見過ぎないように
昼休み。
アオイは購買横のベンチに座っていた。
隣にはクロエ。
正面にはレイカ。
三人の前には、購買で買ったパンと飲み物が並んでいる。
アオイのノートは、机の上に開かれていた。
『高瀬ハヤト研究記録』
『一、挨拶すると教科書を落とす』
『二、慌てると連鎖的に物を落とす』
『三、犬のシールを持っている』
『四、面白いと言うと固まる』
『五、仲良くなりたいと言うと、もっと固まる』
『六、でも嫌そうではない』
『七、定規は二回落ちる』
レイカはそれを読んで、肩を震わせていた。
「七、いる?」
「いる」
「昨日の風船に絡まると同じ枠?」
「うん。大事」
「アオイの大事の基準、事故報告書なんだよね」
クロエはパンを一口かじりながら言った。
「高瀬くん、かわいそう」
「かわいそう?」
「朝から挨拶されて、物を落として、研究記録にされた」
「研究対象じゃないよ」
「じゃあ何」
アオイは少し考えた。
そして、小さく言う。
「知りたい人」
クロエは黙った。
レイカも、少しだけ黙る。
アオイはノートの端を指でなぞった。
「シバチーを調べてた時と、少し似てる。でも、少し違う」
「何が?」
レイカが聞く。
「シバチーは、声がなかったから。動きを見て、考えるしかなかった」
「うん」
「高瀬くんは、声がある」
「まあ、人間だからね」
「でも、困った時の間とか、手の振り方とか、近づく前に止まるところとか……見ちゃうんだよね」
アオイは少しだけ頬を赤くした。
「見ようとしてるというより、見ちゃう」
クロエは目を細めた。
「それを本人に言わないこと」
「言わないよ」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「うん。言わない」
レイカがパンをかじりながら言う。
「でもさ、高瀬くん、明らかにアオイに弱いよね」
「弱い?」
「おはようで教科書落とす男子、なかなかいないよ」
「急だったからじゃないかな」
「昨日名前聞かれて、今日おはようだからね。急カーブではある」
クロエが言う。
「アオイ、少しずつでいい」
「うん」
「相手が混乱してるなら、待つ」
アオイはその言葉に、少しだけ目を伏せた。
待つ。
あの日、シバチーがしてくれたこと。
急かさずに。
近づきすぎずに。
でも、いなくならずに。
アオイはノートに新しく一行書いた。
『八、待つ』
レイカがそれを見る。
「高瀬くんの記録じゃなくなった」
「私のルール」
「いいじゃん」
クロエも、何も言わなかった。
その時、購買の前が少し騒がしくなった。
誰かが落としたパンを拾っている。
高瀬ハヤトだった。
アオイたち三人は、同時にそちらを見た。
高瀬は、前の生徒が落とした焼きそばパンを拾い、袋が破れていないか確認してから渡している。
相手が礼を言うと、高瀬は少し照れたように頭をかいた。
それから、自分の分のパンを買おうとして、財布から小銭を落とした。
ちゃりん。
ちゃりん。
ちゃりん。
レイカが小声で言う。
「落とすなぁ」
アオイのペンが動く。
『九、人のパンは拾える』
『十、自分の小銭は落とす』
クロエが低い声で言った。
「見すぎない」
アオイはノートを閉じた。
「見てないよ」
「今、十まで行った」
「十で止めた」
「止めたからいいわけじゃない」
レイカは笑いながら言った。
「でも高瀬くん、いい人じゃん」
アオイは小さくうなずいた。
「うん」
それは、たぶん。
もう、たぶんではなかった。
*
放課後。
アオイは昇降口で靴を履き替えていた。
レイカは部活の用事で先に行き、クロエは職員室へ提出物を出しに行っている。
少しだけ、一人だった。
靴紐を結び直していると、隣で誰かが立ち止まった。
「あ」
声がした。
アオイが顔を上げる。
高瀬ハヤトがいた。
彼も、こちらを見て固まっていた。
今日は三回目だった。
アオイは、小さく笑った。
「高瀬くん」
「柳生さん」
高瀬は少しだけ背筋を伸ばした。
そして、何か言おうとして、止まる。
その止まり方が、やっぱり少しだけ似ていた。
アオイはノートを出しかけて、やめた。
見すぎない。
本人の前でノートを開かない。
待つ。
ちゃんと守る。
「帰るところ?」
アオイが聞く。
「はい。柳生さんもっすか」
「うん」
「そうっすか」
「うん」
会話が終わりそうだった。
でも、嫌な終わり方ではなかった。
高瀬は、少しだけ困った顔で靴を履き替える。
その途中で、靴べらを落とした。
からん、と音がした。
アオイは見なかったことにした。
高瀬も、見なかったことにしている顔をしていた。
でも靴べらは床に落ちている。
沈黙が三秒続いた。
アオイは耐えきれず、そっと指さした。
「落ちてるよ」
「知ってるっす」
「拾わないの?」
「今、拾うところっす」
「うん」
高瀬は靴べらを拾った。
その拍子に、鞄の紐が肩からずり落ちた。
アオイは少しだけ口元を押さえた。
笑ってはいけない気がした。
でも、少しだけ笑ってしまった。
高瀬はそれを見て、困ったように言う。
「柳生さん、笑いました?」
「少しだけ」
「俺、そんな変っすか」
「ううん」
アオイは首を横に振った。
「安心しただけ」
「安心?」
「うん」
高瀬は分からないという顔をした。
アオイにも、うまく説明できなかった。
でも、目の前の高瀬ハヤトが完璧な人じゃなくてよかった。
少し困って。
少し慌てて。
物を落として。
それでも、誰かにはちゃんと手を伸ばす。
その感じが、アオイには少しだけ安心できた。
「高瀬くん」
「はい」
「今日、話してくれてありがとう」
高瀬は、また固まった。
けれど、今度は物を落とさなかった。
少しだけ、成長しているのかもしれない。
アオイはそう思った。
高瀬は視線を泳がせてから、小さく言った。
「こっちこそ、っす」
「うん」
「また、学校で」
「うん。また、学校で」
アオイは小さく手を振った。
高瀬も手を振る。
ぎこちない。
でも、昨日より少しだけ自然だった。
アオイは、その手の振り方を見て、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じた。
ノートには書かなかった。
でも、ちゃんと覚えていた。
*
校門を出ると、クロエが待っていた。
少し離れた場所で、腕を組んでいる。
アオイが近づくと、クロエはすぐに言った。
「話してたね」
「うん」
「ノート出してない?」
「出しかけて、やめた」
「よし」
「よし?」
「進歩」
アオイは少しだけ笑った。
クロエはアオイの顔を見て、少し表情を緩める。
「楽しかった?」
「うん」
アオイは素直にうなずいた。
「高瀬くん、よく物を落とす」
「そこ?」
「でも、人の物はちゃんと拾う」
「そこは見てたんだ」
「うん」
クロエはため息をついた。
「見すぎないって言ったのに」
「見ちゃった」
「正直でよろしい」
少し歩くと、レイカが部活帰りの格好で走ってきた。
「おーい! どうだった?」
「何が?」
「高瀬くん研究!」
「研究じゃないよ」
「じゃあ何?」
アオイは少し考えた。
朝と同じ質問。
でも、今度は少しだけ答えが変わっていた。
「友達になれるかもしれない人」
レイカは目を丸くした。
クロエも、少しだけアオイを見た。
「おお」
レイカがにやっと笑う。
「いいじゃん。高瀬くん、第一被験者から昇格」
「被験者じゃない」
「じゃあ第一友達候補?」
「友達候補」
アオイは小さく繰り返した。
悪くない響きだった。
レイカは満足そうに笑う。
「じゃあ、今日は研究成果発表会だね」
「発表しないよ」
「するでしょ。ノートあるし」
「これは私用」
「出た、私用研究」
クロエが言う。
「アオイ、今日の結論だけ書けば」
「結論」
アオイは立ち止まり、ノートを開いた。
夕方の光が、ページに落ちる。
今日増えた文字の下に、アオイはゆっくりペンを走らせた。
『今日の結論』
『高瀬ハヤトは、よく固まる』
『よく落とす』
『でも、ちゃんと拾う』
『話すと少し困る』
『でも、嫌そうではない』
『手の振り方は、やっぱり少し似ている』
そこまで書いて、アオイは少し止まった。
そして、最後に一行足した。
『見すぎないようにする』
『でも、もう少し知りたい』
レイカがそれを見て、笑った。
「反省と欲望が同じページにいる」
「欲望じゃないよ」
「じゃあ何?」
アオイはノートを閉じる。
少しだけ照れたように笑った。
「続き」
クロエは、何か言いかけてやめた。
レイカは空を見上げて、わざとらしく両手を広げる。
「始まりました。高瀬ハヤト研究記録、校内限定・目視のみ・倫理あり編」
「タイトル長い」
「安全で健全」
「それは大事」
アオイは真剣にうなずいた。
夕方の道を、三人で歩く。
黒いヘッドホンは、今日も耳を覆っている。
でも、その奥に残っている音は、昨日より少し増えていた。
高瀬ハヤトの慌てた声。
廊下に落ちた教科書の音。
定規が落ちた音。
靴べらが落ちた音。
そして、少しぎこちない「また、学校で」。
アオイはノートを胸に抱えた。
まだ、何も分からない。
まだ、決めつけてはいけない。
でも。
少しだけ、知りたい。
もう少しだけ、近づいてみたい。
近づく前に、一度止まって。
相手を見て。
嫌がっていないか、ちゃんと確かめて。
そうやって、手を伸ばす。
あの日、シバチーがしてくれたみたいに。
アオイは小さく息を吸った。
「明日も、おはようって言えるかな」
クロエが言う。
「普通に言えばいい」
レイカが笑う。
「高瀬くん、今度は何落とすかな」
「落とさないかもしれないよ」
「それはそれで成長じゃん」
アオイは少しだけ笑った。
明日が、少しだけ気になった。
それはたぶん、悪いことではなかった。
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