第3話 30年ぶりの赤ん坊

 私の涙を顔に受けて、赤ん坊が、目を開けた。


 濃い黒茶色の瞳。ほんのり緑色が混ざっているのは母親の瞳の色だろう。

 その面影は、息子のものだった。


「ははは。あの子にそっくり。」

 私の頬に、また涙が伝う。


「ふや~……」

 あくびともつかない初声を発しながら、もぞもぞ動いた。

 じんわりとお尻の辺りがぬくもって……。


「あ、おむつ……。」

 赤ん坊がオムツを濡らしたようだ。し終わったとたん、泣き始めた。


「おむつ、おむつ!」

 置かれた荷物を片手で拾い上げ、慌てて家の中に駆け込んだ。


 どんどん激しく泣き始める赤ん坊。

 焦る私。


 荷物の中身は、汚れたオシメ数枚と、汚れた産着が3着。それだけ。

「ヤバい。替えが無い。」


 赤ん坊の泣き声は、どんどん激しさを増していく。

 寝台の真ん中に赤ん坊を置いて、寝具置き場の戸棚の扉を引き開けた。


 保管してあったシーツを出して、オムツ用に引き裂いた。それで数枚の替えを作って、赤ん坊の元に走った。


 とにかく、早くおむつを替えないと……! 大急ぎでオムツを開いた。


 その瞬間。

 ぶじゅぶじゅ・・・


 嫌な音を立てて、柔らかくて黄色い便が飛び散った。

 私の寝台の寝具の上に、飛沫が散る……。

 私の顔にも……。


「ぬおおおおお……。」

 手までも、黄色い便が乗っている。ひいいい~~~。


 手に付いた便を、はめていたオムツに塗り付け、そのままオムツを一旦閉じた。


 再び泣き始めた赤ん坊をそのままにして、まずは手を洗い、顔を洗い、深呼吸。


 服に付いた便は、今は見ない。

(匂いが乳臭い便なので気にはならない。)


 替え用のおむつをセットして、尻を拭く柔らかい布を湿らせて。また深呼吸。


「よし!いざ!」


 気合を入れて、オムツを開いた。

 ら。


 じょじょじょ~


 小さいぴょこんと飛び出た所から、勢いよく水気の物が噴射されて来た。

 私の顔面にちょいかかったものの、左手で、防御。

 水気の勢いが止まったので、右手に持っていた拭き布で手早く処置。

 清潔なおむつと交換して……封印。


 一旦、赤ん坊は泣き止んだ。

『これを、毎回、これからずっと毎日……自分にやれるか?』


 しばし赤ん坊を見つめながら、自問自答。

 そしてフリーズ。


『他に誰がやるの? 自分しかいないじゃないか。』

そう思い直して、ため息をついた。


 多分、人生で最大級の溜息。


 思わず、息子の古着を保管してある棚を見た。

 息子の姿を思い返した。

 助けに来る訳でもないのに。


 赤ん坊を見て、 息子が小さかった頃を思い出した。

『こんなの、毎日やってたよな。大丈夫だよ。きっと。』


 息子が残していった服は、おむつ用にして、裁断。

 他にも必要そうな物を、手早くかき集めた。


 赤ん坊を抱く為の抱き袋を、息子のズボンを利用してとりあえず作った。

「チイ坊。ばあばとお出かけしようか。」

 そう声を掛けて、袋に赤ん坊を入れ込んで、顔だけ出す。


 赤ん坊の方は、下から出すもん出したからか、今はご機嫌の様子だ。

「よし。次は、乳だ。」


 手近にあった、保存食を幾つか綺麗めの袋に入れて、赤ん坊を連れて家を出た。



 少し下った先の近所に、山羊を数頭飼っている家があった。

 そこに乳が出る山羊がいないか、聞いてみようと思ったのだ。


 山羊の持ち主の爺さんは、

「やあ。蓮さん。どこで赤ん坊拾ってきたの?」

 開口一番にそう言って、目を細めた。


「息子の子らしいんだ。連れて来てくれた人が居てね。」

「へええ~。そりゃまた……。で?」

「育てようと思って。乳の出る山羊を、貸してもらえないかな?」

「えっ! 自分で育てるつもりかい?教会に預けちまいなよ。面倒見てくれるよ。」

「そこは……。まあ、身内のことだし、私もまだ動けるから。やれるだけ、やってみようかと……。」


「ほんとに、蓮さんの息子さんの子かい?」

「ああ、そこは、間違いないと思うんだ。似てるから。」

「へええ~。」

 そう言いながら、赤ん坊の顔を覗き込んだ。


「はは。確かに、似てる気がするね。この赤毛ときかん気そうな目とか。」

この爺さんも、息子が小さい頃に可愛がってくれた人だ。


「そうか、そうか。あの子の子か~。」

そう言いながら、しみじみと赤ん坊を眺めて、ほっぺをつついた。


「いいよ。貸してあげよう。困った時はお互い様だ。良い乳を出すのがいるから、今連れてくるよ。ただ、その母山羊の子も、一緒じゃないと、貸せないが、いいかい?」

「え、いいのかい?子まで。」

「特別子を可愛がる母親でさ。親子を離したらきっと乳が止まる。」

「へええ~。山羊にもそんな事があるんだ。」

「生き物は正直だからね。」


 私は、せめてものお礼にと、持って来た保存食を手渡そうとしたが、爺さんは受け取らなかった。

「困ってる蓮さんから、食い物受け取ったなんて、カミさんに知れたら、ドヤされるよ~。」


 帰りは、子山羊を引っ張りながら、坂道を登った。


 子が心配な親が素直に着いて来ていた。

 その母山羊を見ながら、あの金髪巻き毛の母親の事を思った。

『自分の子とこんなにきっぱり別れられるもんか?』

と、首を傾げた。


 数日したら、迎えに来るんじゃないかと思いながら、山羊を引っ張って、帰りの道を急いだ。


 ところが、あの金髪巻き毛の母親は、戻って来なかった。

 次の日も、その次の日もそのまた次の日も。




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