屋上のシバチー

第11話 屋上のシバチー


 月曜日の昼休み。


 高瀬ハヤトは、屋上のフェンスにもたれていた。


 空は青い。


 雲は薄い。


 風は少しだけ強い。


 弁当の時間としては、悪くない天気だった。


 なのに、ハヤトの顔色は悪かった。


 土曜日の初バイトから、まだ二日しか経っていない。


 たった二日。


 でも、ハヤトの中では、もう一週間くらい経った気がしていた。


 いや。


 一週間どころではない。


 シバチーの中にいた時間だけ、人生が少し削れた気がする。


 頭が重い。


 身体が痛い。


 肩が痛い。


 腰も痛い。


 なぜか尻も痛い。


 着ぐるみというものは、想像以上に全身を使う。


 空手の稽古とは違う疲れだった。


 正面から来る相手を受けるのではなく、四方八方から飛んでくる子どもの声と視線と期待を全部受け止める。


 しかも、喋れない。


 声を出せない。


 逃げられない。


 笑っている顔の中で、ずっと考え続ける。


 次は右か。


 左か。


 しゃがむか。


 手を振るか。


 近づくか。


 離れるか。


 夢を壊していないか。


 怖がらせていないか。


 ちゃんと、笑顔で帰せているか。


 考えすぎて、何も分からなくなった。


 そして最後に、名前も知らないヘッドホンの子を泣かせた。


 ハヤトは、フェンスに額をつけた。


「……終わったっす」


 小さく呟く。


 その声は、昼休みの屋上の風に溶けた。


 屋上には、ハヤトのほかに二人いた。


 一人は、ノブオ。


 見上げるほど大きい。


 高校生というより、校舎の一部みたいな体格をしている。


 弁当箱も大きい。


 箸も大きい。


 そして今、巨大な手でおにぎりを持ちながら、ハヤトを見ていた。


 もう一人は、レン。


 ノブオと比べると、あまりにも静かに見える。


 屋上の隅に腰を下ろし、購買のパンを片手にスマホを見ている。


 いるのかいないのか分からないくらい、存在感が薄い。


 でも、話の大事なところだけ、ふっと入ってくる。


 そういうやつだった。


 ノブオが、おにぎりを一口で半分なくした。


「ハヤト」


「うっす」


「飯を食え」


「今、食欲ないっす」


「食わねば力が出ん」


「力でどうにかなる問題じゃないっす」


「大抵のことは、まず飯だ」


「ノブオ、それ全部飯で解決しようとするっすよね」


「飯は偉大だ」


 ノブオは真顔で言った。


 レンがスマホから少しだけ目を上げる。


「たぶん、そこは間違ってないと思う」


「レンまで」


「でも、食べたからって全部解決するわけでもないと思う」


「どっちなんすか」


「たぶん、両方」


 レンはそう言って、またスマホに視線を落とした。


 ハヤトは小さくため息をつく。


 そして、屋上の床に置いた購買のパンを見る。


 焼きそばパン。


 朝、何となく買った。


 まだ袋すら開けていない。


 ノブオが腕を組んだ。


「初バイトで失敗したのだろう」


「そうっす」


「ならば、次に活かせばいい」


「そんな簡単じゃないっす」


「簡単とは言っていない」


 ノブオは重い声で言った。


 その声は、屋上の風より低かった。


「失敗したなら、背中で返せ」


「背中で?」


「うむ」


「シバチー、背中で語るんすか」


「語れ」


「いや、シバチーは背中どころか喋れないっすけど」


「だからこそ背中だ」


 ノブオは力強くうなずいた。


 ハヤトは一瞬、何か深いことを言われた気がした。


 しかし、よく考えると分からなかった。


「ノブオ」


「なんだ」


「それ、意味分かって言ってるっすか」


「分からん」


「分からないんすね」


「だが、背中は大事だ」


「そこは揺るがないんすね」


 レンが少しだけ笑った。


 小さな笑いだった。


 ハヤトは、ようやく焼きそばパンの袋を開けた。


 一口かじる。


 味はする。


 でも、食べている感じがあまりしない。


 頭の中に、赤い風船が残っている。


 ヘッドホンの子の泣いた顔。


 泣いたのに、少しだけ笑ったように見えた顔。


 そして、風船に絡まってスタッフに引っ張られていくシバチー。


 忘れようとしても、忘れられない。


 ノブオが聞いた。


「その泣いた子というのは、知り合いなのか」


 ハヤトはパンを飲み込み損ねた。


「げほっ」


「水だ」


 ノブオがペットボトルを差し出す。


 ハヤトは受け取って、慌てて飲んだ。


「知り合いっていうか……名前は知らないっす」


「知らんのか」


「知らないっす」


「では、なぜ気にする」


 真っ直ぐな質問だった。


 ノブオは、余計な回り道をしない。


 だから、たまに刺さる。


 ハヤトはペットボトルを握ったまま、フェンスの向こうを見る。


 校庭では、サッカーをしている生徒たちがいる。


 遠くから笑い声が聞こえる。


 その音が、少しだけ遠く感じた。


「学校で、見たことあるんす」


「同じ学校の子か」


「たぶん」


「たぶん?」


「クラス違うし、話したことないんで」


「ふむ」


「黒いヘッドホンしてて、いつも少し俯いてて」


 ハヤトは言葉を探す。


 何と言えばいいのか分からない。


 かわいそう、では違う。


 暗い、でもない。


 一人、でもたぶん違う。


 ただ。


「なんか、世界から少し切れてるみたいに見えたんす」


 言ってから、ハヤトは少し恥ずかしくなった。


 自分でも変な言い方だと思った。


 ノブオは笑わなかった。


 レンもスマホから目を上げた。


「だから、パークで見つけた時、気になって」


 ハヤトは続ける。


「閉園前のベンチで、一人で座ってて。楽しそうじゃなくて。でも帰りたそうでもなくて。なんか、そのまま消えそうで」


「消えそう」


 レンが小さく繰り返した。


「たぶんっすけど」


 ハヤトは首の後ろをかいた。


「俺、シバチーだったから、喋れないじゃないっすか」


「うむ」


「だから、風船だけ渡したんす」


「よいではないか」


「でも、泣いたんす」


 ハヤトの声が少しだけ沈んだ。


「俺が風船渡したら、その子、泣いたんす」


 ノブオが黙る。


 レンも黙る。


 屋上の風が、三人の間を抜けていく。


 ハヤトは、パンの袋をくしゃりと握った。


「やっぱ、余計なことしたんすかね」


 それは、土曜日の夜からずっと頭の中にあった言葉だった。


 やっと外に出た。


 出た瞬間、思っていたより重かった。


「そっとしとけばよかったんすかね。シバチーが近づいていい相手じゃなかったのかもしれないっす。俺、何も分かってなかったっす。名前も知らないのに。事情も知らないのに」


「ハヤト」


 ノブオが低く呼んだ。


 ハヤトは顔を上げる。


 ノブオは、真っ直ぐこちらを見ていた。


「それは違う」


「でも」


「泣いたから悪い、とは限らん」


 ハヤトは黙った。


 ノブオの言葉は、少し意外だった。


 ノブオは続ける。


「俺は難しいことは分からん」


「うっす」


「だが、人は悲しい時にも泣く。嬉しい時にも泣く。悔しい時にも泣く。安心した時にも泣く」


「安心……」


「泣いた理由は、その子にしか分からん」


「でも、俺がきっかけっす」


「ならば、なおさら決めつけるな」


 ノブオの声が、少し強くなった。


「お前が泣かせたと決めつけるな。その子がどう思ったかを、お前が勝手に悪い方へ決めるな」


 ハヤトは、言い返せなかった。


 ノブオは、時々こういうことを言う。


 普段は飯と筋肉と背中の話ばかりしているのに、急に真っ直ぐなところを突いてくる。


 だから、ハヤトはノブオと一緒にいるのが好きだった。


 励まし方が、不器用で。


 でも、逃げ場がないくらい真っ直ぐだった。


 レンが、パンを少しちぎりながら言った。


「たぶん、泣けたこと自体が悪いとは限らないと思う」


 ハヤトはレンを見る。


 レンは目を合わせない。


 スマホを見ているようで、でも話は聞いている。


「泣けない時って、あるし」


 レンはぽつりと言った。


「泣ける場所だったなら、それは……たぶん、悪い場所じゃないと思う」


 ハヤトは、言葉を失った。


 レンの言い方はいつも曖昧だ。


 たぶん。


 思う。


 かもしれない。


 でも、その曖昧さが、今は少しだけ優しかった。


 決めつけない。


 断定しない。


 でも、否定もしない。


 ハヤトはペットボトルを床に置いた。


「……そうっすかね」


「たぶん」


 レンが言う。


 ノブオが頷く。


「そうだ」


「ノブオは断定するんすね」


「俺は断定する」


「レンと真逆っすね」


「だからよい」


 ノブオは胸を張った。


 ハヤトは少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 土曜日の夜からずっと重かった胸の奥が、ほんの少し軽くなった気がした。


 泣いたから悪いとは限らない。


 決めつけるな。


 その言葉が、頭の中で何度か転がる。


 もしかしたら。


 ほんの少しだけ。


 自分が思っているほど、最悪ではなかったのかもしれない。


 ハヤトは焼きそばパンをもう一口かじった。


 今度は、少し味がした。


「でも、次会ったらどうするんだ?」


 ノブオが聞いた。


 ハヤトは固まった。


「次」


「同じ学校なのだろう」


「いや、でも、名前知らないっすし」


「聞けばいい」


「無理っす」


「なぜだ」


「急に『土曜日シバチーでした』って言えないじゃないっすか」


「言わなくていい」


「じゃあ何て話しかけるんすか」


「押忍」


「それ空手の道場っす」


「では、おはよう」


「急に?」


「朝なら自然だ」


「相手が俺を知らないっす」


「同じ学校なら、知らん相手にも挨拶してよい」


「ノブオの世界、まっすぐすぎるっす」


 ハヤトは頭を抱えた。


 想像する。


 黒いヘッドホンの子に、突然「おはようっす」と声をかける自分。


 怖すぎる。


 相手も怖いだろう。


 いや、絶対怖い。


 不審者だ。


 空手部の不審者だ。


 ハヤトは首を横に振った。


「無理っす。俺には無理っす」


「では背中で語れ」


「また背中っすか」


「うむ」


 ノブオは真剣だった。


 真剣すぎて、逆に何も言えなかった。


 レンが、スマホの画面を見つめたまま、少しだけ眉を下げた。


「……ハヤト」


「なんすか」


「これ、見せない方がいいかなって思ったんだけど」


 その言い方に、ハヤトは嫌な予感がした。


「え、なんすか。その前置き」


「たぶん、知らないままの方がいいかもしれない」


「じゃあ見せないでほしいっす」


「でも、たぶん、後で知るより今の方がいいと思う」


「レンの“たぶん”が今日いちばん怖いっす」


 レンは少し迷ったあと、申し訳なさそうにスマホを差し出した。


「ごめん。これ」


 ハヤトは、何気なく画面を覗き込んだ。


 次の瞬間、全身の血が止まった気がした。


 そこには、シバチーが写っていた。


 赤い帽子。


 白いパーカー。


 黒柴の無表情。


 そして、体中に絡まった色とりどりの風船。


 スタッフ二人に支えられながら、ゆっくり移動している。


 いや、連行されている。


 完全に連行されている。


 しかも、角度が悪い。


 シバチーが自分の罪を認めて護送されているみたいに見える。


 投稿の見出しが、画面の上に大きく出ていた。


『夢の国で珍事 シバチー、風船に絡まりスタッフに連行』


 ハヤトの喉が鳴った。


 レンは、スマホを持ったまま小さく言う。


「ごめん。けっこう伸びてる」


「伸びてる?」


 ハヤトの声が裏返った。


 レンは申し訳なさそうに画面を少しスクロールする。


 いいねの数。


 コメント。


 リポスト。


 ハヤトの目には、数字が全部刃物みたいに見えた。


『かわいい』

『捕獲されてる』

『シバチー何したの』

『連行シバチー草』

『風船に負ける公式マスコット』

『これ見て子ども爆笑してた』

『むしろ好きになった』


 ハヤトは、画面を見つめたまま固まった。


「……レン」


「うん」


「これ、俺っすよね」


「……うん」


「うんじゃないっす」


「ごめん」


「謝られると余計きついっす!」


 ハヤトは頭を抱えた。


 ノブオが横から画面を覗き込む。


「悪くないではないか」


「どこがっすか!」


「皆、笑っている」


「笑われてるんす!」


「笑顔だ」


「ノブオ、その理論危険っす!」


 レンが小さく言う。


「でも、怖がられてはいないと思う」


「そういう問題じゃないっす!」


「好きになったって書いてある」


「それ、俺じゃなくてシバチーっす!」


「中はハヤトだよね」


「今それ言うの、ほんとやめてほしいっす!」


 ハヤトはその場に膝をついた。


 屋上の床が冷たい。


 いや、冷たいのかどうかも分からない。


 頭の中で、土曜日の光景が再生される。


 ヘッドホンの子。


 赤い風船。


 泣いた顔。


 少しだけ笑ったように見えた顔。


 そして、スタッフに連行される自分。


 それがネットに上がっている。


 見出し付きで。


 珍事。


 連行。


 風船に絡まり。


 ハヤトは両手を床についた。


「終わったっす……」


 ノブオがしゃがみ込む。


「ハヤト」


「なんすか」


「飯を食え」


「今その流れじゃないっす」


「だが、食わねば力が出ん」


「力でどうにかなる写真じゃないっす」


 レンがスマホをしまった。


「たぶん、しばらく言われると思う」


「追い討ちが静かっすね、レン」


「でも、悪い意味だけじゃないと思う」


「その“たぶん”に全体重預けていいっすか」


「それは、たぶん危ない」


「預けさせてほしかったっす!」


 ハヤトは床に額をつけた。


 屋上の空は青い。


 風は気持ちいい。


 ノブオはでかい。


 レンは申し訳なさそうに現実を持ってくる。


 そして、自分はシバチーとして風船に絡まり、スタッフに連行された姿をネットに晒されている。


 最悪だ。


 でも。


 画面のコメントの中に、一つだけ、ハヤトの頭に残っているものがあった。


『これ見て子ども爆笑してた』


 笑っていた。


 子どもが。


 爆笑していた。


 ハヤトは額を床につけたまま、少しだけ目を開けた。


 失敗した。


 間違いなく失敗した。


 でも。


 それでも誰かは笑ったのか。


 風船に絡まって、連行されて、情けなくて、恥ずかしくて、全部終わったと思ったあれで。


 誰かが笑ったのか。


「……ノブオ」


「なんだ」


「俺、夢壊したんすかね」


 ノブオは少しだけ黙った。


 そして、低い声で言った。


「壊していたなら、笑わん」


 ハヤトは動けなかった。


 その言葉が、屋上の風よりゆっくり胸に入ってくる。


 壊していたなら、笑わない。


 そうかもしれない。


 そうじゃないかもしれない。


 まだ分からない。


 でも、少しだけ。


 本当に少しだけ。


 ハヤトは、土曜日の自分を全部否定しなくてもいい気がした。


 それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。


 ハヤトは、ゆっくり顔を上げた。


「でも、連行はきついっす」


 レンが頷く。


「それは、たぶんきつい」


「そこは断定してほしいっす」


「きつい」


「ありがとうございます」


 ノブオが焼きそばパンをハヤトの手に押しつけた。


「食え」


 ハヤトはパンを見る。


 まだ半分残っている。


 食べる気は、少しだけ戻っていた。


 ハヤトは屋上の床に座り直し、パンをかじった。


 空は青い。


 風は少し強い。


 スマホの中のシバチーは、風船に捕獲されていた。


 ヘッドホンの子の涙の理由は、まだ分からない。


 でも、少しだけ分かったこともある。


 失敗したと思ったことが、全部駄目になるとは限らない。


 笑われたことと、笑わせたことは、たぶん少し違う。


 たぶん。


 まだ、たぶん。


 ハヤトは焼きそばパンを飲み込む。


 そして、小さく呟いた。


「次は、風船に勝つっす」


 レンが言った。


「そこなんだ」


 ノブオは力強く頷いた。


「よい目標だ」


「よくないと思う」


 レンが静かに言う。


 ハヤトは少しだけ笑った。


 泣かせたはずの子のことは、まだ胸に残っている。


 赤い風船も。


 あの泣き顔も。


 少しだけ笑ったように見えた顔も。


 全部、消えない。


 でも、屋上の風の中で、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなった。


 ハヤトは空を見上げた。


 次の土曜日が、少し怖い。


 でも、少しだけ。


 本当に少しだけ。


 もう一度シバチーに入ってもいいかもしれないと思った。

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