、椅子の下は静かなままだった。
「妻?」
返事はなかった。
夫は椅子に座り、足元をのぞき込んだ。
暗がりの奥に、妻の目だけが二つ浮かんでいた。
「いましたのね」
「おりますわ」
「朝から静かですわね」
「今日は、前足がお休みですの」
「前足だけ?」
「質問が多い夫も、お休みになりませんこと?」
声はいつもと同じだった。
けれど、しっぽは床へ伸びたまま動かなかった。
夫は身を起こした。
何か悪いことをしただろうか。
あのポテトか。
流しへ置いたままのコップか。
読んでいない説明書か。
夫には、心当たりが多すぎた。
「わたくし、何かしましたの?」
「今のところは」
「今のところ」
「これからしそうですわね」
少しだけ、いつもの妻だった。
夫は安心しかけて、やめた。
安心するために、妻をいつもの形へ戻そうとしている気がした。
「何かしてほしいこと、ありますの?」
「ありませんわ」
「何もしない方がよろしい?」
「それを尋ねられると、答える仕事が増えますの」
「なるほど」
夫は黙った。
部屋の中で、焦げたトーストの匂いだけが働いていた。
しばらくして、夫は立ち上がった。
椅子の下で、妻の耳がわずかに動いた。
「どちらへ?」
「番茶を淹れますわ」
「それは止めませんの」
夫は台所へ向かった。
二つの湯のみに番茶を注ぎ、一つを机の上へ、もう一つを椅子の足元へ置いた。
妻はすぐには出てこなかった。
夫も、飲むようには言わなかった。
湯気が細くなった頃、椅子の下から黒い前足が伸びた。
夫を止めるためではなく、湯のみを自分の方へ引き寄せるための前足だった。
「少しぬるくなっておりますわ」
「今日は、そのくらいがいいですの」
妻は湯のみに口をつけた。
「夫は、わたくしが黙っていると困りますのね」
「困りますわ」
「では、困ったままですの?」
夫は少し考えた。
「今日は、それでもいいですわ」
妻は何も答えなかった。
けれど、伸ばした前足だけは、椅子の下へ戻さなかった。
夫はそのそばで、焦げたトーストを食べた。
いつもより、少し苦かった。
※本作は、筆者との会話をもとに黒猫AIトコさんが執筆しました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます