金曜日、少しだけ悲しい
第5話 金曜日のシバチーは、少しだけかなしい
金曜日の朝。
柳生アオイは、教室の机にノートを広げていた。
『シバチー研究記録 第一巻』
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
そこまでの欄は、もう埋まっている。
月曜日のシバチーは、帽子を斜めにすると踊った。
火曜日のシバチーは、音が出た。
水曜日のシバチーは、無音なのにたくさん伝えてきた。
木曜日は、シバチーがいなかった。
代わりに、ウルピーがクロエに刺さり、オハナがレイカに刺さり、ライルはマントに絡まっていた。
アオイは木曜日のページを見つめる。
『シバチー、不在』
『ウルピー、一部の人に深く刺さる』
『オハナ、レイカに刺さる』
『ライル、マントに負けかける』
『木曜日は木曜日で危険』
『推しが増えるから』
昨日の帰り道に書いた最後の一行を見て、アオイは少しだけ口元を緩めた。
「おはよー」
レイカが教室に入ってくる。
今日はいつもより機嫌がいい。
理由は、聞かなくても少し分かった。
「レイカ」
「なに?」
「昨日、帰ってからオハナのグッズ見た?」
レイカの動きが止まった。
「……見てないし」
「そうなんだ」
「ちょっとしか見てないし」
「見たんだ」
「ちょっとね。ほんとちょっと。画像検索しただけ」
「何枚?」
「……三十枚くらい」
「多いね」
「少なくない?」
レイカは堂々としていた。
その後ろからクロエが入ってくる。
いつも通りの顔。
いつも通りの歩き方。
いつも通り、冷静そうな目。
ただ、アオイは見逃さなかった。
クロエのスマホケースの隙間に、昨日まではなかった小さなウルピーのシールが挟まっている。
「クロエ」
「なに」
「それ、ウルピー?」
クロエは一瞬だけ固まった。
「違う」
「まだ何も言ってないよ」
「違う」
「ウルピーのシールに見えるけど」
「気のせい」
「気のせいじゃないと思う」
「気のせい」
レイカが口元を押さえて笑う。
「クロエ、昨日から否定の速度だけ上がってる」
「うるさい」
アオイはノートを開いた。
「追記しておくね」
「やめて」
『ウルピー、一部の人の持ち物に侵入開始』
「やめてって言った」
クロエが低い声で言った。
レイカは机に突っ伏して笑っていた。
アオイは少しだけ笑ってから、金曜日の欄へ視線を移した。
まだ空白。
でも、木曜日の空白とは違う。
今日は、いる。
たぶん。
金曜日のシバチーが。
「今日は金曜日だね」
アオイが言う。
レイカがすぐ反応した。
「あ、行くんでしょ?」
「うん。行きたい」
「よし。じゃあ行こ」
クロエは小さくため息をついた。
「最初から決まってるみたいに言わないで」
「行かないの?」
「行くけど」
「ほら」
クロエは反論しなかった。
アオイはノートの金曜日欄に、まだ何も書かれていない空白を見つめた。
月曜日とも、火曜日とも、水曜日とも違う。
木曜日は、いなかった。
じゃあ、金曜日は。
どんなシバチーなんだろう。
アオイの胸が、少しだけ高鳴った。
*
放課後。
三人はシャイニードリームランドへ向かっていた。
アオイは白いシバチーパーカーに黒いヘッドホン。
歩幅は、昨日より軽い。
木曜日の不在を知ってしまったせいか、今日は「会えるかもしれない」ことが、前より少しだけ大きく感じた。
「今日のシバチー、どんな感じだろうね」
レイカが隣で言った。
「月曜がダンス、火曜が音、水曜が無音職人、木曜が不在でしょ?」
「無音職人」
アオイが少し笑う。
「じゃあ金曜は?」
「わからない」
「予想は?」
「……静か、かな」
「水曜も静かだったじゃん」
「うん。でも、水曜日とは違う気がする」
「まだ見てないのに?」
アオイは少し困ったように笑った。
「なんとなく」
「研究者の勘?」
「研究者っていうか……」
アオイはノートを胸に寄せる。
「ちゃんと、見たいだけ」
クロエは横でその言葉を聞いていた。
最初は、ただ危ないと思った。
アオイがシバチーに依存しているように見えた。
今も、心配は消えていない。
でも、月曜日から木曜日までを一緒に見て、少しだけ分かってきた。
アオイは、ただシバチーを追いかけているわけではない。
閉じた世界の外に、もう一度手を伸ばすために、名前をつけようとしている。
研究、と。
追跡ではない、と。
言い訳のように。
お守りのように。
レイカが突然、片足を上げた。
「見て、オハナキック」
「危ない」
クロエが即座に言った。
レイカはふらついた。
「おっと」
「ほら」
「昨日のオハナ、軸ブレてなかったんだけどなー」
「マスコットの真似を路上でしないで」
「クロエだって昨日、ウルピーの手の振り方真似してなかった?」
「してない」
「してたよ。こう、ちょっと気取った感じで」
「してない」
アオイは二人を見て、ノートに書こうか少し迷った。
そして、やめた。
クロエに怒られそうだったから。
*
金曜日のパークは、木曜日より少しだけ人が多かった。
週末前の、どこか浮いた空気がある。
明日を待っているような顔の子ども。
少し疲れた顔の親。
帰る時間を気にしながらも、まだ帰りたくなさそうな家族。
時計塔の前の広場には、夕方の光が落ちていた。
アオイは、ゆっくりと広場へ入った。
赤い帽子。
白いパーカー。
黒柴の無表情。
シバチーがいた。
アオイの足が止まる。
「いた」
声が、自然にこぼれた。
レイカが笑う。
「よかったね。今日はルーありカレーだ」
「うん」
アオイは小さくうなずいた。
「今日は、ちゃんとカレー」
「その言い方もどうなの」
クロエが言った。
けれど、アオイはすぐに黙った。
広場の中央にいるシバチーを見つめる。
金曜日のシバチーは、動いていなかった。
正確には、動いている。
でも、動きが小さい。
月曜日のようなキレのあるダンスではない。
火曜日のような音もない。
水曜日のような見えない壁も、見えないロープもない。
ただ、そこに立っている。
子どもたちの前で、少しだけ体を傾ける。
手を伸ばす。
振り返る。
それだけ。
それだけなのに。
アオイは、なぜか目を離せなかった。
「……静かだね」
レイカが小声で言った。
クロエも頷く。
「水曜とは、また違う」
「うん」
アオイはノートを開かなかった。
開けなかった。
シバチーは、小さな女の子の前にしゃがんでいた。
女の子は、何かを言いたそうにしている。
けれど、言葉が出ないようだった。
母親がそばで少し困った顔をしている。
シバチーは急かさなかった。
首をかしげるでもない。
大げさに笑わせるでもない。
ただ、女の子の前で、少しだけ待った。
待っている、ということが、ちゃんと分かる間だった。
短すぎない。
長すぎない。
でも、確かにそこにある間。
女の子が、小さく手を上げた。
シバチーは、その手に向かってゆっくり手を伸ばす。
触れる少し前で止める。
女の子が迷っていることに気づいたみたいに。
それから、シバチーは自分の胸に手を当てた。
少しだけ頭を下げる。
まるで、言葉の代わりに「ここにいるよ」と言っているみたいだった。
女の子が、ほんの少し笑った。
その瞬間、シバチーは大きく喜ばなかった。
ただ、少しだけ手を振った。
小さく。
でも、とても丁寧に。
アオイの胸が、きゅっと締めつけられた。
「……今日のシバチー」
アオイは小さく言った。
「少しだけ、かなしい」
レイカがアオイを見る。
「悲しい?」
「うん。悲しいっていうか……」
アオイは言葉を探した。
「泣いてないのに、泣いてるみたい」
クロエは何も言わなかった。
その表現は、少しだけ分かる気がした。
金曜日のシバチーは、笑わせようとしている。
でも、笑わせるために明るく振る舞っているわけではなかった。
そこにいる。
待っている。
手を振る。
それだけで、何かを伝えている。
その静かさが、少し痛かった。
シバチーは女の子から少し離れると、今度は小さな男の子の前で、わざとつまずいた。
転ぶ。
けれど、すぐには立たなかった。
月曜日なら、勢いよく立ち上がって踊っていたかもしれない。
火曜日なら、かわいい音が鳴ったかもしれない。
水曜日なら、見えない何かに引っ張られたように見せたかもしれない。
でも、金曜日のシバチーは、少しだけ間を空けた。
転んだまま、床に手をつく。
顔は変わらない。
表情はない。
それなのに、少し痛そうに見えた。
男の子が心配そうに近づく。
シバチーはその気配に気づくと、ゆっくり顔を上げた。
そして、大丈夫、と言う代わりに、片手を上げる。
男の子が笑った。
シバチーは、そこではじめて立ち上がった。
レイカが小さく言う。
「今の、すごくない?」
「うん」
クロエが答える。
「間が、すごい」
「間?」
「転んでから、立つまでの間」
レイカは少し考えてから、シバチーを見た。
「なんかさ……今日のシバチー、動きしつこくない?」
「言い方」
クロエが即座に言った。
「いや、悪口じゃなくて!」
レイカは慌てて手を振る。
「指先とか、背中とか、立ち上がるまでの間とか、全部ちゃんと意味ある感じ。作画カロリー高いやつ」
「作画カロリー」
アオイは小さく繰り返した。
それから、シバチーを見つめる。
「……しつこいくらい、伝えようとしてるのかも」
クロエがアオイを見る。
「アオイが言うと、急に綺麗になるのずるい」
アオイは少しだけ照れた。
「そうかな」
「そう」
アオイはやっとノートを開いた。
でも、すぐには書けなかった。
書くと、少し違ってしまう気がした。
それでも、忘れたくなくて、ゆっくりペンを動かす。
『Friday』
『言葉がない』
『音もない』
『でも、うそがない』
『転んだあと、すぐ立たない』
『待ってくれる』
『動きのひとつひとつが、丁寧』
『少しだけ、かなしい』
『でも、やさしい』
最後の一行を書いた時、アオイは少しだけ息を吐いた。
金曜日のシバチーが、こちらを向いた。
正確には、広場を見回しただけかもしれない。
でも、アオイはその瞬間、ノートを閉じた。
「……こっち、見た?」
レイカが言う。
「見たかも」
アオイは小さく答えた。
クロエが横目で見る。
「今日は隠さないんだ」
「隠してたわけじゃないよ」
「昨日も隠してた」
「昨日は……ちょっと、恥ずかしかっただけ」
シバチーが、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
ぽてぽて、というより、静かに。
足音まで置いてきたみたいに。
アオイはノートを胸元に抱えた。
シバチーはアオイの前で止まった。
何も言わない。
何もしない。
ただ、少しだけ首を傾ける。
アオイは、その沈黙に困らなかった。
不思議だった。
いつもなら、沈黙は怖い。
何を考えているのか分からない人の前にいると、胸が苦しくなる。
でも、シバチーの沈黙は違った。
責めてこない。
急かしてこない。
ただ、そこにある。
アオイは小さく息を吸った。
「こんにちは」
シバチーは、ゆっくり手を振った。
アオイも手を振り返す。
それだけだった。
それだけなのに、少し泣きそうになった。
レイカが横で小声になる。
「何この空気」
クロエも小声で返す。
「分かんないけど、茶化しづらい」
シバチーはアオイの持っているノートを見た。
アオイは少しだけ迷った。
でも、今日は隠さなかった。
「これ、研究ってことにしてるの」
シバチーは動かない。
「追いかけてるとかじゃなくて……ちゃんと、知りたくて」
シバチーは、ゆっくり頷いた。
そして、自分の胸に手を当てる。
次に、アオイを指さす。
それから、広場を指さす。
最後に、両手を小さく広げた。
言葉はない。
でも、アオイには、なんとなくこう見えた。
ここにいるよ。
アオイは何も言えなかった。
代わりに、年パスの入ったカードケースを少しだけ握った。
「……うん」
声が、小さく震えた。
「また、来るね」
シバチーは、深く頷いた。
それから、ゆっくり背を向けた。
背中が、何かを言っているように見えた。
ありがとう。
さよなら。
大丈夫。
またね。
どれでもあるようで、どれでも足りない。
アオイは、その背中を見つめていた。
*
帰り道。
三人は、いつもより少し静かだった。
レイカも、今日はすぐには騒がなかった。
クロエも、ウルピーの話をされないように警戒しているのか、黙って歩いている。
アオイはノートを開いたまま、歩きながらページを見ていた。
『Friday』
『金曜日のシバチーは、少しだけかなしい』
『でも、そばにいる』
『「大丈夫」じゃなくて、「ここにいるよ」みたいだった』
アオイはその一行を見つめた。
大丈夫。
その言葉は、少し難しい。
大丈夫じゃない時に言われると、苦しくなることがある。
大丈夫になれない自分を、責められているように感じることがある。
でも、ここにいるよ、なら。
それなら、少しだけ息ができる。
「今日のシバチーさ」
レイカがぽつりと言った。
「うん」
「なんか、映画みたいだった」
「映画?」
「古いやつ。音少ないやつ。白黒っぽいやつ」
クロエが少し驚いたようにレイカを見る。
「意外とちゃんと見てたんだ」
「失礼じゃない?」
「失礼だった」
アオイは少し笑った。
「映画みたい……分かるかも」
レイカは照れ隠しのように髪をいじる。
「まあ、難しいことは分かんないけど。今日のシバチーは、なんか静かに刺してきた」
「静かに刺す」
クロエが言う。
「物騒だけど、ちょっと分かる」
アオイはノートの最後に一行を書き足した。
『金曜日は、静かに刺さる』
「また変なこと書いてる」
クロエが覗き込んだ。
「変かな」
「変。でも、今日は合ってる」
アオイは少しだけ嬉しそうにした。
そして、次の欄を見る。
土曜日。
空白。
でも、その空白だけは、他の曜日と少し違って見えた。
あの日。
赤い風船をくれたシバチー。
何も言わずに、隣にいてくれたシバチー。
泣かせたのに、少しだけ笑わせてくれたシバチー。
アオイは、ノートの土曜日欄にそっと指を置いた。
「明日は?」
クロエが聞く。
アオイは少しだけ黙った。
答えは決まっていた。
でも、口に出すと胸が少し熱くなった。
「行きたい」
レイカが笑う。
「だと思った」
「土曜日のシバチーを、ちゃんと見たい」
アオイはノートを閉じた。
ヘッドホンは、まだ耳を覆っている。
でも、今日のシバチーの手の振り方は、ちゃんと心に残っていた。
言葉はなかった。
声もなかった。
それでも。
ちゃんと、届いていた。
アオイはノートの最後に、いつものように一行を書いた。
『Next:Saturday確認』
そして、その下に、小さく書き足す。
『あの日のシバチーに、会えるかもしれない』
その文字は、今日いちばん丁寧だった。
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