高瀬ハヤト研究記録
第7話 高瀬ハヤト研究記録
月曜日の朝。
柳生アオイは、いつもより少しだけ早く教室に着いた。
窓際の席に座り、鞄からノートを取り出す。
『シバチー研究記録 第一巻』
表紙には、少しだけ角の丸くなった文字でそう書いてある。
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
土曜日。
一週間かけて埋まったページを、アオイはゆっくりめくった。
月曜日のシバチーは、帽子を斜めにすると踊る。
火曜日のシバチーは、音が出る。
水曜日のシバチーは、何も言わないのに見えないものを見せてくる。
木曜日は、シバチーがいない。
そのかわり、クロエがウルピーに落ち、レイカがオハナに落ちた。
金曜日のシバチーは、声のない映画みたいだった。
そして、土曜日。
『土曜日のシバチーは、私を見つけてくれたシバチー』
そこに書いた文字を、アオイはしばらく見つめた。
昨日、赤い風船をもらった。
一週間前と同じように。
あの日と同じように、少し迷ってから近づいてきて、急かさずに待ってくれた。
そして帰り道。
名前を知った。
高瀬ハヤト。
同じ学校の男子。
違うクラス。
少し困りやすい。
手の振り方が、少しだけ土曜日のシバチーに似ている。
アオイは、白いページを一枚めくった。
そして、ペンを持つ。
『高瀬ハヤト研究記録』
そこまで書いて、止まった。
少しだけ、よくない響きがした。
アオイは首をかしげる。
もう一度、文字を見る。
研究。
記録。
高瀬ハヤト。
何も間違っていないはずなのに、組み合わせると少しだけ危ない気がする。
アオイは小さく息を吸って、タイトルの下に一行書き足した。
『校内限定』
さらに少し考えて、もう一行。
『目視のみ』
もう一行。
『追いかけない』
ここまで書いたところで、教室の扉が開いた。
「おはよー」
レイカが入ってきた。
朝から元気だった。
バッグには、一昨日から付いているオハナのキーホルダーが揺れている。
アオイはノートをそっと閉じようとした。
しかし、レイカは目ざとかった。
「ん? なになに? 新刊?」
「新刊じゃないよ」
「いや、そのノート開いた時点でだいたい事件じゃん」
「事件じゃないよ」
「見せて」
「えっと……まだ途中」
「途中の事件?」
「事件じゃない」
レイカはアオイの机の前に立つ。
その視線が、ノートの表紙から少しだけはみ出した文字を捉えた。
「高瀬……?」
アオイの肩が小さく跳ねる。
レイカの目が、きらっと光った。
「高瀬ハヤト?」
「声が大きいよ」
「え、昨日の男子じゃん」
「うん」
「もう研究してんの?」
「もう、っていうか……昨日、名前を知ったから」
「名前知ったら研究始まるの?」
「ちゃんと知りたいなって」
「アオイ、それ便利な言葉にしすぎ」
その時、クロエが教室に入ってきた。
「朝から何してるの」
「あ、クロエおはよ。アオイが高瀬くん研究始めた」
クロエの足が止まった。
そして、ゆっくりアオイを見る。
「アオイ」
「うん」
「ノート見せて」
「まだ途中だよ」
「途中でいい」
アオイは少し迷ったあと、ノートを開いた。
クロエとレイカが左右から覗き込む。
『高瀬ハヤト研究記録』
『校内限定』
『目視のみ』
『追いかけない』
沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、レイカだった。
「自覚あるじゃん」
「うん。だから書いた」
「書けばセーフ理論?」
「セーフかなって」
「ギリギリだね」
クロエは腕を組む。
「アオイ」
「うん」
「これは、ルールを増やした方がいい」
「ルール?」
「研究倫理」
レイカが吹き出した。
「研究倫理きた」
クロエは真顔だった。
「一つ。後をつけない」
「うん。追いかけないって書いた」
「二つ。校外には広げない」
「うん」
「三つ。本人が嫌がったらやめる」
「うん」
「四つ。本人の前でノートを開かない」
アオイは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
「五つ。シバチーのことはまだ言わない」
アオイの指が、ぴたりと止まった。
「……うん」
その横で、レイカだけがきょとんとしていた。
「ん?」
レイカはアオイを見る。
次にクロエを見る。
それから、教室の中を意味もなくきょろきょろ見回した。
「え、なに? 今なんの話?」
クロエは一瞬だけ黙った。
アオイも黙った。
レイカはさらに首をかしげる。
「シバチー? 高瀬くん? え? どこが繋がった?」
「繋がってない」
クロエが即答した。
「今の間、絶対繋がってたじゃん」
「繋がってない」
「アオイも今、目そらした」
「そらしてないよ」
「そらしたじゃん。え、なに? あたしだけ知らない会議始まってる?」
クロエはレイカの肩に手を置いた。
「今は知らなくていい」
「それ、一番気になるやつ!」
アオイは少し困ったように笑った。
「ごめんね、レイカ」
「謝るってことは何かあるじゃん!」
クロエはそのまま話を戻した。
「とにかく、五つ目。シバチーのことはまだ言わない」
「うん」
アオイはペンを持った。
ノートにゆっくり書く。
『高瀬ハヤト研究倫理』
『一、後をつけない』
『二、校外には広げない』
『三、嫌がったらやめる』
『四、本人の前でノートを開かない』
『五、シバチーのことはまだ言わない』
レイカはその文字を見て、またきょろきょろした。
「だからなんでシバチーが出てくんの?」
「六、見すぎない」
クロエは無視して続けた。
「無視された!」
アオイは手を止める。
「見すぎない」
「そこ復唱するんだ」
「大事かも」
アオイは真剣にうなずき、六つ目を書いた。
『六、見すぎない』
レイカが笑う。
「でもたぶん見るじゃん」
「……少しだけ」
「少しの基準が怖い」
クロエがノートを閉じた。
「とりあえず、校内限定。近づくなら普通に挨拶。変な距離で観察しない」
「変な距離って?」
「柱の陰とか」
「それはしないよ」
アオイは少しだけむっとした。
「ちゃんと、普通にする」
レイカがにやにやする。
「普通にできる?」
「できるよ」
「じゃあ、高瀬くん来たら?」
「おはようって言う」
「ほんとに?」
「言う」
「固まらない?」
「たぶん」
「アオイが?」
「高瀬くんが」
クロエが小さくため息をついた。
「もう観察結果が出てる」
*
一時間目が終わった休み時間。
廊下は、少しだけ騒がしかった。
次の授業の教室移動で、生徒たちが行き交っている。
アオイは、ノートを抱えて廊下の端に立っていた。
隣にクロエ。
そのさらに隣にレイカ。
ただし三人の立ち位置は、少しおかしかった。
アオイは普通に立っている。
クロエは監視役のように腕を組んでいる。
レイカは完全に野次馬の顔をしている。
「いた?」
レイカが小声で聞く。
「まだ」
「これ待ち伏せじゃない?」
「違うよ。次の授業、移動だから」
「じゃあ自然?」
「自然」
クロエが言った。
「自然な人は、そんなに廊下の角を見ない」
アオイは慌てて視線を戻した。
「見てないよ」
「見てた」
「少しだけ」
「少しが長い」
その時だった。
廊下の向こうから、高瀬ハヤトが歩いてきた。
手には教科書。
肩には少しだけ斜めにかかった鞄。
誰かに呼ばれたのか、振り向いて返事をしながら歩いている。
そのせいで、前から来た女子生徒とぶつかりそうになった。
高瀬は慌てて一歩引いた。
「す、すんません」
女子生徒が笑って通り過ぎる。
高瀬は少しだけ困った顔で頭を下げた。
アオイのペンが動く。
『人にぶつかりそうになると、先に一歩引く』
『謝るのが早い』
『困った顔になる』
レイカがノートを覗き込む。
「実況じゃん」
「記録だよ」
「高瀬くん、野生動物みたいな扱いされてる」
「野生じゃないよ」
「じゃあ何?」
「高瀬くん」
「そのままだった」
高瀬がこちらに気づいた。
目が合う。
高瀬は、分かりやすく固まった。
まるで廊下の途中で、一時停止ボタンを押されたみたいだった。
アオイは小さく息を吸う。
普通に。
普通に挨拶。
クロエが横から小さく言う。
「普通に」
レイカも小声で言う。
「開園」
「開園?」
「なんでもない」
アオイは一歩前に出た。
「おはよう、高瀬くん」
高瀬の手から、教科書が一冊落ちた。
ぱさり、と廊下に音がする。
周囲の数人が振り向く。
高瀬は慌ててしゃがんだ。
「あ、え、あ、おはようっす」
アオイもしゃがもうとした。
けれど、クロエが一瞬だけ袖を掴んだ。
「近すぎない」
「あ」
アオイは少しだけ距離を取って、落ちた教科書を指さした。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫っす。全然、大丈夫っす」
高瀬は教科書を拾う。
しかし、慌てすぎて別のプリントが鞄から滑り落ちた。
「あ」
レイカが小さく笑った。
「連鎖した」
高瀬はプリントを拾おうとして、今度は筆箱を落とした。
かしゃん、と中身が廊下に広がる。
シャーペン。
消しゴム。
赤ペン。
定規。
それから、小さな犬のシール。
アオイの目が止まった。
黒柴ではなかった。
でも、犬だった。
高瀬は慌ててそれを拾う。
「これは違うっす」
アオイは首をかしげる。
「何が?」
「いや、違うっす」
「うん?」
「えっと、なんでもないっす」
高瀬はさらに慌てて筆箱を閉じた。
アオイはノートに書こうとして、止まった。
本人の前でノートを開かない。
クロエの言葉が頭をよぎった。
アオイはペンを握ったまま、ゆっくりノートを閉じる。
クロエが無言でうなずいた。
レイカが小声で言う。
「今、書きたかったでしょ」
「……少しだけ」
「犬のシール、絶対メモ案件だったもんね」
「うん」
高瀬はそれを聞いて、さらに固まっている。
アオイは少し慌てて言った。
「ごめんね。変な意味じゃないよ」
「変な意味じゃないんすか」
「うん」
「じゃあ、何の意味っすか」
アオイは答えようとして、少しだけ止まった。
ちゃんと知りたい。
そう言えば、昨日と同じになる。
でも、今それを言うと、また高瀬が固まる気がした。
アオイは考えた末に、柔らかく言った。
「高瀬くん、面白いなって」
高瀬は固まった。
レイカが吹き出した。
クロエが額に手を当てた。
「アオイ、それはそれで変」
「そうなの?」
「そう」
高瀬は、教科書と筆箱を抱えたまま、困ったように笑った。
「えっと……それ、褒めてるっすか」
「うん。たぶん」
「たぶんなんすね」
「まだ研究中だから」
言ってから、アオイは口を押さえた。
しまった。
クロエの視線が刺さる。
レイカはもう笑いを隠していない。
高瀬は、まばたきをした。
「研究中?」
アオイは少しだけ頬を赤くした。
「違うの」
「違うんすか」
「違わないけど、違うの」
「どっちっすか」
「えっと……観察?」
「観察」
「違う。今のなし」
アオイは首を横に振った。
「普通に、仲良くなりたいだけ」
言ってから、自分で少し驚いた。
言葉が、思っていたより自然に出た。
高瀬も驚いた顔をした。
クロエも少しだけ目を見開く。
レイカの笑い声が、そこで止まった。
短い沈黙。
廊下のざわめきだけが、その間を通り過ぎる。
高瀬は、少しだけ視線を泳がせた。
困っている。
でも、嫌そうではなかった。
やがて、高瀬は小さくうなずいた。
「……はい。俺でよければ」
アオイは、少しだけ笑った。
「ありがとう」
高瀬はまた固まった。
今度は教科書を落とさなかった。
でも、持っていた定規が、筆箱からもう一度すべり落ちた。
かたん。
レイカが限界だった。
「定規は落ちるんだ」
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