土曜日のシバチー
第6話 土曜日のシバチー
土曜日の朝。
柳生アオイは、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が細く入っている。
部屋の天井近くには、少しだけしぼんだ赤い風船が揺れていた。
一週間前。
シバチーがくれた風船。
何も言わずに、何も聞かずに、ただ隣にいてくれて。
泣いてしまった自分に、赤い風船を差し出してくれた。
あの日から、アオイの世界は少しずつ変わった。
まだ全部が明るくなったわけではない。
まだ外の音が怖い日もある。
黒いヘッドホンは、今日も耳を覆っている。
それでも。
もう一度、あの場所へ行きたいと思った。
もう一度、会いたいと思った。
アオイは机の上に置いていたノートを開く。
『シバチー研究記録 第一巻』
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
そこまでの欄は、もう埋まっている。
月曜日のシバチーは、帽子を斜めにすると踊った。
火曜日のシバチーは、音が出た。
水曜日のシバチーは、何も言わないのにたくさん伝えてきた。
木曜日は、シバチーがいなかった。
そのかわり、ウルピーがクロエに刺さり、オハナがレイカに刺さり、ライルはマントに絡まっていた。
金曜日のシバチーは、少しだけかなしかった。
言葉がないのに、声がないのに、ここにいるよ、と言っているみたいだった。
そして。
土曜日。
ページは、まだ白い。
アオイはその空白を、しばらく見つめていた。
今日は、たぶんいる。
あの日のシバチーが。
そう思うだけで、胸の奥が少し熱くなる。
でも、怖くもあった。
もし違ったら。
もし、あの日のシバチーがどこにもいなかったら。
自分は何を探していたのだろう。
あの赤い風船に、どんな意味を見つけようとしていたのだろう。
アオイは天井の風船を見上げた。
風船は、何も言わずに揺れている。
「……行ってくるね」
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
*
待ち合わせ場所には、クロエが先に来ていた。
駅前のベンチに座り、スマホを触っている。
アオイが近づくと、クロエはすぐに顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
「早いね」
「アオイの方が早く来ると思ったから」
「そうなの?」
「そうでしょ」
クロエは立ち上がり、アオイの顔を見た。
「寝た?」
「寝たよ」
「何時間」
「……五時間くらい」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん、か」
クロエはため息をついた。
けれど、怒る声ではなかった。
「今日は、大事なんでしょ」
アオイは少しだけ黙った。
それから、小さくうなずく。
「うん」
クロエはそれ以上聞かなかった。
代わりに、少しだけ視線を逸らす。
「レイカは遅れるって。一昨日からオハナのグッズ探してたらしくて、駅前の店に寄ってる」
「もうグッズ買ってるんだ」
「早いよね」
「クロエも、ウルピーのシール増えてる」
クロエの手が、スマホケースを隠した。
「気のせい」
「今日は二枚ある」
「気のせい」
「木曜日は一枚もなかったよ」
「見すぎ」
アオイは少し笑った。
その時、遠くからレイカの声が聞こえた。
「おまたせー!」
レイカが走ってくる。
バッグには、木曜日にはなかったオハナの小さなキーホルダーが揺れていた。
クロエが無言でそれを見る。
レイカは胸を張った。
「かわいくない?」
「早い」
「推し活は初速が命」
「一昨日出会ったばかりでしょ」
「一昨日出会って、昨日ずっと気になって、今日買うんじゃん」
「勢いが怖い」
「クロエにだけは言われたくない」
「私は違う」
「まだ言ってる」
アオイは、レイカのバッグで揺れるオハナを見て、少しだけ笑った。
「似合ってる」
「でしょ?」
レイカは満足そうに笑ったあと、アオイを見た。
「で、今日は土曜日」
「うん」
「本命の日?」
その言葉に、アオイの胸が少し跳ねた。
「本命っていうか……」
「うん」
「ちゃんと、確認したい日」
レイカはにっと笑った。
「じゃあ、行こ」
クロエも静かに頷いた。
三人は、シャイニードリームランドへ向かった。
*
土曜日のパークは、人が多かった。
ゲートの前から、もう空気が違う。
子どもの声。
ベビーカーの車輪の音。
ポップコーンの甘い匂い。
遠くで流れるパレード前の音楽。
週末のシャイニードリームランドは、平日よりも少しだけ夢の密度が高い。
アオイは年パスを見せて、ゲートをくぐった。
「いってらっしゃいませ」
スタッフの声が届く。
いってらっしゃい。
その言葉が、今日は少しだけ胸に残った。
前なら、行ってきます、なんて思わなかった。
どこへ行っても、自分がいる場所ではない気がしていた。
でも今は。
少しだけ、行ってきますと思えた。
アオイは中央広場へ向かった。
クロエとレイカが、その少し後ろを歩く。
「アオイ、速い」
レイカが言う。
「あ、ごめん」
「いや、いいけど。今日めっちゃ真剣じゃん」
「うん」
アオイは正直にうなずいた。
クロエがそっと言う。
「緊張してる?」
「少し」
「会えるといいね」
アオイは足を止めかけた。
その言葉が、思っていたよりずっと優しかったから。
「……うん」
小さく返して、また歩き出す。
中央広場が見えてくる。
時計塔。
花壇。
ベンチ。
風船。
一週間前と同じ場所。
アオイの喉が、少しだけ詰まる。
あの日、ここで泣いた。
泣いてしまった。
シバチーに風船をもらって。
少しだけ、笑った。
そして、シバチーは風船まみれになってスタッフに引きずられていった。
思い出すと、胸が痛いのに、少しだけ笑いそうになる。
変な思い出だった。
大事な思い出だった。
アオイは広場へ入る。
そして、見つけた。
赤い帽子。
白いパーカー。
黒柴の無表情。
シバチーがいた。
アオイは、息を止めた。
月曜日のように、場を変えるほど踊ってはいない。
火曜日のように、音を鳴らしてはいない。
水曜日のように、見えない何かを見せているわけでもない。
金曜日のように、沈黙で刺してくる感じとも違う。
土曜日のシバチーは、少しだけ困っていた。
小さな子どもたちに囲まれて、右へ行こうとして左から呼ばれ、左へ行こうとして右から手を引かれている。
慌てている。
でも、雑ではない。
呼ばれた方へ顔を向ける。
しゃがむ。
手を振る。
近づきすぎた子には、そっと一歩引く。
泣きそうな子には、動きを小さくする。
元気な子には、少しだけ大きく手を振る。
その全部が、どこか不器用だった。
でも、優しかった。
アオイの指が、ノートの角を掴む。
「……いた」
声が震えた。
レイカが小声で言う。
「今日のシバチー、なんか忙しそう」
クロエが頷く。
「土曜だから人多いしね」
「でも、なんか……」
レイカは首をかしげる。
「他の曜日より、ちょっと慌ててない?」
アオイは答えなかった。
見ていた。
ただ、見ていた。
土曜日のシバチーが、子どもから差し出された小さな花のシールを受け取る。
貼って、と言われたらしい。
シバチーは、自分の胸元を指さす。
ここ?
子どもが首を振る。
シバチーは帽子を指さす。
ここ?
子どもがまた首を振る。
少し考えて、シバチーは自分の頬を指さした。
子どもが笑って、大きくうなずく。
シバチーは、少しだけ固まった。
困っている。
でも、断らない。
ゆっくりしゃがんで、子どもが貼りやすいように顔を近づける。
子どもがシールを貼る。
黒柴の頬に、小さな花がついた。
シバチーは両手で頬を押さえた。
照れているみたいだった。
子どもたちが笑う。
アオイも、少しだけ笑った。
その瞬間。
胸の奥で、何かが重なった。
一週間前。
風船を渡してくれた時の、少し迷ったような間。
近づく前に、一度止まった歩き方。
泣いている自分を見て、どうしたらいいか分からないみたいに固まったシバチー。
それでも、隣にいてくれたシバチー。
今日のシバチーは、同じだった。
派手ではない。
完璧でもない。
でも、近づき方が優しい。
相手の反応を見る。
迷う。
固まる。
それでも、ちゃんと手を伸ばす。
アオイは、ノートを開いた。
手が少し震えている。
『Saturday』
そこまで書いて、止まった。
言葉が、すぐには出てこない。
レイカが横から覗き込もうとして、クロエに止められた。
クロエは何も言わず、アオイを見ていた。
アオイはゆっくり書く。
『あの日のシバチーに、似ている』
書いてから、胸が少し苦しくなった。
似ている。
本当は、それだけじゃない気がした。
でも、まだ言い切るのが怖かった。
シバチーが、こちらを向いた。
アオイの体が固まる。
シバチーは、すぐには近づいてこなかった。
広場の真ん中で、一度止まった。
ほんの少しだけ、困ったように見えた。
それから、小さく手を振る。
ぎこちない手の振り方だった。
月曜日の強さでもない。
火曜日の軽さでもない。
水曜日の芸でもない。
金曜日の静けさでもない。
迷っているみたいだった。
でも、ちゃんと見ている。
こっちが嫌がっていないか、確かめているみたいに。
アオイは、息を吸った。
それから、小さく手を振り返した。
シバチーが、ほんの少しだけ動いた。
安心したみたいに見えた。
シバチーは、赤い風船を一つ持って、ゆっくり歩いてくる。
一歩。
少し止まる。
また一歩。
近づきすぎないように、距離を測るみたいに。
レイカが小声で言う。
「来た」
クロエが、レイカの袖を軽く引いた。
「静かに」
アオイは、動けなかった。
シバチーが目の前で止まる。
赤い風船が、ふわりと揺れる。
一週間前と同じ色。
同じ場所。
同じように、少し迷ってから近づいてくるシバチー。
そう思った瞬間、アオイの喉の奥がきゅっと鳴った。
シバチーは風船を差し出した。
でも、すぐには手を離さなかった。
アオイが受け取るのを待っている。
あの日と同じように。
急かさずに。
ただ、待っている。
アオイは、そっと手を伸ばした。
風船の紐に触れる。
指先が少し震えた。
シバチーは、その震えに気づいたみたいに、ほんの少しだけ手を止めた。
それから、ゆっくり紐を渡した。
アオイは風船を受け取った。
「……ありがとう」
声は、小さかった。
でも、ちゃんと出た。
シバチーは、少しだけ体を揺らした。
嬉しそうに見えた。
アオイは風船を見上げる。
一週間前の風船とは違う。
でも、同じ赤だった。
同じように、空へ向かって揺れていた。
「また、くれたね」
シバチーは、何も言わない。
ただ、少しだけ首を傾ける。
アオイは笑おうとした。
でも、少しだけ泣きそうになった。
「私、ちゃんと来たよ」
その言葉が、自然に出た。
「月曜日も、火曜日も、水曜日も、木曜日も、金曜日も」
レイカが小さく目を見開く。
クロエは黙っていた。
アオイは、シバチーを見つめる。
「ずっと、探してたの」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。
でも、もう止められなかった。
「追いかけてるとかじゃなくて……ちゃんと知りたくて」
シバチーは動かなかった。
アオイの言葉を、最後まで待っているみたいだった。
「私を、あの日、泣かせたシバチーのこと」
クロエが息を飲んだ。
レイカも黙った。
アオイは続ける。
「でも、泣いたのに……少しだけ笑えたから」
風船が揺れる。
赤い色が、空に浮かぶ。
「だから、もう一回、会いたかった」
シバチーは、両手を胸の前で少しだけ握った。
困ったようにも見えた。
驚いたようにも見えた。
そして、少しだけ、泣きそうにも見えた。
表情は変わらないのに。
黒柴の顔は、いつもの無表情なのに。
アオイには、そう見えた。
シバチーは、ゆっくり手を上げた。
そして、自分の胸に手を当てる。
次に、アオイの持つ赤い風船を指さす。
それから、アオイを指さす。
最後に、両手を小さく広げる。
言葉はない。
でも、アオイには、分かった気がした。
来てくれて、ありがとう。
そう言われたような気がした。
アオイは、少しだけ笑った。
「……うん」
その時、背後からスタッフの声がした。
「シバチー、そろそろ移動お願いしまーす」
シバチーの体が、びくっとした。
アオイは瞬きをした。
シバチーは慌てて振り返る。
スタッフが手招きしている。
子どもたちも別の場所で待っている。
シバチーはアオイを見る。
それから、スタッフを見る。
またアオイを見る。
明らかに困っていた。
レイカが小声で吹き出す。
「めっちゃ困ってる」
クロエも口元を押さえた。
シバチーは最後に、アオイへ向かって大きく手を振った。
でも、歩き出そうとして、足元の風船の紐に引っかかった。
ぽすん、と軽くよろける。
「あ」
アオイが声を出す。
シバチーは慌てて体勢を立て直す。
別の風船の束が帽子に絡まる。
さらにスタッフが慌てる。
「シバチー、絡まってる!」
シバチーは両手をばたばたさせる。
風船がふわふわ揺れる。
子どもたちが笑う。
レイカが腹を抱えた。
「最後それ!?」
クロエもとうとう笑った。
アオイも、笑った。
泣きそうだったのに。
胸が苦しかったのに。
ちゃんと、笑った。
シバチーは風船に絡まりながら、スタッフにゆっくり連れていかれる。
一週間前と、少しだけ似ていた。
でも、今日は違う。
あの日は、泣きながら少し笑った。
今日は、泣きそうになりながら、ちゃんと笑った。
シバチーは引っ張られながらも、最後までアオイへ手を振っていた。
アオイも風船を持ったまま、手を振り返す。
「またね」
声は、ちゃんと届いた気がした。
*
帰り道。
三人は、夕方の道を歩いていた。
アオイの手には、赤い風船がある。
朝、部屋にあった風船とは違う。
今日、土曜日のシバチーからもらった風船。
風に揺れるたび、アオイの目が少しだけそちらへ向く。
レイカが隣から覗き込んだ。
「で、どうだった?」
「どうって?」
「土曜日のシバチー」
アオイは少しだけ考えた。
言葉にすると、何かがこぼれそうだった。
でも、ちゃんと残したかった。
「優しかった」
「それは全部の曜日そうじゃない?」
「うん。でも、違うの」
「どう違うの?」
アオイは風船を見上げる。
「月曜日は、みんなを引っ張ってくれる感じだった」
「帽子斜めダンスね」
「火曜日は、音で楽しくしてくれた」
「陽キャシバチー」
「水曜日は、見えないものを見せてくれた」
「無音職人」
「金曜日は、そばにいてくれる感じだった」
「静かに刺すやつ」
アオイは少し笑った。
「土曜日は……」
そこで言葉を止める。
クロエが静かに待った。
レイカも、今日は急かさなかった。
「土曜日は、迷いながら手を伸ばしてくれる感じ」
アオイは、風船の紐をそっと握る。
「近づいていいか、待ってくれる。泣いてる時も、笑えない時も、無理に笑わせようとしないで、でも、そこにいてくれる」
クロエは何も言わなかった。
アオイは続ける。
「たぶん、あの日のシバチーだったと思う」
それは断定ではなかった。
でも、アオイの中では、ほとんど答えに近かった。
レイカが小さく言う。
「そっか」
「うん」
「会えてよかったね」
アオイはうなずいた。
「うん。よかった」
その声は、朝より少しだけ軽かった。
クロエが横から言う。
「ノート、書かないの?」
「あ」
アオイは立ち止まって、ノートを取り出した。
土曜日のページ。
白かった欄に、ゆっくり書く。
『Saturday』
『あの日のシバチーに、会えた気がする』
『少し困りやすい』
『近づく前に、一度止まる』
『風船を渡す時、待ってくれる』
『優しい』
『たぶん、いちばん優しい』
『でも、風船に絡まる』
レイカが吹き出した。
「最後いる?」
「いる」
アオイは真剣に言った。
「大事だから」
クロエがノートを覗き込む。
「結論は?」
「結論?」
「一週間、研究したんでしょ」
アオイはノートを見つめた。
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
土曜日。
全部のページを、ゆっくりめくる。
同じシバチー。
でも、違うシバチー。
曜日ごとに違う動き。
違う優しさ。
違う笑わせ方。
違う待ち方。
それでも、全部に共通しているものがあった。
来た人を、笑顔で帰そうとしている。
それだけは、どの曜日も同じだった。
アオイはペンを持った。
そして、最後のページに書く。
『一週間の結論』
『シバチーは、曜日で違う』
『でも、どのシバチーも、誰かを笑顔で帰そうとしている』
『だから、全部シバチー』
そこで、アオイは少し止まった。
それから、最後にもう一行書いた。
『でも、土曜日のシバチーは、私を見つけてくれたシバチー』
クロエは、その文字を見て何も言わなかった。
レイカも、ふざけなかった。
夕方の風が、赤い風船を揺らす。
アオイはノートを閉じた。
ヘッドホンは、まだ耳を覆っている。
でも、今日のパークの音は、ちゃんと残っていた。
子どもたちの笑い声。
風船のこすれる音。
スタッフの慌てた声。
レイカの笑い声。
クロエの小さなため息。
そして、シバチーの声のない手の振り方。
全部、ちゃんと。
アオイの中に残っていた。
*
シャイニードリームランドを出て、駅へ向かう途中。
アオイは、ふと足を止めた。
少し先に、見覚えのある男子がいた。
クラスは違う。
名前は、まだ知らない。
でも、何度か見たことはある。
廊下で。
校門の近くで。
体育館の前で。
その男子は、何かを考え込むように歩いていた。
少しだけ猫背で。
困ったように眉を寄せて。
人にぶつかりそうになると、慌てて一歩引いて、先に道を譲る。
アオイは、赤い風船の紐を握りしめた。
近づく前に、一度止まる。
相手を見る。
困ったら固まる。
でも、ちゃんと手を伸ばす。
アオイの胸が、小さく鳴った。
「アオイ?」
クロエが呼ぶ。
アオイは答えなかった。
少しだけ歩き出す。
その男子の方へ。
レイカが小声で言う。
「え、なに?」
クロエも黙ってついてくる。
男子が、こちらに気づいた。
目が合う。
その瞬間、男子は分かりやすく固まった。
アオイは、その固まり方を見て、少しだけ笑いそうになった。
やっぱり。
まだ、やっぱりとは言えない。
でも。
アオイは男子の前で足を止めた。
黒いヘッドホンの奥で、心臓の音が少しうるさい。
けれど、逃げなかった。
「ねぇ」
アオイは、柔らかく声をかけた。
男子は目を丸くする。
「え、俺っすか?」
その声を聞いた瞬間、アオイは少しだけ息を止めた。
思っていたより、普通の声だった。
少し高くて、少し慌てていて、優しそうで。
シバチーからは、聞こえなかった声。
アオイは小さくうなずく。
「うん」
男子はますます困った顔をした。
「えっと……何か、用っすか?」
クロエが少し後ろで目を細める。
レイカは完全に面白がっている顔だった。
アオイは、赤い風船を胸元に寄せた。
「名前、聞いてもいい?」
男子は、また固まった。
「名前、っすか?」
「うん」
「俺の?」
「うん。ちゃんと、知りたくて」
その言葉を聞いて、男子は一瞬だけ視線を泳がせた。
困っている。
でも、ちゃんと答えようとしてくれている。
それは、少しだけ見覚えのある間だった。
男子は少し背筋を伸ばした。
それから、ぎこちなく言う。
「……高瀬ハヤトっす」
「高瀬、ハヤト」
アオイは、その名前を小さく繰り返した。
名前をつけたら、何かが変わってしまう気がした。
でも、今日は知りたかった。
目の前の人の名前を。
高瀬ハヤトは、まだ戸惑っている。
「そっちは……柳生さん、っすよね」
アオイは少し驚いた。
「知ってるの?」
「え、まあ。同じ学校っすし」
「クラス、違うよ」
「まあ、違うっすけど」
高瀬は気まずそうに頬をかいた。
アオイは少しだけ笑う。
「そっか」
「はい」
短い沈黙。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
アオイは赤い風船を見上げる。
それから、もう一度高瀬を見る。
「私、アオイ」
「え?」
「柳生アオイ」
「知ってるっす」
「でも、ちゃんと言いたくて」
高瀬は少し困ったあと、小さく頷いた。
「……柳生さん」
「うん」
アオイは少しだけ笑った。
高瀬は、その笑顔を見て固まった。
どうして固まったのかは、アオイには分からなかった。
でも、嫌がっているようには見えなかった。
ただ、少しだけ困っていた。
アオイは風船の紐を握り直す。
「また、学校で」
高瀬は一拍遅れて頷いた。
「はい。また、学校で」
アオイは小さく手を振った。
高瀬も、少しだけ手を上げた。
その手の振り方は、ほんの少しぎこちなかった。
アオイは、それを見て、胸の奥が少しあたたかくなった。
*
高瀬と別れて、三人は駅へ向かって歩き出した。
レイカは我慢できない顔をしている。
「え、今の誰?」
「同じ学校の人」
「いや、それは分かったけど。アオイから男子に話しかけたの、初めて見たんだけど」
「そうかな」
「そうだよ」
クロエは黙っていた。
でも、視線は少し鋭かった。
「名前、聞きたかったんだ」
アオイは言った。
「ちゃんと、知りたくて」
レイカがにやにやする。
「それ、シバチーにも言ってなかった?」
アオイは少しだけ赤くなった。
「言ったかも」
「へぇ」
「なに?」
「いや、なんでもー」
クロエが静かに言う。
「アオイ」
「うん」
「無理はしないで」
アオイはクロエを見た。
心配している顔だった。
いつものように少し不器用で、少し怖くて、でも優しい顔。
アオイは小さくうなずく。
「うん。無理はしない」
そして、少しだけ考えたあと、言った。
「でも、ちゃんと知りたいことは、増えたかも」
クロエはため息をついた。
「増えるんだ」
「うん」
レイカが笑う。
「研究第二巻?」
アオイは赤い風船を見上げた。
夕方の空に、赤い色が浮かんでいる。
シバチーの赤い帽子みたいに。
あの日の風船みたいに。
今日の風船みたいに。
「まだ、第一巻でいいかな」
「続くんだ?」
「うん」
アオイは、少しだけはっきりとうなずいた。
「続けたい」
ヘッドホンは、まだ耳を覆っている。
でも、今日のパークの音も。
高瀬ハヤトの声も。
ちゃんと、アオイの中に残っていた。
アオイはノートの最後に、小さく書き足す。
『シバチー研究記録 第一巻』
『閉じない』
『来週へ続く』
そして、その下にもう一行。
『高瀬ハヤト』
『少し困りやすい』
『手の振り方が、少しだけ似ている』
レイカがそれを覗き込んで、目を丸くした。
「え、何に?」
アオイはノートを閉じた。
少しだけ照れたように笑う。
「まだ、内緒」
クロエがその横顔を見つめる。
何か言いかけて、やめた。
赤い風船が、夕方の空にふわりと揺れる。
アオイはそれを見上げながら、静かに歩き出した。
もう一度、あの場所へ行くために。
もう一度、笑顔で帰るために。
そして、名前を知ってしまった誰かのことを、もう少しだけ知るために。
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