第二幕 なんで俺なんすか?
泣かせたはずなのに
第10話 泣かせたはずなのに
初バイトの日。
高瀬ハヤトは、シバチーの中にいた。
正確には、シバチーという黒柴の着ぐるみの中で、汗だくになっていた。
頭が重い。
視界が狭い。
音がこもる。
足元が見えない。
思っていたより、ずっと暑い。
思っていたより、ずっと息が詰まる。
そして、思っていたより、ずっと怖かった。
「シバチー、右手。右手振って」
外からスタッフの声がする。
ハヤトは慌てて右手を上げた。
しかし、タイミングが少し遅れた。
目の前の子どもは、すでに左側へ走っていっている。
「違う違う、今は左」
左。
ハヤトは慌てて左手を振った。
すると今度は、右側から別の子どもが声を上げる。
「シバチー!」
右。
左。
前。
しゃがむ。
立つ。
手を振る。
近づきすぎない。
怖がらせない。
夢を壊さない。
全部、頭では分かっている。
でも、身体がついていかない。
シバチーの頭の中で、ハヤトは小さく息を吐いた。
夢を壊すな。
今日だけで、何回聞いただろう。
夢を壊すな。
子どもの前では疲れを見せるな。
転んでも焦るな。
喋るな。
顔はずっと笑っている。
シバチーは笑っている。
でも、中の人は笑っていない。
ハヤトは、シバチーの中で目を細めた。
笑い方なんて、分からない。
外側はずっと同じ顔なのに。
なのに、笑っているように見せろと言われる。
優しくしろと言われる。
楽しくしろと言われる。
そんなことが上手くできるなら、苦労しないっす。
そう思った瞬間、足元に何かが絡んだ。
「おっと」
声を出しかけて、慌てて飲み込む。
喋るな。
シバチーは喋らない。
ハヤトはバランスを崩しかけた身体を、なんとか踏ん張った。
子どもたちが笑う。
たぶん、喜んでいる。
たぶん。
たぶんでしか分からない。
着ぐるみの中では、相手の表情も、細かい声も、うまく届かない。
それなのに、こちらの動き一つで、相手の反応が変わる。
怖い。
面白いより先に、怖い。
「シバチー、次、広場の方へ移動しまーす」
スタッフの声がした。
ハヤトは小さくうなずこうとして、シバチーの頭ごと大きく揺れてしまった。
近くの子どもが笑った。
それでいいのか、よくないのか。
ハヤトにはまだ分からなかった。
*
午前中だけで、ハヤトは何度も失敗した。
手を振るタイミングを間違えた。
しゃがむのが遅れた。
子どもに近づきすぎて、少し怖がらせた。
逆に、泣いている子から距離を取りすぎて、スタッフに目で呼ばれた。
写真撮影でポーズを取ろうとして、横にいた父親の足を踏んだ。
父親は笑って許してくれたが、ハヤトはシバチーの中で魂が抜けた。
昼前には、もう全身が重かった。
シバチーの控室に戻ると、スタッフが頭を外してくれた。
外気が入ってくる。
ハヤトは思わず大きく息を吸った。
「はあっ……」
空気がうまい。
ただの空気なのに、うまい。
「初日だからね。焦らなくていいよ」
スタッフの一人が笑って言った。
優しい声だった。
でも、その優しさが逆に痛い。
「すんません」
「謝らなくていいって」
「いや、でも、俺、全然できてないっす」
「最初からできる子なんていないよ」
「でも、夢壊したらまずいっすよね」
言ってから、ハヤトは少しだけ下を向いた。
夢。
夢の国。
笑顔で帰れる場所。
面接の時、その言葉に惹かれた。
誰かを笑顔にできる仕事がしたいと思った。
スーツアクターになりたいと思った。
でも、実際にシバチーに入ってみると、夢は思ったより重かった。
頭も重い。
身体も重い。
責任も重い。
たった一つの動きで、子どもが笑う。
たった一つの動きで、子どもが怖がる。
それが怖かった。
「高瀬くん」
スタッフが言った。
「はい」
「シバチーは、完璧じゃなくていいよ」
「え?」
「ドジで、少し不器用で、でも優しい。そういう子だから」
ハヤトは、外されたシバチーの頭を見た。
黒柴の無表情。
赤い帽子。
白いパーカー。
ずっと同じ顔。
ドジで。
不器用で。
でも優しい。
そんなものを、この顔で伝える。
難しすぎる。
「……俺にできますかね」
「練習すればね」
「今日中にっすか」
「今日中は無理かな」
「無理なんすね」
スタッフは笑った。
ハヤトも少し笑った。
少しだけ。
でも、午後からも失敗した。
*
閉園が近づく頃には、足がふらついていた。
シバチーの稼働時間は限られている。
休憩も挟んでいる。
それでも、慣れていないハヤトには十分すぎるほどきつかった。
夕方の広場は、昼間より少し静かだった。
帰る家族。
風船を持つ子ども。
ベビーカーを押す親。
スタッフの案内。
少しずつ、夢が片づいていく時間。
閉園前のシャイニードリームランドは、朝とは違う顔をしていた。
ハヤトは、シバチーの中から広場を見ていた。
視界の端に、ベンチが映る。
そこに、一人の女子が座っていた。
黒いヘッドホン。
少し俯いた横顔。
青い髪。
白いパーカー。
ハヤトは、動きを止めた。
あの子だ。
名前は知らない。
クラスも違う。
話したこともない。
でも、学校で何度か見たことがある。
教室の隅。
廊下の端。
校門の近く。
いつも黒いヘッドホンをして、少し俯いている子。
誰かと大きな声で話しているところを、ほとんど見たことがない。
世界から、少し切れているみたいに見えた。
だから、なんとなく気になっていた。
ただ、それだけだった。
名前を聞くほど近くない。
声をかけるほど知っているわけでもない。
同じ学校の、知らない子。
でも、見覚えのある子。
その子が今、シャイニードリームランドのベンチに一人で座っている。
顔を上げていない。
風船も持っていない。
楽しそうにも見えない。
帰りたそうにも見えない。
ただ、そこにいる。
ハヤトは、どうしたらいいのか分からなかった。
近づくべきか。
近づかない方がいいのか。
子どもならまだ分かる。
手を振る。
しゃがむ。
シバチーらしく少し大げさに動く。
でも、同じ学校の、名前も知らない女子。
しかも、明らかに何かを抱えていそうな子。
どうすればいい。
喋れない。
「大丈夫っすか」とも聞けない。
「同じ学校っすよね」とも言えない。
そもそも、シバチーの中で喋ったら終わりだ。
夢を壊すな。
喋るな。
シバチーはシバチー。
じゃあ、シバチーとして何ができる。
ハヤトは、自分の手を見た。
シバチーの丸い手。
指のない手。
何かを掴むにも不器用な手。
その手の先に、赤い風船があった。
スタッフが持っていた配布用の風船。
ハヤトは、少しだけそちらを見た。
スタッフが気づく。
「シバチー、配る?」
ハヤトは大きくうなずいた。
大きすぎて、頭がぐらりと揺れた。
スタッフが赤い風船を一つ渡してくれる。
ハヤトはそれを受け取った。
風船の紐が、シバチーの丸い手に少し絡む。
不器用にほどく。
それだけで時間がかかる。
やめた方がいいかもしれない。
近づいたら、余計に怖がらせるかもしれない。
同じ学校の男子だとは、もちろん分からない。
でも、シバチーが近づくこと自体が、迷惑かもしれない。
ハヤトは、一歩進もうとして止まった。
その子を見る。
嫌がっていないか。
気づいているか。
見ているか。
彼女は俯いたままだった。
ハヤトは、もう一歩だけ近づいた。
それでも、すぐには距離を詰めなかった。
近づきすぎるな。
怖がらせるな。
夢を壊すな。
でも、放っておくな。
そんなことは誰にも言われていない。
でも、そう思った。
ハヤトは、ベンチの少し前で止まった。
赤い風船が、夕方の光の中で揺れている。
彼女が、ゆっくり顔を上げた。
目が合った。
ヘッドホンの奥の目。
暗くて、疲れていて、でも驚いている目。
ハヤトは、何も言えない。
シバチーだから。
中の人だから。
夢を壊せないから。
だから、風船を差し出した。
ただ、それだけだった。
*
彼女は、すぐには受け取らなかった。
ハヤトも、すぐには手を離さなかった。
急かしたくなかった。
どうしていいか分からなかっただけかもしれない。
でも、手を引っ込めることもできなかった。
赤い風船が、二人の間で揺れている。
長い時間に感じた。
本当は、数秒だったのかもしれない。
やがて、彼女がそっと手を伸ばした。
指先が、風船の紐に触れる。
細い指だった。
少し震えていた。
ハヤトは、その震えを見て、動けなくなった。
手を離していいのか。
離さない方がいいのか。
分からない。
でも、彼女は風船の紐を握った。
だから、ハヤトはゆっくり手を離した。
赤い風船が、彼女の手に渡る。
その瞬間。
彼女の顔が、くしゃりと歪んだ。
ハヤトの頭の中が、真っ白になった。
泣いた。
泣いている。
え。
なんで。
何した。
俺、何した。
シバチーの中で、ハヤトは固まった。
手を上げたまま。
風船を渡した形のまま。
身体が動かない。
彼女は、赤い風船を握ったまま泣いていた。
声は聞こえない。
ヘッドホンのせいか。
着ぐるみのせいか。
分からない。
でも、泣いているのは分かった。
どうする。
どうすればいい。
手を振る?
違う。
踊る?
違う。
近づく?
怖がらせる。
離れる?
見捨てるみたいになる。
喋る?
駄目だ。
シバチーは喋らない。
ハヤトは、何もできなかった。
ただ、そこにいた。
彼女の隣に。
少し離れて。
風船を渡したまま、固まっていた。
すると、彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
泣いているのに。
少しだけ、笑ったように見えた。
ハヤトはますます分からなくなった。
泣いている。
でも、笑った。
嫌だったのか。
嬉しかったのか。
怖かったのか。
悲しかったのか。
何も分からない。
ただ一つだけ分かったのは。
自分が、何かをしてしまったということだった。
「シバチー?」
後ろからスタッフの声がした。
ハヤトはびくっとした。
振り返ろうとして、手元の風船の束に足を引っかけた。
いや、足ではない。
紐だ。
いつの間にか、配布用の風船の紐が、シバチーの腕と足に絡まっている。
ハヤトは慌ててほどこうとした。
しかし、シバチーの丸い手では細い紐がつかめない。
動けば動くほど絡まる。
赤。
青。
黄色。
色とりどりの風船が、シバチーの周りでふわふわ揺れる。
「シバチー、待って。絡まってる」
スタッフの声が近づく。
子どもが笑う。
誰かが「あ、シバチー捕まってる」と言う。
捕まってない。
捕まってないっす。
心の中でそう言う。
しかし、外には出せない。
シバチーは喋らない。
ハヤトは必死に両手を動かした。
すると、さらに帽子に風船の紐が引っかかった。
視界が少し斜めになる。
終わった。
初バイト、終わった。
夢を壊すな。
夢どころか、シバチーが風船に壊されている。
「ごめんなさい、少し移動しまーす」
スタッフが笑顔で周囲に声をかける。
その声は落ち着いていた。
さすがだった。
しかし、ハヤトの中身は落ち着いていない。
スタッフ二人に支えられ、シバチーはゆっくり移動させられる。
いや、連行される。
完全に連行だった。
ハヤトは最後に、ベンチの方を見た。
黒いヘッドホンの彼女が、赤い風船を握ってこちらを見ていた。
泣いたあとみたいな顔。
でも、ほんの少しだけ笑っているようにも見えた。
ハヤトには、やっぱり分からなかった。
ただ、胸の奥に何かが残った。
重くて。
熱くて。
うまく名前のつかないもの。
そして、スタッフに引っ張られながら、ハヤトは思った。
あー。
やっちまった。
*
その日の夜。
高瀬ハヤトは、布団の中で目を開けていた。
部屋は暗い。
窓の外から、遠くの車の音が聞こえる。
疲れているはずだった。
身体は重い。
足も痛い。
腕も痛い。
肩も、腰も、変なところが全部痛い。
初バイトで、シバチーに入って、ずっと動いていた。
眠れるはずだった。
むしろ倒れるように寝ると思っていた。
なのに、眠れない。
目を閉じると、赤い風船が浮かぶ。
ベンチに座っていた、黒いヘッドホンの子。
学校で何度か見たことがある、名前も知らない子。
その子が泣いた顔。
泣いたのに、少しだけ笑ったように見えた顔。
そして、風船に絡まってスタッフに引っ張られていくシバチー。
ハヤトは布団を頭までかぶった。
「……終わったっす」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声で。
シバチーの中では喋れなかった言葉が、夜の部屋でようやく出た。
でも、出たところで何も変わらない。
あの子は泣いた。
自分が風船を渡したら泣いた。
もしかしたら、そっとしておいてほしかったのかもしれない。
もしかしたら、シバチーなんかに近づかれたくなかったのかもしれない。
もしかしたら。
もしかしたら。
考えれば考えるほど、頭の中がうるさくなる。
サイレンみたいだった。
ずっと鳴っている。
失敗。
失敗。
失敗。
夢を壊すなと言われていたのに。
笑顔で帰ってもらう場所なのに。
泣かせた。
ハヤトは寝返りを打った。
スマホを見ようとして、やめる。
時間を見たら、余計に眠れなくなる気がした。
でも、結局見た。
夜中だった。
「明日、学校っすよね……」
自分に言う。
もちろん、明日は学校ではない。
今日は土曜日だった。
明日は日曜日だ。
混乱している。
ハヤトはスマホを伏せた。
天井を見る。
暗い天井。
そこに、シバチーの赤い帽子が浮かんで見える。
風船に絡まった赤い帽子。
あの子の手の中の赤い風船。
赤ばっかりだった。
ハヤトは目を閉じる。
でも、やっぱり眠れない。
泣かせたはずなのに。
どうして、最後に少し笑ったように見えたんだろう。
嫌だったのか。
嫌じゃなかったのか。
自分が何をしたのか。
何をしてしまったのか。
何も分からない。
分からないまま、夜だけが進んでいく。
ハヤトは布団の中で、小さく息を吐いた。
「……次、会ったら」
言いかけて、止まる。
次なんてあるのか。
名前も知らない。
話したこともない。
学校で見かけたことがあるだけの子。
しかも、今日シバチーとして泣かせた子。
次に会ったとして、自分は何ができる。
何もできない。
シバチーの中なら、まだ言い訳ができた。
喋れないから。
シバチーだから。
風船を渡すしかなかったから。
でも、高瀬ハヤトとして会ったら。
何を言えばいい。
そもそも、あの子は自分のことなんて知らない。
シバチーの中身が自分だなんて、知るわけがない。
だから、謝ることもできない。
何に対して謝るのかも分からない。
ハヤトは、もう一度布団をかぶった。
暑い。
でも、出たくない。
着ぐるみの中みたいだった。
息が詰まる。
でも、外に出るのも怖い。
目を閉じても、あの子の泣いた顔が消えない。
泣いたのに、少しだけ笑った顔が。
分からない。
分からないまま、忘れられない。
ハヤトは、朝まで何度も寝返りを打った。
眠ったのか、眠っていないのかも分からないまま。
赤い風船だけが、ずっと頭の中で揺れていた。
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