閉園後会議
第32話 閉園後会議
閉園後。
シャイニードリームランドの事務棟、その奥にある会議室には、妙に重い空気が流れていた。
長いテーブル。
並べられた椅子。
落とされた照明。
壁にかかった、少し古いシバチーのポスター。
窓の外には、営業を終えたパークが見える。
時計塔だけが、静かに光っていた。
高瀬ハヤトは、その会議室の端に座っていた。
制服ではない。
スタッフ用のジャージでもない。
バイト終わりの、なんとも言えない中途半端な格好だった。
帰れると思っていた。
完全に帰れると思っていた。
だが、ミクに呼ばれた。
閉園後、会議室に来るように。
理由は言われなかった。
その時点で、嫌な予感しかしなかった。
「……なんすか、この空気」
ハヤトが小さく言う。
隣に座っていたカイトが、同じくらい小さな声で返した。
「分かんない。俺、なんかやらかした?」
「俺も分かんないっす」
「いや、俺らまとめて呼ばれてる時点で、誰か一人のやらかしじゃないよね」
「それ、余計怖いっす」
カイトは火曜シバチー担当だ。
軽い口調で、音マネがやたら上手い。
普段は明るいが、閉園後の会議室では少しだけ声が落ちている。
向かいには、水谷トオルが座っていた。
水曜シバチー担当。
年上で、落ち着いていて、少し疲れている。
トオルは腕時計を見た。
「長くなるなら、先に連絡しておいた方がいいですね」
「誰にっすか」
「妻に。明日の弁当の下ごしらえがあります」
「生活感がすごいっす」
「生活はありますから」
その横に、七瀬トウカが座っている。
金曜シバチー担当。
伏し目がちで、ほとんど喋らない。
ただ、座っているだけで空気が静かになる。
トウカは手元の紙コップを見つめていた。
紙コップなのに、舞台の小道具みたいに見える。
ハヤトは内心で思った。
同じシバチーの中の人なのに、なぜこうも空気が違うのか。
そして、テーブルの反対側。
椅子に深く座って、腕を組んでいる女性がいた。
早瀬マイ。
月曜シバチー担当。
鋭い目つき。
荒い空気。
会議室なのに、今にも誰かを締め上げそうな気配。
マイは足を組み、苛立ったように指で腕を叩いていた。
「で、なんなんすか。こんな時間に全員呼び出して」
誰にともなく言った声は、低い。
カイトが小さくハヤトへ寄る。
「月曜の人、怖くない?」
「怖いっす」
「でもシバチー入ると、帽子斜めで踊るんだよね」
「ギャップで脳が混乱するっす」
その時、会議室の壁際から声がした。
「黒柴さんは今日も気が短いんやね」
ハヤトはそちらを見た。
黒いスタッフジャージ。
小柄な体。
黒髪ショートに、赤いメッシュ。
金世界が、壁に軽くもたれながら立っていた。
オハナ担当。
キックボクサー。
明るい顔をしているが、言葉はさらっと刺す。
この時点のハヤトにとっては、普通の同僚だった。
世界はハヤトの視線に気づくと、軽く手を振った。
「お疲れさま。土曜の子も呼ばれたんや」
「あ、はい。お疲れさまっす」
「大変やね。閉園後まで」
「はい……何の会議か分かんないんすけど」
「うちも知らん」
そう言ってから、世界はマイを見る。
「でも黒柴さんが怒っとるから、たぶん面倒なやつやろね」
マイの眉が動いた。
「誰が黒柴さんだ」
「え? 月曜の黒柴さん」
「表出ろ」
「出てもええけど、ミクさん来る前に蹴ったら怒られるやろ?」
「先に殴れば問題ねぇ」
「問題だらけやし」
カイトが小さく呟いた。
「始まる前から終わってる」
トオルが腕時計を見ながら言う。
「この会議、残業扱いになりますかね」
「そこなんすか」
「重要です」
会議室には、さらに二人いた。
一人は、壁際。
照明の届かない位置に立っている。
顔に影が落ちていて、表情が見えない。
腕を組み、微動だにしない。
最初からそこにいたのか、途中から現れたのかも分からない。
ハヤトは小声でカイトに聞いた。
「あの人、誰っすか」
「分かんない」
「え、分かんないんすか」
「さっきからいるけど、俺も聞くタイミング逃した」
影の人物が、静かに言った。
「……名は、まだ明かす時ではない」
カイトの肩が跳ねた。
「喋った」
影の人物は、少しだけ顔を上げる。
それでも、顔は見えない。
「ウルピーは、簡単に正体を見せない」
マイが即座に言った。
「会議では見せろ。出てこい」
影の人物は動かなかった。
世界が楽しそうに笑う。
「あの人、ウルピー担当やよ」
「ウルピー担当って、そんな登場するんすか」
ハヤトが言うと、カイトが首を振った。
「たぶん本人の趣味」
影の人物が、低く言った。
「演出だ」
カイトが即座に返す。
「会議に演出いります?」
「いる」
「いらないです」
もう一人は、部屋の隅にいた。
椅子には座っていない。
なぜか部屋の角に立っている。
背筋は伸びている。
だが、存在感は妙に薄い。
薄いのに、気づくとずっと視界にいる。
ハヤトはそちらも指差した。
「あの人は?」
隅の人物が、静かに言った。
「王は、むやみに姿を見せない」
カイトが顔をしかめた。
「見えてますよ」
「見せてはいない。感じ取られただけだ」
「会議でその設定いります?」
トオルが小さく言う。
「ライル担当の方ですね」
「知ってたんすか」
「名簿にいました」
「名簿って強いっすね」
ライル担当は、部屋の隅で静かに頷いた。
「王の名は、記録に残るものだ」
カイトが小さく言う。
「この会議、変な人しかいない」
ハヤトは内心で思った。
自分もその一員として呼ばれていることが、少し怖かった。
その時。
会議室のドアが開いた。
空気が変わった。
ミクが入ってくる。
後ろには社長もいた。
ミクは資料を持っている。
社長は、なぜかいつもより重々しい顔をしていた。
しかも、歩き方までゆっくりだった。
ミクが奥に立つ。
社長はその横に立った。
長いテーブルの端から端まで、全員の視線が集まる。
照明が少し暗いせいで、妙に本格的な会議に見えた。
社長はゆっくり口を開いた。
「諸君」
重い声だった。
カイトが姿勢を正す。
ハヤトもつられて背筋を伸ばした。
マイは腕を組んだまま。
世界は壁にもたれたまま。
ウルピー担当は影の中。
ライル担当は部屋の隅。
トウカは静かに目を伏せている。
社長は続けた。
「今宵、君たちに集まってもらったのは、我がシャイニードリームランドの未来に関わる重大な議題があるからだ」
ハヤトの喉が鳴った。
重大な議題。
パークの未来。
曜日担当全員。
オハナ、ウルピー、ライル担当までいる。
何が始まるのか。
ミクが資料を一枚めくった。
「社長」
「何かね」
「長いです」
「まだ一文目だよ!?」
「議題に入ってください」
「威厳が」
「いりません」
「いるよ!?」
会議室の空気が一気に軽くなった。
カイトが小声で言う。
「よかった。いつものやつだ」
ミクは全員を見渡した。
「本題に入ります」
社長が少し不満そうに引いた。
ミクは資料をテーブルに置く。
「本日、社長承認により、シバチーの外部動画出演が条件付きで許可されました」
会議室が静まった。
ハヤトは嫌な予感がした。
「外部動画……っすか?」
ミクが頷く。
「企画名は、妖怪けんきゅうじょ」
沈黙。
それから、カイトが真っ先に言った。
「え、怖いやつですか?」
トオルが続く。
「夜間撮影はありますか」
マイが眉を寄せる。
「妖怪だぁ? ……け、蹴りゃいいんすか」
カイトが小さく言った。
「今、ちょっと詰まりませんでした?」
「詰まってねぇ」
世界がにやっと笑う。
「黒柴さん、もしかして怖いん?」
「怖くねぇよ。怪異なんざ、見えた瞬間に沈めりゃいい」
「見えたら、ね」
「……うるせぇ」
ウルピー担当が影の中で静かに言う。
「怪異は、間の取り方で見え方が変わる」
カイトがすぐ振り返った。
「急に演出論」
ライル担当が部屋の隅から言う。
「王の前では、怪異も膝をつく」
カイトは頭を抱えた。
「こっちは王様論だった」
ミクは淡々と続けた。
「企画者は柳生アオイさん」
その名前が出た瞬間。
ハヤトが固まった。
マイが少しだけ目を細める。
カイトが「あー」と言った。
「シバチー好きの子?」
ハヤトはカイトを見る。
「知ってるんすか」
「いや、有名じゃん。すごい見てる子」
「有名なんすか」
「少なくともスタッフ間では」
ハヤトは少しだけ顔を伏せた。
ミクはそこを見逃していなかったが、何も言わなかった。
「今回の企画は、シャイニードリームランドにまつわる怪異噂の調査、および園内の魅力発信を目的としています」
社長が横から重々しく頷く。
「怖かったで終わらせず、笑って帰れる動画にしたい。そういう企画だ」
その一言で、何人かの表情が少し変わった。
トウカが、わずかに顔を上げる。
トオルは目を細めた。
マイも、少しだけ腕を組み直した。
ハヤトは、アオイの言葉を想像した。
怖かったで終わらせない。
笑って帰れる。
それは、確かに柳生さんが言いそうだった。
ミクは資料を配る。
「条件は厳守。撮影場所は指定区域のみ。一般客の顔出し禁止。立ち入り禁止区域への侵入禁止。投稿前に運営確認。危険行為禁止。中の人の詮索禁止」
カイトが手を上げた。
「その、中の人の詮索禁止って、企画者側に言ってあります?」
「言ってあります」
「守れそうですか?」
ミクはハヤトを見た。
ハヤトは嫌な汗をかいた。
「……なんで俺見るんすか」
「一番関係があるからです」
「俺、関係あるんすか」
「土曜シバチーなので」
「それはそうっすけど」
マイがハヤトを見た。
「お前、あの子と知り合いなのか」
「えっと……学校が同じっす」
「は?」
カイトが身を乗り出す。
「学校同じなの? え、じゃあ正体バレてる?」
「バレてないっす!」
声が大きくなった。
会議室の視線が一斉に集まる。
ハヤトは少し縮こまった。
「たぶん……」
マイが言う。
「たぶんって何だよ」
「いや、その……説明が難しいっす」
トオルが穏やかに言った。
「若いですね」
「何がっすか」
「色々です」
「それ一番困るやつっす」
世界はハヤトを見て、普通に笑った。
「土曜の子、大変やね」
「はい……」
「うち、怪異はよう分からんけど、オハナにも話が来るなら協力はするわ」
世界はそう言ってから、マイを見る。
「黒柴さんが暴れなければ」
マイが椅子を引いた。
「表出ろ」
ミクが即座に言う。
「出ない」
「まだ何もしてねぇ」
「今からする顔でした」
「顔で止めんな」
「顔に出ています」
世界が楽しそうに肩をすくめる。
「ほら、ミクさんにもバレとる」
「お前あとで覚えてろよ」
「覚えとく。忘れたら梅干し食べて思い出すわ」
「なんで梅干しなんだよ」
「好きやで」
「知らねぇよ!」
カイトが小声で言う。
「オハナと月曜シバチーの仲良し演出、あれ本当に仲良しなんですか?」
トオルが首を横に振った。
「たぶん違います」
トウカが静かに頷いた。
その頷きだけで、妙に説得力があった。
ミクは資料を配り終える。
「今回はまず、シバチー担当全員に共有します。曜日によって稼働可能日が違うため、誰が撮影に入るかは都度調整します」
ハヤトの顔色が変わる。
「え、俺だけじゃないんすか」
「当たり前です。土曜だけでは企画が回りません」
「それは、まあ……」
カイトが手を上げる。
「俺、音響とか演出なら手伝えますけど、本物が出るなら無理です」
マイが鼻で笑う。
「ビビってんのか」
「怖いもんは怖いっすよ。普通に」
「根性ねぇな」
「根性で幽霊消えないでしょ」
マイは鼻で笑ったまま、少しだけ視線を逸らした。
世界がそれを見逃さない。
「黒柴さん、人のこと言えるん?」
「言える」
「ほんとに?」
「言える」
「目ぇ逸らしたやん」
「照明がまぶしかっただけだ」
「会議室やよ」
「会議室の照明がまぶしいんだよ」
ミクが淡々と言った。
「早瀬さん。強がらなくていいです」
「強がってねぇっす」
「顔色が悪いです」
「照明のせいっす」
「会議室です」
「会議室のせいっす」
カイトが小さく呟いた。
「めちゃくちゃ怖いんじゃん」
「聞こえてんぞ」
「すみません」
ウルピー担当が影の中から言った。
「怖がり方にも、型がある」
カイトが即座に言う。
「また演出論」
トオルが手を挙げた。
「私は夜間撮影がないなら、可能な範囲で」
「ありがとうございます」
ミクが頷く。
「ただし、体力面は考慮します」
「助かります。腰が」
ハヤトが小さく言う。
「水曜の人、現実が重いっす」
トウカは資料を見つめていた。
ミクが声をかける。
「七瀬さん」
トウカは顔を上げる。
「どう思いますか」
少しだけ沈黙。
トウカは、短く言った。
「……悪くない」
それだけだった。
だが、会議室の空気が少し静かになる。
ミクは頷いた。
「分かりました」
ハヤトは思った。
金曜の人は、言葉が少ない。
でも、少ないからこそ重い。
マイは資料を雑にめくった。
「で、結局これ、誰が最初にやるんすか」
「初回は短時間。スタッフ立ち会い。候補日は調整中です」
「怪異ってのが本当に出たら?」
「安全を優先して撤退」
「……そ、そうっすか」
マイはつまらなさそうに舌打ちした。
だが、ほんの少しだけ肩の力が抜けていた。
世界がそれを見逃さない。
「今、安心したやろ」
「してねぇ」
「した顔やった」
「顔で判断すんな」
「黒柴さん、顔に出るんやね」
「表出ろ」
「ほら、怖い時ほどすぐ表出ろって言う」
「うるせぇ!」
ミクの声が冷えた。
「二人とも」
マイと世界が同時に黙った。
ハヤトは小声でカイトに言う。
「ミクさん、強いっすね」
「この場で一番怖いの、怪異じゃなくてミクさんだよ」
社長が咳払いをした。
「諸君」
また重い声だった。
全員がそちらを見る。
社長はゆっくりとテーブルを見渡す。
「これは単なる動画企画ではない」
ミクは止めなかった。
社長の声は、さっきより少しだけ真面目だった。
「怖い場所に、笑顔で帰る道を作る。怪異だろうと噂だろうと、不安を抱えて来る客に、最後は楽しかったと言ってもらう。そのために、我々はシバチーを出す」
会議室が静かになる。
「来た時ではなく、帰る時に笑顔にする。それが、このパークだ」
ハヤトは、その言葉を聞いていた。
何度も聞いた理念。
でも、こういう場で聞くと、少しだけ違って聞こえる。
社長は続けた。
「だから、頼む。各自、夢を壊さないように」
ミクが静かに頷いた。
その場の空気が、少しだけ引き締まった。
次の瞬間。
社長が資料を見て言った。
「なお、企画が伸びた場合、関連グッズ展開も視野に」
ミクが即座に言った。
「そこは今言わなくていいです」
「大事だよ!?」
「今は夢の話をしていました」
「夢にも経費がある!」
カイトが小声で言った。
「台無しにするの早い」
ハヤトは少し笑いそうになった。
ミクは資料を閉じる。
「以上です。詳細な撮影日程は後日共有します。質問は」
部屋の隅から、ライル担当が手を上げた。
「王として、玉座の用意は」
「ありません」
即答だった。
ウルピー担当が影の中で言う。
「登場時の照明は」
「普通の照明です」
カイトが手を上げる。
「俺、本物の怪異が出た場合の逃走ルートを確認したいです」
「確認します」
トオルが手を上げる。
「残業代は」
「確認します」
マイが手を上げる。
「け、蹴っていい怪異と駄目な怪異の判別は」
「蹴らない」
「……了解っす」
世界が手を上げる。
「黒柴さんが怖がって暴れた場合、うちの正当防衛は」
「出ない」
「なんでやの」
「会議だからです」
ハヤトは手を上げるか迷った。
迷って、ゆっくり上げた。
ミクが見る。
「高瀬くん」
「あの」
「はい」
「俺、怪異苦手なんすけど」
会議室が静かになった。
カイトが「分かる」と小さく言う。
マイが「別に怖くねぇし」と小さく言う。
トオルが優しく頷く。
世界が少し笑う。
ミクは真顔で言った。
「シバチーは、苦手とは言いません」
「中身は言うっす」
「言いません」
「言わせてもらえないんすか」
「シバチーなので」
「強い」
社長が重々しく言った。
「高瀬くん」
「はい」
「怖くても、子どもが見ている前では、前に立つ。それがシバチーだ」
ハヤトは黙った。
社長の声は、今度はふざけていなかった。
ミクも何も言わない。
ハヤトは少しだけ背筋を伸ばした。
「……はい」
短い返事だった。
「やります」
ミクが頷く。
「無理はしないこと」
「はい」
「でも逃げないこと」
「難しくないっすか」
「難しいです」
「ですよね」
カイトが小さく言った。
「俺も逃げたい」
マイが言う。
「お前は音出してろ」
「扱い雑」
世界がマイを見る。
「黒柴さんは?」
「なんだよ」
「怖くなったら?」
「蹴る」
「ミクさん、駄目やって」
「じゃあ耐える」
「えらい」
「褒めんな」
トウカが、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
ハヤトには、分からなかった。
*
会議が終わると、全員が少しずつ立ち上がった。
マイと世界は、同じタイミングでドアへ向かおうとして、入口でぶつかりかけた。
「邪魔だ」
「そっちが先に来たんやろ」
「道を譲れ」
「黒柴さんが小さいから見えんかった」
「表出ろ」
「もう閉園しとるし、外暗いよ?」
「関係ねぇ」
「暗いのに大丈夫なん?」
「……関係ねぇ」
世界がにやっとする。
「今、間があった」
「ねぇよ」
「怖いんや」
「怖くねぇ!」
ミクが背後から言った。
「解散です。喧嘩はしない。あと早瀬さん、廊下は明るいので安心してください」
「だから怖くねぇっす!」
二人は同時に舌打ちした。
妙に息が合っていた。
カイトが言う。
「仲いいんじゃないですか?」
「「よくない」」
二人の声が重なった。
会議室が一瞬静かになる。
トオルが穏やかに言った。
「息は合っていますね」
マイと世界が同時にトオルを睨んだ。
トオルは少しだけ目を逸らす。
「すみません」
ハヤトは資料を持って立ち上がった。
そこには、太い字で書かれている。
妖怪けんきゅうじょ。
検証協力員、シバチー。
ハヤトは、それを見て深く息を吐いた。
柳生さんが作った企画。
シバチーが必要とされた企画。
自分は、怖い。
でも、シバチーなら前に立つ。
そう言われた。
「高瀬」
声をかけたのはマイだった。
「はい」
「あの子に振り回されんなよ」
「柳生さんっすか」
「知らねぇけど、たぶんそう」
「たぶんなんすね」
「あと、シバチーで変なことしたらミクさんに殺されるぞ」
「それは分かるっす」
マイはそれだけ言って歩いていった。
すぐ後ろで、世界がハヤトに軽く手を振る。
「土曜の子、がんばりね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「怪異出たら、ちゃんと逃げるんやよ」
「さっき逃げるなって言われたんすけど」
「なら、逃げるように前へ進めばええんやない?」
「どういうことっすか」
「知らん」
世界は笑って、マイの後を追うように歩いていった。
途中でまた二人が言い合いを始める。
ウルピー担当は、いつの間にか影の中から消えていた。
カイトが気づいて叫ぶ。
「え、いない!?」
ライル担当も部屋の隅から消えていた。
トオルが冷静に言った。
「帰られましたね」
「怖い怖い怖い」
ミクが資料をまとめながら言う。
「次回から普通に帰るよう伝えます」
「今回も普通に帰ってほしかったっす」
ハヤトはもう一度、資料を見る。
検証協力員シバチー。
その文字は、妙に重かった。
怪異よりも。
会議よりも。
柳生さんの期待よりも。
たぶん、自分がまだ知らない何かが、そこには乗っている。
社長が最後に言った。
「高瀬くん」
「はい」
「怖い時ほど、手を振りたまえ」
「手を?」
「シバチーは、手を振るだけで少し場を変えられる」
ハヤトは、少しだけ黙った。
それから頷いた。
「……はい」
社長は満足そうに頷く。
ミクが横から言った。
「ただし、危険ならスタッフの指示に従って撤退」
「もちろんだよ」
「今、かっこよく締めようとしましたね」
「少しくらいいいじゃないか」
「駄目です」
「厳しい」
ハヤトは少しだけ笑った。
閉園後の会議室。
妙に重い空気で始まった会議は、妙にくだらなく、妙に真面目に終わった。
帰り際。
ハヤトは資料を鞄にしまいながら、小さくつぶやいた。
「……妖怪けんきゅうじょ、か」
怖い。
正直、かなり怖い。
でも。
シバチーが必要なら。
少しだけ、前に出るしかない。
ハヤトは会議室の明かりが消えるのを見た。
そして、誰もいない廊下で、自分の手を小さく振ってみた。
シバチーの手ではない。
ただの手だった。
それでも、少しだけ。
何かを変えられる気がした。
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