また土曜日に
第9話 また土曜日に
金曜日の放課後。
柳生アオイは、教室の窓際でノートを開いていた。
『高瀬ハヤト研究記録』
その下には、数日分の記録が増えている。
『火曜日』
『おはようと言うと、少しだけ固まる』
『でも教科書は落とさなかった』
『成長』
『水曜日』
『廊下ですれ違った時、道を譲ってくれた』
『譲り方が少し慌てていた』
『やっぱり優しい』
『木曜日』
『犬のシールの話をしようとしたら、すごく慌てた』
『でも犬は好きらしい』
『黒柴かどうかは不明』
アオイはペン先を止めた。
高瀬ハヤト。
少し困りやすい人。
よく物を落とす人。
人のものは拾えるのに、自分のものはよく落とす人。
話しかけると固まるけれど、嫌そうではない人。
そして。
土曜日のシバチーに、少しだけ似ている人。
アオイは、ノートの端に小さく書く。
『明日は土曜日』
それだけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。
前の土曜日は、会いに行く日だった。
あの日のシバチーがいるか、確かめに行く日だった。
でも、明日は少し違う。
もう一度、会いに行く日。
泣いた自分ではなく。
少しだけ笑えるようになった自分で。
もう一度、あの場所へ行く日。
「アオイ」
名前を呼ばれて顔を上げると、クロエが立っていた。
その後ろから、レイカも顔を出す。
「なになに? また高瀬くん?」
「うん」
「隠さなくなったね」
「校内限定だから」
「堂々としてる」
レイカは机に肘をつき、ノートを覗き込んだ。
「お、増えてる。高瀬くん成長してんじゃん」
「うん。火曜日は教科書を落とさなかった」
「それ成長でいいの?」
「いいと思う」
「基準が赤ちゃんなんよ」
クロエがノートを見る。
そして、少しだけ眉を上げた。
「明日は土曜日、か」
アオイは小さくうなずく。
「うん」
「行くんだ」
「行きたい」
クロエはそれ以上、すぐには何も言わなかった。
代わりに、レイカが明るく言う。
「じゃあ明日もシャイニー? あたしオハナの新作見たい」
「レイカ、最近ずっとオハナだね」
「先週から本気だからね」
「先週から」
「推し活は日数じゃない。熱量」
レイカは胸を張った。
バッグには、先週から付いているオハナのキーホルダーが揺れている。
クロエは小さくため息をついた。
「私はウルピーを見る」
「クロエも行く気満々じゃん」
「見守り」
「そのスマホケースのウルピーシール増えてるけど?」
「見守り」
「言い張るなぁ」
アオイは二人を見て、少しだけ笑った。
その笑いが、自分でも自然だった。
前より、少しだけ。
笑うことに、力がいらなくなっている。
「明日ね」
アオイはノートを閉じながら言った。
「シバチーに、ちゃんと言いたいことがあるの」
クロエの目が少しだけ細くなる。
「高瀬くんには?」
アオイは首を横に振った。
「言わないよ」
「何を?」
レイカがすぐに反応した。
「今の何? またあたしだけ知らないやつ?」
「違う」
クロエが即答する。
「絶対違わないじゃん」
「違う」
「アオイもまた目そらした!」
「そらしてないよ」
「そらした! シバチー? 高瀬くん? 土曜日? 何? この三つ何で毎回セットっぽくなるの?」
レイカがきょろきょろとアオイとクロエを交互に見る。
クロエはレイカの肩に手を置いた。
「今は知らなくていい」
「それ二回目! 一番気になる言い方!」
アオイは困ったように笑った。
「ごめんね、レイカ」
「だから謝るってことは何かあるじゃん!」
「でも、まだ言わない」
「アオイまで!」
レイカは大げさに天井を見上げた。
「知らない会議、反対!」
「会議じゃないよ」
「じゃあ何?」
アオイは少しだけ考えた。
それから、柔らかく言う。
「大事にしたい話」
レイカは口を閉じた。
クロエも少しだけアオイを見た。
アオイはノートを胸に抱える。
「まだ、ちゃんと分かってないから。決めつけたくないの」
レイカは頬をふくらませたまま、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ目を逸らす。
「……じゃあ、分かったら教えて」
「うん」
「絶対だよ」
「うん。ちゃんと」
レイカは、まだ少し不満そうだった。
でも、それ以上は聞かなかった。
クロエが静かに言う。
「アオイ」
「うん」
「明日、無理はしないで」
「うん」
「泣きそうになったら、言って」
「うん」
「言わなくても、分かるけど」
アオイは少しだけ笑った。
「クロエは、すぐ分かるね」
「長いから」
その言葉は短かった。
でも、アオイには十分だった。
クロエはずっと見ていてくれた。
泣けなかった時も。
笑えなかった時も。
どこにも行きたくなかった時も。
だから、今の自分が少し外へ向かっていることを、誰よりも不安に思っている。
それも、分かっていた。
「大丈夫」
アオイは言った。
「今度は、ちゃんと笑って帰りたいから」
クロエは少しだけ目を伏せる。
それから、小さく頷いた。
「なら、いい」
*
翌日。
土曜日のシャイニードリームランドは、前より少しだけ遠く見えなかった。
ゲートの前には、たくさんの人がいた。
子どもの声。
スタッフの案内。
風船の束。
ポップコーンの甘い匂い。
アオイの耳は、今日も黒いヘッドホンに覆われている。
それでも、音は届いていた。
全部ではない。
でも、届いている。
アオイは年パスを見せて、ゲートをくぐる。
「いってらっしゃいませ」
スタッフの声がした。
アオイは、小さく口の中で返した。
「行ってきます」
前より、少しだけ自然に言えた。
クロエとレイカが後ろから続く。
「まず広場?」
レイカが聞く。
「うん」
「オハナは?」
「あとで行こう」
「やった」
クロエが言う。
「ウルピーも」
「クロエも普通に希望出してるじゃん」
「見守りの範囲」
「便利な言葉だなぁ」
アオイは二人の会話を聞きながら、中央広場へ向かった。
時計塔が見える。
花壇が見える。
ベンチが見える。
一週間前に、自分が泣いた場所。
前の土曜日に、もう一度風船をもらった場所。
そして、今日。
もう一度来た場所。
アオイは足を止めた。
いた。
赤い帽子。
白いパーカー。
黒柴の無表情。
土曜日のシバチーが、広場の真ん中で子どもたちに囲まれていた。
相変わらず、少し困っていた。
右から呼ばれ、左から手を振られ、後ろから小さな子が近づいてくる。
シバチーは慌てて振り返る。
それから、近づいてきた子どもの高さに合わせて、ゆっくりしゃがんだ。
子どもが何かを差し出す。
小さな折り紙だった。
シバチーは両手で受け取る。
そして、胸の前で大事そうに持った。
子どもが笑う。
シバチーも、表情は変わらないのに、嬉しそうに見えた。
アオイの胸が、少しだけあたたかくなる。
「いたね」
クロエが言った。
「うん」
「行く?」
「うん」
アオイは一歩進んだ。
でも、すぐに止まった。
近づく前に、一度止まる。
相手を見る。
嫌がっていないか、ちゃんと確かめる。
あの日、シバチーがしてくれたみたいに。
アオイは、シバチーの方を見た。
シバチーが、こちらに気づいた。
赤い帽子が、少しだけこちらを向く。
シバチーは動きを止めた。
ほんの少しだけ。
固まった。
レイカが小声で言う。
「固まった」
クロエが低い声で言う。
「静かに」
シバチーは、周りの子どもたちに小さく手を振ってから、スタッフの方をちらりと見る。
スタッフが頷いた。
シバチーはアオイの方へ、ゆっくり歩いてくる。
一歩。
少し止まる。
また一歩。
昨日でも、一昨日でもない。
学校の廊下でも、昇降口でもない。
でも、その間は、やっぱり少し似ていた。
アオイは手を握る。
今日は風船をもらいに来たわけではない。
確認しに来たわけでもない。
言いに来た。
ずっと、言えなかったことを。
シバチーが目の前で止まる。
今日は、風船を持っていなかった。
両手を前で小さく揃えて、少しだけ首を傾げる。
なに?
そう聞いているみたいだった。
アオイは、息を吸う。
「こんにちは」
シバチーは両手を上げて、小さく振った。
こんにちは。
声はない。
でも、そう見えた。
アオイは少し笑う。
「今日も、来たよ」
シバチーは、こくこくとうなずく。
少し大げさで、少しぎこちない。
レイカが後ろで小さく笑いそうになって、クロエに袖を引かれている。
アオイは、そのままシバチーを見つめた。
「言いたいことがあって」
シバチーの動きが、止まった。
アオイは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「あの日、私、泣いたよね」
シバチーは動かない。
表情は変わらない。
でも、アオイには、少しだけ困っているように見えた。
「ここで、いっぱい泣いた」
時計塔の音が、遠くで鳴った。
アオイは続ける。
「でもね」
声が少し震えた。
けれど、逃げなかった。
「嫌だったからじゃないよ」
シバチーの両手が、少しだけ下がった。
アオイは、胸の前で自分の指をそっと握る。
「悲しかったのは、本当」
タムのこと。
言えなかった約束。
帰ってきてから遊ぶね、と言ったまま、帰っても間に合わなかったこと。
その全部が、あの日、胸の中でほどけてしまった。
「でも、シバチーが嫌だったから泣いたんじゃない」
アオイは少しだけ笑った。
「隣にいてくれたから、泣けたの」
シバチーは、動かなかった。
広場の音が、少しだけ遠くなる。
子どもたちの声。
風船のこすれる音。
スタッフの足音。
その全部の真ん中で、アオイは言う。
「泣いてもいいんだって、思えたから」
言葉にした瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
あの日の涙は、失敗ではなかった。
壊れたから出た涙でもなかった。
隣にいてくれるものがあったから、やっと出た涙だった。
「だから」
アオイは、シバチーを見る。
「ありがとう」
シバチーの手が、ゆっくり上がった。
胸の前で、少し迷う。
それから、自分の胸に手を当てる。
次に、アオイを指さす。
そして、両手を小さく広げた。
言葉はない。
でも、アオイには、また少しだけ分かった気がした。
来てくれて、ありがとう。
泣いてくれて、ありがとう。
そう言われた気がした。
アオイは首を横に振る。
「こっちが、ありがとうだよ」
シバチーは、少しだけ体を揺らした。
困っているのか。
照れているのか。
分からない。
でも、やっぱり優しかった。
その時、レイカが小さく鼻をすすった。
クロエがすぐに見る。
「泣いてる?」
「泣いてないし」
「鼻」
「花粉」
「六月だけど」
「夢の国花粉」
「雑」
アオイは少しだけ笑った。
その笑いにつられるように、レイカも笑った。
クロエも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
シバチーは三人を見て、両手を胸の前でぱたぱたさせた。
嬉しそうだった。
その瞬間。
子どもの声がした。
「シバチー!」
少し離れた場所で、小さな男の子が手を振っている。
シバチーが振り向く。
そして、アオイを見る。
行ってもいい?
そう聞かれているような気がした。
アオイは小さくうなずく。
「行って」
シバチーは、こくりとうなずいた。
それから、男の子の方へ走ろうとして。
足元の風船の紐に引っかかった。
ぽすん。
ほとんど音のしない転び方だった。
レイカが即座に吹き出した。
「ここで!?」
クロエも口元を押さえる。
アオイは一瞬驚いて、それから笑ってしまった。
シバチーは慌てて起き上がる。
大丈夫、と言うみたいに両手を振る。
しかし、立ち上がった勢いで、今度は赤い帽子が少し斜めになった。
近くにいた常連らしき子どもが叫ぶ。
「踊る!?」
スタッフが慌てる。
「今日は月曜じゃないよー!」
シバチーは帽子を両手で押さえ、ぶんぶん首を横に振った。
違う。
違う。
踊らない。
その全身から必死に伝わってくる。
レイカは腹を抱えて笑っていた。
「月曜シバチーじゃないのに期待されてる!」
クロエもとうとう小さく笑った。
アオイも笑った。
ちゃんと、声を出して笑った。
シバチーは赤い帽子を正位置に戻し、何事もなかったように男の子の方へ歩いていく。
でも、歩き方は少しだけ照れているみたいだった。
アオイは、その背中を見送った。
泣いた場所で、今日は笑った。
それが、少し不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
*
帰り道。
夕方の空は、少しだけ赤かった。
アオイ、クロエ、レイカの三人は、駅へ向かって歩いていた。
今日は風船を持っていない。
でも、手が寂しいとは思わなかった。
胸の中に、ちゃんと残っていたから。
今日言えたこと。
今日笑えたこと。
今日のシバチーの、必死な首振り。
レイカはまだ思い出し笑いをしている。
「いや、スタッフさんの『今日は月曜じゃないよー!』が強すぎた」
「常連の子、完全に帽子斜めダンス待ってたね」
クロエが言う。
「曜日ごとの特徴、常連にも浸透してるんだ」
「さすがシャイニー」
レイカがうなずく。
「てかアオイ、今日ちゃんと言えたじゃん」
「うん」
「泣いたのは嫌だったからじゃないってやつ」
「うん」
アオイは小さくうなずく。
「言いたかったの。ずっと」
クロエが横から静かに言う。
「言えてよかったね」
「うん」
アオイはノートを取り出した。
歩きながらでは書きにくかったので、駅前のベンチに座る。
クロエとレイカも隣に座った。
アオイはノートを開く。
『シバチー研究記録 第一巻』
最初のページ。
年パスを取った日のこと。
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
土曜日。
そして、高瀬ハヤト研究記録。
全部をゆっくりめくる。
このノートを始めた時、自分はまだ、何かを探していた。
あの日のシバチー。
赤い風船。
泣いた理由。
もう一度会いたいと思った理由。
それが何なのか、分からなかった。
でも、今は少しだけ分かる。
アオイは最後のページを開いた。
白い余白に、ペンを置く。
『第一巻の結論』
そこまで書いて、少し止まった。
レイカが横から覗き込む。
「お、最終回っぽい」
「最終回じゃないよ」
「第一巻の結論って書いてるじゃん」
「第一巻だから」
「続くんだ」
「うん」
アオイは小さくうなずく。
そして、続きを書いた。
『シバチーは、曜日で違う』
『でも、どのシバチーも、誰かを笑顔で帰そうとしている』
『だから、全部シバチー』
前にも書いた言葉。
でも、今日はもう少し続きがあった。
『土曜日のシバチーは、私を見つけてくれたシバチー』
『私は、あの日泣いた』
『でも、嫌だったからじゃない』
『隣にいてくれたから、泣けた』
『そして今日は、ちゃんと笑って帰れた』
クロエは、その文字を黙って見ていた。
レイカも、ふざけなかった。
アオイは、もう一行書く。
『高瀬ハヤト』
『友達になれるかもしれない人』
『少し困りやすい』
『よく落とす』
『でも、ちゃんと拾う』
『もう少し知りたい人』
ペン先が止まる。
アオイは、夕方の空を見上げた。
赤い風船は、今日はない。
でも、空の色が少しだけ赤い。
それだけで、あの日の風船を思い出した。
アオイは最後に、ゆっくり書いた。
『土曜日に、また会いたい人』
書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。
クロエが小さく言う。
「アオイ」
「うん」
「それは、シバチーのこと?」
アオイは、少しだけ考えた。
それから、柔らかく笑う。
「まだ、内緒」
レイカがすぐに反応した。
「また内緒!」
「ごめんね」
「ごめんねじゃないんだって! 第一巻終わったのに読者のあたしだけ置いてかれてる!」
「レイカ、読者だったの」
「読者だよ! 最前列の読者!」
クロエが少しだけ笑った。
アオイも笑った。
レイカは不満そうに腕を組んだが、すぐに笑ってしまった。
夕方の風が、三人の髪を揺らす。
アオイはノートを閉じた。
ヘッドホンは、まだ耳を覆っている。
でも、その奥にはたくさんの音が残っていた。
パークの音。
子どもたちの笑い声。
スタッフの慌てた声。
レイカの笑い声。
クロエの小さなため息。
シバチーの、声のない手の振り方。
そして、高瀬ハヤトの少し慌てた声。
全部、ちゃんと残っている。
アオイはノートを胸に抱えた。
もう一度、あの場所へ行きたい。
もう一度、会いたい。
今度は、泣くためではなく。
笑って帰るために。
そして、まだ名前を知ったばかりの誰かのことを、もう少しだけ知るために。
アオイは立ち上がった。
「帰ろう」
クロエが頷く。
「うん」
レイカも立ち上がる。
「帰って、第二巻会議ね」
「会議するの?」
「するでしょ。あたし、置いてかれてるし」
「じゃあ、少しだけ」
「よし。開園」
「開園?」
「第二巻、開園です」
アオイは少しだけ笑った。
まだ、その言葉は自分の口癖ではない。
でも、いつか自然に言う日が来るかもしれない。
そんな気がした。
三人は夕方の道を歩き出す。
駅へ。
家へ。
また明日へ。
そして、また土曜日へ。
笑顔で帰れる場所が、少しだけ増えた気がした。
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