第4章 アラムート
イスファハンより幹線道路に沿って進み、約95ファルサフ(約510キロメートル)あまりの道程を、ひたすらに馬でゆく。
私は旅の困難に喘ぐたび酒家を探そうとしたが、アルーズイがその都度、手やら肩やらを引っ叩いてきた。弟子としてどうなんだろう、これは。
アルーズイを忌々しく思うこともあったが、実際彼はよく尽くしてくれた。特に、ハサン一派による非公式な関所で通行料を求められた際には。ハサンによる関所は想定外だったため金が足りず困ったが、アルーズイが上手く交渉してくれたので大いに助かった。
一方で、ハサンの影響力の強さを痛感することにもなった。あいつめ、私の心臓だけでなく財布まで痛めていくとは。
だが苦労のぶん、遠くにアルボルズ山脈が見え始めたときには感動に打ち震えた。
大自然がつくりあげた、並々と連なる壮大な山脈。上部は白く雪を被り、雲ひとつない青空に白線を引いたようだ。だが涼やかな見た目に反して私の周囲を取り巻く空気は熱く乾燥したままであり、数日後にはあれに登るのかと思うと気が滅入る。
異変が起きたのは、アルボルズ山脈目下・レイ周辺に差し掛かったとき。
真夜中、レイの隊商宿で休んでいると、唸るような地響きが徐々に近づいてきた。
「なんだ?」
アルーズイとともに狭い窓から顔を出す。中庭を挟んだ側面の部屋のため、身を乗り出さねば大通りの様子が見えないのだ。他の宿泊客も異変を感じたのか、窓からはいくつも顔が覗いていた。
月明かりで浮かび上がる大通り。道の先が霞んで見える――もうもうと土煙が立っているのだ。
土煙の奥から、黒黒と蠢く影が見えてきた。地響きの正体は重々しい馬の蹴爪の音、そして金属の鎧のぶつかる音。大軍が移動しているのである。
掲げている旗章は水色に双頭の鳥。鎧の意匠からしても
遠目から見ているだけでも汗が浮いてくるほどの緊迫感を纏い、時折飛ぶ指令も苛立ちに満ちた声音である。
詳しい事情は察せずとも、それが敗軍であることは明らかだった。
「――少し探ってきます。先生は部屋から動かないで!」
「あっ、こら!」
アルーズイは興奮気味に目を輝かせ、止める間も無く部屋を駆け出て行ってしまった。
間も無くして戻ってきたアルーズイは、嬉しげに状況を説明した。
なんでも、軍は順調にハサン一派を追い詰めていたそうだが、二日前にハサンの少数精鋭部隊から手痛い奇襲を受け、敗走しているのだという。掃討作戦は失敗したのだ。
「やりましたね! これで少なくとも、板挟みになって死ぬことはなくなりますよ」
「まったく、どちらの味方なんだか」
少なくともハサンが死ぬとは一切思っていなかったが、向かう先が紛争真っ只中でないのは安心材料である。
翌早朝にレイを発ち、二日かけてガズウィーン地方まで来ると、それまではひっきりなしにすれ違っていた隊商の姿が一気に見えなくなった。
ガズウィーンをしばらく進むと、もう眼前にアルボルズ山脈の大自然が広がっていた。宿で聞いたところ、鷲の巣城砦はアルボルズ山脈の中心部のアラムート山の高い峰にあり、広大な渓谷を見下ろすかたちで聳えているという。
出立から数えて12日目、ついにアラムート山へ続く渓谷に踏み入った。
高く切り立った絶壁に挟まれたアラムート河の渓谷は、ぐねぐねと曲がりくねった厳しい岩道を通り抜けねばならない。
昼になると、頭上からは灼熱の太陽が炎のように身を焼く。見上げると、目に痛いほどの青空に、二羽の大鷲がゆっくりと弧を描いて舞っていた。
渓谷を抜け、やっとの思いでガゾル・ハン村に到着したときには夕刻近くだった。ここはもう、アラムート山の麓。私たち以外によそ者は一人もいない。
簡素な家々から覗く村人たちは、私たちを睨んでいる。その目線は警戒と怯えだ。周辺の畑や果樹園が軒並み焼き払われていることや、軍の旗や荷物の残骸が散っていることからして、この地が占拠されていたことは想像に難くない。心境は察するに余りある。
ずいぶんときつい北部訛りが聞こえると思うと、アルーズイが村の小さな宿の主人と何事かを話している。
「アルーズイ。彼はなんと?」
「馬は取られるかもしれないから、置いて行けと言っています」
「取られる?」
「物資不足が酷いのでしょう」
「そうか。君の帰りのことも考えるなら、置いていくべきだろうね」
アルーズイは何か言いたげに私を睨んだが、結局何も言わなかった。そのまま宿の主人に馬を預けると、私に包帯を渡してきた。
「予め足に巻いておくといいですよ。あとほんの1ファルサング程度らしいですが、先生にはきつい道でしょうから!」
「うう……」
険しい登山道を想像して泣きたくなった。だがそれを口にすれば、「だから言ったでしょう!」とアルーズイは詰ってくるだろう。
案の定、貧弱な学者の体は斜面を登り始めてすぐに悲鳴をあげた。足は熱く痛み、岩でひっかけた服は破れてしまう有様。
こんな厳しい土地に場所に住むなんて、城主様はどうかしている! だが一方で、要塞とするならこんなに完璧な場所はない。住むには非常に不便であるが、易々とは攻めいれまい。
斜面はどんどんきつくなり、登れば登るほど風も勢いを増して吹き付ける。谷底の川が小さく見え、ガゾル・ハン村は今や箱庭のようだ。
ところが、突如として不思議な変化が訪れた。
私たちは、いつのまにか真っ白な濃い霧に包まれていた。体を覆う空気は水気を含んでひやりと冷たく、呼吸とともに肺にまで入り込む。
世界は死したように静かだ。山犬がどこかで遠吠えをあげたきり、風の音もやんだ。道中で理想の王などについてぺちゃくちゃ喋っていたアルーズイも、緊張した面持ちで口を引き結んでいる。
急に別世界に迷い込んだかのようである。
「あ……」
ついに霧の奥から、目的地が姿を現した。
それは、空に突き刺さる矢であった。
空に向かって突き出た岩の頂から伸びる、鋭い尖塔。ルビー色の西日に照らされ、尖塔の輪郭は赤く輝いている。
尖塔ひとつの城かと思いかけたが、違う。岩山すべてが城である。尖塔へと続く一本道上に、いくつもの建物が点在しているのだ。住処というより、山岳要塞の色が強い。荒々しさと神秘を兼ね備え、人が近づくことを拒むような威圧を放っている。
まだ距離があるというのに、圧倒され、言葉を失った。
あの城に。そしておそらくあの尖塔に、ハサンがいる――それは朝になると太陽が登るのと同じように、当然のことに思えた。侵しがたい神秘の空気が、ハサンに似合いすぎている。ハサンがこの地を本拠に選んだ理由は、この地が攻め入りにくいからというだけではないだろう。
長旅の疲れすら忘れ、景色に見入っている時。
突然、背後から強い力で肩を引かれた。あっと声をあげる間も無く、口元を塞がれる。
「ンッ!?」
心臓が止まりそうになる――首筋に押し当てられた冷たいものが、すぐにでも命を奪える道具だと悟ったからだ。
呼吸の仕方を忘れて固まっていると、耳元で若い男の声がした。
「軍の残党か?」
北部訛りの強い言葉――ハサン配下の地元民だろう。真横で、アルーズイも別の男に拘束され、顔を引きつらせている。
私は敵意がないことを示すためゆっくりと両手を上げ、口元を抑えてくる相手の手を優しく叩いた。相手は首筋の短剣はそのままに、口元だけを開放してくれた。
努めて丁寧に、わかりやすいペルシア語で話す。
「……私はただの旅人で、職業は学者だ。見てもらえばわかるように、武器も何もない。敵ではない」
そうまで言っても、男たちの目から疑いは消え去らない。私たちが地元住民でも行商人でもないことが明らかだからだろう。だが私の体を調べるうち、あまりに貧弱だからか、だんだんと敵意が薄まっていくのがわかる。
荷物は取られてしまったが、首元の短剣はようやく下ろされ、解放された。
「……ここへは何をしに?」
先ほどより緊張感の抜けた口調で、男が聞く。私を拘束していたのは、地元農民らしい簡素な汚れた服の若者だった。
「親友を訪ねに来たんだ。この地域は大変なことになっていると聞いたので、心配になってしまって」
「そうか。それは悪かったな、で、その親友ってどのあたりに住んでいるんだ? このあたりは危ないぜ。詫びがわりに途中まで荷物を運んでやるよ」
北部の民は気性が荒いとも聞いたことがあるが、なんとも気さくで親切である。あくまで外敵に対してそうというだけで、身内には違うのだろう。
「私の親友は、あの城にいるハサン・サッバーフだ」
隠しても仕方がないと素直に言ったのが間違いだった。その一言だけで、一度は警戒を解いてくれた若者たちは再び首元に短剣を突きつけてきた。アルーズイが「せ、ん、せ、い!」と怒りの目を向けてくる。
「お前たち、
「嘘ではない! 私の名はウマル・ハイヤーム。どうか私の名だけでも、君たちの
若者たちは困惑した様子で目配せしあい、ぼそぼそと打ち合わせしている。
やがて私たちをまとめて農作用の縄でぐるぐる巻きに縛ると、一人が早足に去っていった。もう一人の残った方は見張りだろう。
どれほど待っただろうか。満点の星空を眺めていると、ようやく若者が戻ってきた。やってきたのは一人ではない。
二人は今にも転びそうな勢いで駆けつけてくると、慌てた手つきで私の拘束を解いた。
縄で傷ついたひりつく手を撫でていると、
「ハイヤーム様。先ほどは大変な失礼を。
✴︎ ♢ ✴︎
その予想は当たっており、
「なあ、おい! 僕の縄はー!?」
未だ縛られたまま歩かされているアルーズイが乱暴な口調で喚くが、ミシュアルは視線すら向けない。見かねて私からも、何度目かになる要望を口にする。
「どうか、我が弟子の拘束も解いてくれないか。ご存知の通り敵対の意思はない」
「それはできません。
「ろっ……」
私とアルーズイは絶句し青ざめた。
「……ま、待ってくれ。何も牢獄はないだろう」
「そうだそうだ!」
私たちは必死に声を揃えて抗議したが、ミシュアルは「
アルーズイは縄で引きずられるように岩道を登らされている。私は拘束こそされていないが、いつのまにか屈強な男たちに囲まれて、ほぼ強制的に歩かされていた。先頭を歩くミシュアルの持つ松明が、男たちのやつれて落ち窪んだ目元を照らす――包囲戦の飢餓から立ち直れていないのは明らかだ。
岩の斜面や階段を登っていく。各所に木の
彼らはイスラームの一派であるイスマーイール派の徒。そして、イスマーイール派を煽動するハサンの熱烈な信奉者である。
このような住みづらい土地に居着くには、相当な信仰と覚悟が必要だ。狂信者、と呼んで差し支えないだろう。
正直なところ、イスマーイール派の教義について私は賛同していない。ハサンの活動を耳にした時からずっと、彼らのことを深く研究したが、彼らが真理への途上にあるとは思っていない。
ふと、とある噂を思い出す。ハサンが近隣の若者を誘拐しては、麻薬で洗脳し信奉者に仕立て上げてしまうという噂だ。
長い道のりを献身的に尽くしてくれたアルーズイを、そんな目に遭わせるわけにはいかない。
山城を登るほど空気はいよいよ冷たく、風は私たちを追い詰めるように厳しく吹き付ける。
途中で脇道に外れ、細い岩道を歩かされたと思うと、ミシュアルは道の先を示した。
「
見れば進む先は崖になっており、簡素な木の梯子がずっと下まで伸びている。崖下を覗くと、大きな篝火が焚かれており、天然の洞窟を不気味に照らしていた。
男たちとアルーズイに続いて、私も梯子を下る。この先が客人を迎えるための空間だとは思えない。今から嫌な予感がしてならないが、逃げ出すこともできなかった。
松明だけを頼りに闇を切り裂き、洞窟を進んでいく。空気がひんやりとして、湿っぽい空間だ。
分かれ道に突き当たったとき、その瞬間が訪れた。
「では、ここからはハイヤーム様おひとりで」
「な……」
ミシュアルは私だけを右の道へ案内しようとし、アルーズイは男たちにより左の道へ――奥の見えない暗闇の方へ引きずられていく。
「せっ、先生えええええ!!」
「先生、先生! 親友さんに会うのでしたら、変なことは言わず、命乞いをしてください! どうか僕の命乞いもお願いしますよ!」
「なるべく、努力はする」
「なるべくじゃなく絶対お願いします!」
アルーズイは必死の形相のまま暗闇の奥へ引きずられていき、見えなくなる。
喚き声はしばらく響き続けていたが、それもついに聞こえなくなってしまったとき、ぞっと身が凍った。静寂が嫌な想像をかき立て――アルーズイが無残に殺される光景が脳裏によぎったのだ。
私はともかく、アルーズイは早急に救い出さねば。ハサンに会って当たって砕けろの精神でいたが、成すべきことが増えてしまった。
「――さ、
ミシュアルは何事もなかったかのような笑顔で私を先導する。
背中を大粒の汗がひと筋流れた。
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