柳生アオイ
第12話 柳生アオイ
火曜日の昼休み。
高瀬ハヤトは、昨日と同じように屋上にいた。
空は青い。
風は少しだけ強い。
ノブオは相変わらず巨大なおにぎりを食べていて、レンは購買のパンを片手にスマホを見ている。
昨日と違うのは、ハヤトが焼きそばパンをちゃんと食べていることだった。
「食えているな」
ノブオが言った。
「うっす。昨日よりは」
「よい」
「飯食っただけで褒められるの、ちょっと複雑っす」
「飯を食えるのは強さだ」
「ノブオ、全部強さに繋げるっすよね」
「強さは日々の積み重ねだ」
ノブオは真顔で言った。
その真顔があまりにも揺るがないので、ハヤトは少しだけ笑った。
昨日より、少し息がしやすい。
もちろん、全部が解決したわけではない。
土曜日のことは、まだ頭に残っている。
赤い風船。
閉園前のベンチ。
黒いヘッドホンの子。
泣いた顔。
泣いたのに、少しだけ笑ったように見えた顔。
そして、風船に絡まりスタッフに連行されるシバチー。
昨日レンに見せられた記事の見出しは、まだ頭から離れない。
『夢の国で珍事 シバチー、風船に絡まりスタッフに連行』
あれは強い。
強すぎる。
夢の国で珍事。
風船に絡まり。
スタッフに連行。
言葉の並びだけで、もう負けている。
ハヤトは焼きそばパンをかじりながら、小さく肩を落とした。
「ハヤト」
レンが言った。
「なんすか」
「あの記事、昨日より少し伸びてた」
「追撃報告いらないっす」
「ごめん」
「謝られると本当に伸びてる感じがしてきついっす」
「うん。伸びてる」
「確定させないでほしかったっす!」
ハヤトは頭を抱えた。
ノブオは隣でうなずく。
「よいではないか」
「よくないっす」
「人を笑顔にした」
「笑われたんす」
「笑顔だ」
「ノブオ理論、強引すぎるっす」
「強引もまた強さだ」
「それは違うと思う」
レンが静かに言った。
「レン、そこはたぶんじゃないんすね」
「うん。違う」
「ありがとうございます」
ハヤトは少しだけ笑った。
ノブオもレンも、励まし方が変だ。
でも、その変さに救われることもある。
失敗したと思ったことが、全部駄目になるとは限らない。
笑われたことと、笑わせたことは、たぶん少し違う。
まだ、その違いはよく分からない。
でも、昨日よりは、ほんの少しだけ前を向けている気がした。
「それで」
ノブオが言った。
「次の土曜日もシバチーなのだろう」
ハヤトはパンを飲み込み損ねた。
「げほっ」
「水だ」
ノブオがペットボトルを差し出す。
「昨日もこの流れあったっす」
「水は偉大だ」
「何でも偉大っすね」
ハヤトは水を飲み、息を整える。
「まあ……次の土曜も入るっす」
「よい」
「怖くないの?」
レンが聞いた。
その声は静かだった。
ハヤトは少しだけ空を見上げる。
「怖いっす」
正直に言った。
「また失敗するかもしれないし。風船に負けるかもしれないし」
「目標、そこなんだ」
「まずそこっす」
「でも、風船って勝ち負けあるのかな」
「俺は一回負けたっす」
レンは少し考えた。
「じゃあ、あるのかも」
「あるんすか」
「たぶん」
「レンのたぶんに風船戦争の存在が認められたっす」
ノブオが力強く頷く。
「次は勝て」
「ノブオまで」
「背中で勝て」
「背中で風船に勝つってなんすか」
「分からん」
「分からないんすね」
「だが勝て」
「雑っす」
ハヤトはまた少し笑った。
そんなふうに笑ったあとで、ふと屋上のフェンス越しに中庭の方を見た。
昼休みの校内は、いろいろな場所に生徒がいる。
校庭でサッカーをしている生徒。
中庭で弁当を広げている生徒。
渡り廊下を歩く生徒。
その中に、見覚えのある黒いヘッドホンがあった。
ハヤトの動きが止まる。
焼きそばパンを持ったまま、固まった。
黒いヘッドホン。
青い髪。
白いパーカー。
少し俯いた横顔。
閉園前のベンチにいた子。
学校で何度か見たことがある子。
名前も知らない、黒いヘッドホンの子。
その子が、黒髪の女子と並んで中庭を歩いていた。
ハヤトは思わず小さく言う。
「あ……」
ノブオが反応した。
「あの子か」
「うっす」
「泣かせた子か」
「言い方」
「赤い風船の子か」
「それもなんか圧があるっす」
「ヘッドホンの子か」
「それでお願いします」
レンも屋上の端に近づき、下を見る。
「ああ、アオイちゃん」
ハヤトの胸が、少し鳴った。
「アオイちゃん?」
「うん」
レンは中庭を見ながら言った。
「柳生アオイ。隣がクロエ」
柳生アオイ。
その名前が、ハヤトの中に落ちた。
今まで「黒いヘッドホンの子」だった誰かに、急に輪郭がつく。
名前がつく。
柳生アオイ。
ハヤトは、口の中で小さく繰り返しそうになって、やめた。
勝手に呼んでいい気がしなかった。
「柳生さん、っていうんすね」
「うん」
「レン、知ってるんすか?」
「知ってる」
「え」
ハヤトは思わずレンを見た。
レンはいつも通り、静かな顔をしている。
「同じバンドだから」
「バンド?」
「うん」
「柳生さん、バンドやってるんすか」
「やってる、というか……いる」
「いる?」
「アオイちゃんはベースボーカル」
ハヤトはもう一度、中庭を見る。
黒いヘッドホンの子。
閉園前のベンチで泣いた子。
いつも少し俯いて、世界から切れているように見えた子。
その子が、ベースボーカル。
情報が急に増えた。
しかも、想像していた方向と違う。
「ベースボーカル……」
「うん」
「歌うんすか?」
「歌う」
「柳生さんが」
「うん」
ハヤトは言葉に詰まった。
自分の中にあった「黒いヘッドホンの子」という像が、少しずつ崩れていく。
いや、崩れるというより、奥から別のものが出てくる。
自分が知らなかっただけで、彼女には別の場所があった。
別の顔があった。
名前も知らず、勝手に遠くから見ていた自分が、ほんの一部しか見ていなかったことを思い知らされる。
「じゃあ、隣のクロエさんも?」
ハヤトが聞く。
レンの視線が、ほんの少しだけ揺れた。
「うん」
「バンドの人なんすか」
「ドラム」
「へえ」
「クロエは……」
レンはそこで一度、言葉を止めた。
ハヤトは、続きを待つ。
レンは中庭のクロエを見ていた。
黒い髪。
少し冷たそうな横顔。
アオイの隣を歩く距離。
近すぎず、離れすぎない。
何かあれば、すぐに手を伸ばせる場所。
レンは小さく息を吸って、言葉を選ぶように言った。
「クロエは、ちゃんと見てる人」
「見てる人?」
「アオイちゃんのことも、周りのことも。たぶん、自分が思ってるよりずっと」
「へえ……」
「あと、ドラムが上手い」
「そこ急に普通っすね」
「うん」
レンは少しだけ目を逸らした。
ハヤトは、その様子を少し不思議に思った。
レンはいつも言葉を濁す。
だから、今の沈黙もレンらしいといえばレンらしい。
でも、クロエの話をする時だけ、いつもより少しだけ言葉が遅かった。
「レン、クロエさんと仲いいんすか」
「普通」
「普通」
「同じバンドだから」
「それはさっき聞いたっす」
「うん」
レンはそれ以上言わなかった。
ハヤトも、それ以上は聞かなかった。
なんとなく、今は踏み込まない方がいい気がした。
ノブオが中庭を見下ろす。
「バンドか」
「ノブオ、興味あるんすか?」
「俺は歌えん」
「聞いてないっす」
「だが、太鼓なら叩ける」
「ドラムを太鼓って言うとクロエさんに怒られそうっす」
「そうか」
ノブオは真剣に頷いた。
「では、叩かん」
「そこは素直なんすね」
ハヤトはもう一度、中庭を見る。
柳生アオイ。
ベースボーカル。
クロエ。
ドラム。
レン。
ギター。
レンがアオイとクロエを知っている。
それだけで、急に自分だけが何も知らない場所にいるような気がした。
でも、それは嫌な感じだけではなかった。
名前を知った。
歌うことを知った。
クロエという隣にいる人を知った。
自分が知らなかった部分が、少しだけ見えた。
それは、怖いようで、少しだけ気になることでもあった。
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