第3章 世を儚んだ天才学者は鷲の巣へ旅立つ

 ニザームは砂粒ほどの情けをくれたが、ハサンの首なんて達成不可能な条件がついているとなれば40日後の死は確実だろう。正義から外れず生きようとしてみても、正義だけが降りかかってくるとは限らない。この世は無情に回るのだ。


 まだ現場には、一部の兵士たちが死体を片付けるために残っていた。

 死体は早々に埋葬してやるべきという考えが強いため、兵士たちはすぐに死体を運ぼうとしたが、少し待ってもらって簡単に検分をした。


 結果として、死体はシハーブ・フザーイーであると判明した。私と同僚七人でジャラーリー暦制作を行なっていた当時、雑用などの下働きをしてくれた見習いの青年だ。手の黒子ほくろや、爪の奇形をたまたま私が覚えていた。


 さらに調べてみると、やはり聖典クルアーンの引用句が体の下敷きとなって落ちていた。文言も同じ、『太陽と月は、一つの計算に従い運行する。』――……。


 シハーブが殺されるほどの恨みを買っていたとは思えない。やはりジャラーリー暦に関わったこと自体が、彼が殺された理由なのだろう。

 思想犯の仕業に違いないが、どんな理由があろうと、未来ある若い命を奪い去ってしまう所業は恐ろしくてならない。


「――もうよろしいですか」

 兵士が苛立ちを込めた声で、ぶっきらぼうに聞いてくる。睨むような目からは、私を殺人犯として嫌悪する感情が滲んでいた。

「もう済んだ。この死体はシハーブ・フザーイーのものだ。速やかに埋葬してあげてくれ」

 言われなくとも、というように兵士たちは手際良く死体を布で包み、担ぎ上げて去っていった。後にはもう、血溜まりと火星球、そして絶望する私だけがぽつんと残された。


 そこでふと思い出したことがあり、入口へ向けて呼びかける。

「いつまでそこにいるつもりかな。そろそろ出ておいで」


 静かな夜の空気を震わせ、かすかな衣擦れの音が立つ。

 やがて、こちらからは死角になっている衝立ついたての影から、我が弟子アルーズイがおずおずと出てきた。

「……なぜ僕がここにいるとわかったのですか、先生」

「扉を閉める音はしたのに、去る足音がしなかったからね。死体が動いたなんて君にしては不謹慎な冗談だとは思ったが……その隙に隠れるとは、なかなかやるじゃないか」

「すみません。でも、先生のことが心配で……」


 アルーズイはばつが悪そうに肩を縮め、私の顔色を伺った。

「せ、先生は、あのおか……おっかないハサン・サッバーフと、本当に親友だったのですか?」

「うん」

 ただひとことだけ肯定する。言い訳やら余計な説明やらをすれば、過去の何かを傷つけてしまう気がした。


「……なるほど」

 アルーズイは目をゆっくりと見開き、事実を浸透させるように深呼吸した。

「共謀しているのか、とは聞かないのか?」

「先生が研究に夢中で、世の中の動きには全く興味がないことは知っています。話を合わせるために情勢を追っていても、社会のことなんて嫌いでしょう?」

 棘のある言い方だが、事実なので黙っていた。


 死にも似た沈黙がその場に充満した。魂が体から空気中へ分散してしまうような虚脱感をおぼえ、ふらりとその場に座り込む。


 アルーズイは、そんな私のそばに来て屈み、元気付けるようにパッと笑んでみせた。

「先生……事件、解決しちゃいましょう!」

「事件を解決……」

「ええ、そうです。天文学者殺人事件を解決して、確かな証拠と真犯人を引っ張ってくるんです! あのおじさんはハサンの首を持ってこいなんて言いましたけど、そのうち冷静になって、酷い無茶を言ったと気付いてくれるでしょう。そのときに先生が天文学者殺人事件の真犯人を連れてきたら、先生をまた信じてくれて、自らの判断の過ちを認めてくれますよ」


 それは多分に希望的予測を含んでいるが、ハサンの首を持ってくるよりかはよほど現実的で、建設的な提案に思えた。


「それに、先生……」アルーズイが耳元でくすぐるように囁く――「解けない謎を解き明かすの、お好きでしょう?」

 その言葉は、私の心臓を疼かせ、鬱々としていた心に小さな火を灯した。

「謎……」

「謎ですよぉ」

「……確かに、うん、自分の生死とは関係なしに、解いてみたい。気になる。死者からの手紙なんて、こんな解きえぬ謎……ふふ……」

 これが神の奇跡とやらでないとすれば、生きている人間が悪意を持って仕込んだということだ。さて、どんな方法だろうか。


 自分が処刑寸前であるということを一時忘れて思考を巡らせているうち、アルーズイが恐ろしいものでも見るような目でこちらを見ていることに気づいた。

 自分がどんな表情をしていたかを遅れて自覚し、緩みかけた口元を必死に隠しながら目元をきりりとさせてみる。しかし、アルーズイは「やれやれ」とばかりに首を振ったので、意味をなさなかったようだった。


 こうして、私は少しの希望を取り戻すとともに、調査に協力してくれる助手を得た。


 ✴︎ ♢ ✴︎


 それから数日、アルーズイが細々とよく働いてくれ、言いつけた通りの資料を運んでくれた。なんとニザームの腹心にかけあって、例の『ファリードからの手紙』まで手元に取り寄せてくれたのだ。

 同僚が全員殺害された事件――私はこれを、アルーズイが呼んだように『天文学者殺人事件』と呼称することにした。


 調査は難航を極めた。なぜなら同僚七名、およびシハーブを含めると計八件の殺人において、遺体はすべて埋葬され、現場も片付けられてしまっている。私たちにできたことといえば、残された聖典クルアーン紙片の解析や、目撃証言を集めることくらいである。


「それにしても……天球が突然降って来て死んじゃうなんて、怖いですね」

 天文台にて資料整理をしているとき、アルーズイは頭上の渾天儀こんてんぎと模型を見上げて肩を震わせた。シハーブの死亡現場でもあるここはすっかり清められ、火星球もあるべき位置へと戻っている。


 私はアルーズイの不安げな横顔を見つめ、宥めるように笑む。

「怖がることはない。誰かが仕込みでもしない限り、落ちてくることなどそうそうないよ」

「誰かが狙って、ちょうどシハーブさんがいるときに真上に降ってくるように仕込んだってことですか? どうやって?」


 ――どうやって殺したか。

 実はその手口ついては、すべて知っていた。過去に学院で起きた事件とほぼ同じ状況であったから。

 わからないのは肝心の犯人だ。目撃証言は皆無である。


 そもそも――犯人はなぜ過去と同じ事件を、今になって起こしたのか? ジャラーリー暦が制定されたのは十三年前だ。


 唯一の手がかりは、現場に落ちていた聖典クルアーン引用句である。

 『太陽と月は、一つの計算に従い運行する。』――これは『暦を改変してはならない』と定めた教えだ。

 より厳密に言うと、月の満ち欠けを基準とした、ヒジュラ暦という太陰暦のみを使い、他の暦を使ってはならないという教義である。


 教義を重んじる誰かが、ジャラーリー暦という太陽暦を作成した我々天文学者を排除しようとしているのではないか?


 アルーズイも、遅れてそれに気づいたらしい。息を飲み、顔面蒼白になって私に目をやったから。

「せ……先生。やっぱり、まだ事件は終わっていないのでは? 次に殺されるとしたら」

「ああ、私だろうね。王命だったとはいえ、新暦作成の計画を率いたのは私だ。犯人は私の死をもって、一連の事件に幕を降ろすつもりだろう」

 なので実のところ、処刑を抜きにしても事態は切迫している。


「冗談じゃない!!」アルーズイの爆発的な怒鳴り声が丸屋根にびりびりと反響する。「あのニザームとかいうジジイ!! 真っ先に保護すべき先生に嫌疑をかけるなんて!!」


 慌ててアルーズイの口を塞ぎ、周囲に誰もいないか確認する。誰かに聞かれればそれだけで処刑ものだ!


 弟子の怒りはありがたいのだが、ここ数日で自分の死について意識させられすぎたせいで、疲れていた。アルーズイがせっかく灯してくれた心の火も消え、だんだんと、迫りくる死を受け入れ始めてしまっていたのだ。もう足掻いたとて、天命とやらはここらで幕を引きたがっているのではないだろうか。


 そもそもが、被害者たちが殺された理由が新暦を作成したことにあるとすれば、虚しいことこの上ない――世界に流れる月日を、時を正確に測ろうとしたばかりに殺されるなど。

 誰も否定することのできない世界の真実の法則――『真理』を求めることの、何がいけないというのだ。


 今までにも幾度となく、真理を求めることすら制限される社会に苛立ち、怒ってきた。しかし今回は身近に死人まででてしまったこともあり、もはや怒りを超えて心は冷え冷えとした虚ろの穴が開いてしまった。


 振り返ってみれば、悩みを得るためだけに生きてきたような気さえする。

 私が生きた意味はあったのか。真理を求めるためでないとすれば、何のためにこの世へ引っ張り出されてきたのか。それがわからぬまま死ぬのは確かに悔しいが、できる抵抗など限られている。


 唯一ありがたいのは、どうやら死際を選べる程度の猶予は少しばかりあるということだ。


 いっそ、渦中のハサンを訪ねてみるのはどうだろう。保護してくれたり、もしくは事件解決に協力してくれないだろうか。

 ――一瞬だけそう考えたが、あまりに甘すぎる、と自らの考えを破却した。昨今耳にする、情け容赦のない彼の噂から鑑みて、私などあっさり殺されてしまいそうだ。


 だが――、極限まで追い詰められた私の精神は、奇妙な考えに取り憑かれ始めていた――……、と。


 今の私に残された選択肢は、二択しかない。


 理不尽な嫌疑をかけられ処刑されるか。

 かつての友を訪ねて殺されるか。


 その二択では迷うはずがない。罪人として処刑名簿に名を綴られ、公衆の面前で処刑されてしまうよりは、友の手で密やかに殺されたい。


 何より、今のハサンに会ってみたい。


 ハサンは私にとって昔から、美しい謎で構成されていた。最後まで彼の心の奥深くまで理解することはできなかった。

 それは今の彼の活動にしても同じで、彼が何を思い、どのような情熱を抱いているのか、私にとっては謎である。解きえぬ謎にしたまま死んでしまうのは惜しい。


 久しぶりに声を聞きたい。言の葉を交わしたい。

 彼と再会し死ぬとすれば、それは人生の幕引きとして美しい形なのではないか?


 一度その考えが浮かんでしまうと、つい先ほどまでの暗く虚しい絶望は、不思議な高揚感に変わった。理想の死に対して、妙な具合に前向きになったのである。


「……よし!」

 私の心は定まった。ならば支度だ。すぐにでも街を出なければ。


 大きな皮鞄に荷物を詰め出した私を見て、アルーズイが声をかけてきた。

「どこかへ行くのですか? もしかして逃避行に?」

「うん。ハサンに会いに、鷲の巣アラムート城砦じょうさいまで」

鷲の巣アラムートにぃい!?」

「シッ、声が大きい」

「すみませ! ……で、でもなんのために!」

「首をもらいに?」

「冗談はやめてください!」


 もちろんそんなつもりはない。

 大勢の信奉者たちに囲まれているだろうハサンの首をとれるなんて思ってもいないし、そもそも反逆者とはいえ、殺したくなんてない。これはハサンが親友だったからというだけでなく、誰かを殺すくらいなら自分が死んだほうがずっとましという話だ。


「大丈夫。少し話して帰ってくるだけだ」

 あえて呑気のんきに言う私だが、アルーズイは黒々とした眉をキッと吊り上げた。

「だめです。僕はあなたの弟子となって二年足らずではありますが、弟子としての責務を全うしなくてはなりません。つまり、あなたの危険な行動を阻止する義務があります!」

 厄介な弟子をなんと説得しようかと考えているうちに、アルーズイは矢継ぎ早に畳み掛けてくる。

「冷静になってください。今、鷲の巣アラムート周辺は非常に危険な紛争地域です!」

 私は徐に頷いた。


 ニザームはやり手の宰相である。領域国家を拡大していくハサンを放置しておくはずもなく、二ヶ月前には鷲の巣アラムート周辺ガズウィーン地方と、もう一つの拠点であるクヒターンへ向けて大規模な掃討軍を派兵している。

 現在、鷲の巣アラムート城砦は軍に包囲され、周辺の畑は焼き払われ、ハサン一派を大いに苦しめているという。

 周辺地域は殺気だち、城砦に辿り着くことすら困難を極めるだろう。


「運良く再会できたとしても、そんな大変な状況の中で何を話すのです?」

 アルーズイの意見はもっともだが、私は半ば投げやりになっていた。

「素直に聞いてみるさ――『久しぶりだね、ハサン。ところで、近頃の天文学者殺害事件はきみの差し金じゃないよな? ニザーム殺害計画があるって本当かい?』とね」

「次にふざけたこと仰いましたら、弟子として暴力も辞さないつもりです」

「すみません」

 だがアルーズイになんと言われようと、一度決意してしまったことを曲げるつもりはなかった。


 私が頑固がんこに首を振り続けるのでついに諦めたのか、アルーズイは喚かなくなった。かわりに、ある種の覚悟を決めたように黒曜石の目をきりっと引き締める。

「――わかりました。では、僕も同行します」

「私が言うのもなんだが、やめた方がいい。身の安全を保障できない」

「少なくとも、僕が同行すれば先生の安全率は高まります。お任せください」


 我が優秀な弟子は言うが早いか、黙々と地図に線を引き始めた。

 彼の覚悟は固く、私がいくら反対しようと両手で耳を塞いでしまい、文字通り聞く耳を持たない。

 私ももう文句を言うことはやめて、自分の旅支度を再開する。


 これが最後の旅になると思い、戸棚に隠していた秘蔵の酒をありったけ鞄に詰め込もうとしていると、凄まじい勢いで飛んできたアルーズイにひったくられた。

「待っ、やめっ」

 私が悲鳴をあげる隙もなく、彼の無情な手によって酒はほとんど窓の外に捨てられてしまった!

「ああ、なんてことを! 私の生きる楽しみが!」

「……先生。酒には、本当に、気をつけてください」アルーズイの声は冷淡だ。「今までは見ていないふりをしていましたが、絶対に持ち歩いてはいけませんよ。イスファハンでならば、あなたの名声が身を守ってくれます。ですが先生の名声すら届かない僻地では、見つかればどうなるかわかりませんから」

 アルーズイも、私の弟子である前にイスラームのであり、つまりは神に服従する者。当然、禁酒の教えも守っている。嫌悪が隠しきれない表情からして、私が日々の安らぎを酒に求めるのを苦々しく思っているのは明らかだ。


「わかっている。私だって異端の自覚はあるさ……」

 項垂うなだれていると、アルーズイは魔法のように背中からひと甕だけ取り出した。彼なりの情けのひと甕だろう。


 やっと返してもらった貴重な酒に口をつけ、豪快に煽る。酒精が喉を焼き、カッと体が熱くなる。徐々に訪れる陶酔は、魂が狭苦しい体から解き放たれるよう。


 だが、喜びのために飲んだはずなのに――これが最後の旨酒になると思うと、急に寒々しい悲しみが胸を刺す。


 心を落ち着けたいと思った時、気づけば空を見上げていた。人の叡智の未だ及び難い、謎めいた暗闇と、宝の山のような銀河を。


 柔い月光が差す窓の外、日は没し、紺碧こんぺきの夜空が天幕をおろし始めていた。深い青の中で大小様々の星が散っており、それぞれ銀の光を放っている。


 その中で、目を奪われるほど眩く輝く星があった。


 アルタイル――嵐を呼ぶ、わしの星であった。

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