5. 舵の取り方くらい
目が覚めた時、天井が見えた。
木の板を組んだ、古い天井だった。継ぎ目に錆が滲み、どこかで風が鳴っている。体の下にあるのは簡素な寝台で、毛布は薄いが清潔だった。揺れている。ここは建物ではない、と少女はすぐに気づいた。艇の中だ。しかし自分が乗ってきた艇ではない。もっと古い、もっと手狭な、しかしどこか不思議な落ち着きのある空間だった。
ランプの光が揺れている。
天井の錆の模様を眺めながら、少女は自分の体の状態を確かめた。左腕に包帯が巻かれている。手当ては丁寧で、巻き方に無駄がない。上着は脱がされ、替えの布が肩にかけられていた。誰かが、きちんと世話をしてくれた。
「気がつきましたか」
声がした。
顔を向けると、金髪のおかっぱ頭の青年が、小さな椅子に腰掛けてこちらを見ていた。年は自分とさほど変わらないか、少し下か。整った顔立ちが、ランプの光の中で穏やかに見えた。膝の上に開いた本があったが、少女が目を覚ましたことに気づいた瞬間、それを静かに閉じた。ずっと傍にいてくれたのだとわかった。
「ここは?」
「僕たちの艇の中です。ヴェルタの発着塔に停泊してます」
少女は起き上がろうとした。左腕に鋭い痛みが走り、思わず顔が歪む。
「無理しないでください。左腕の切り傷が深い。
「……あなたが手当てを?」
「はい。一通り教えてもらったので」青年は少し困ったような顔をした。「ちょっと乱暴な教え方でしたけど」
「教えてくれた、その人がってことかしら」
「教えてくれた人もですが、特に教え方が、です。本人は丁寧なつもりらしいんですけど」
少女は薄く笑いかけ、しかし笑う体力もまだ戻っていないことに気づいた。
「……その方は?」
「今は甲板にいますよ」青年は立ち上がり、水の入った
少女は椀を受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。それだけで、少し頭が冷えた。
「名前を聞いてもいいですか」
「ゼフィル・ピットです」
「私はレイラ・ク……」少女は一瞬止まった。「レイラ、です」
ゼフィルは姓を聞き流した。聞かない方がいい事情がある人間を、この艇の傍にいると自然に学んでいた。
「話がしたいんです。その方と」
「できますよ。ただ」ゼフィルは出口の方へ目をやった。「ちょっと癖があるので。驚かないでくださいね、あと、言葉通りに受け取らない方がいいですから」
「言葉通りに?」
「言ってることと、やることが、大体逆なんです」
甲板に出ると、夜だった。
ヴェルタの街明かりが水路に反射して揺れている。発着塔の上層からは他の艇の推進音が低く響き、水路を行き交う夜の小舟が、ランプの光を揺らしながら橋の下をくぐっていく。潮と油と石畳が混ざり合った、この街特有の匂いが、夜風に乗って流れてきた。
空は、晴れていた。
南の空には、昼間見えた影はもうない。しかし少女には、それが安心できることとは思えなかった。ただ夜の闇に紛れているだけだと、体が知っていた。あの影の数を、あの群れの密度を、自分は誰より近くで見てきた。
アルバートは甲板の端に腰を下ろし、夜空を眺めていた。
膝の上に酒瓶。背中はこちらに向いている。白髪の混じる黒髪が夜風に揺れ、仕立ての良い上着の背中が、ランプの光の中に静かに浮かんでいた。少女が甲板に出てきた足音を聞いても、振り返らなかった。
少女は近づき、アルバートの斜め後ろで立ち止まった。
夜空を見上げているその横顔を、少し見た。眼帯。無精髭。とろんと垂れた目の端。昼間、広場で自分を受け止めてくれた男と、同一人物とは思えないくらい、ただの疲れた中年男に見えた。
「……助けていただきました。ありがとうございます」
「ん、ゼフィルが手当てしたんだよ。お礼なら彼に」
「誘導信号を出してくださったのはあなたでしょう。もちろん、彼にもお礼は言いましたけど」
「たまたまそのへんにいただけだね。制御盤も、たまたま触れる場所にあったし。全部たまたまだよ」
「たまたまにしては、ずいぶん正確な信号でした」
「……まあ、勘がよかったんだろうな、その日は。誰にでもそんな日があるさ」
少女は少し黙った。それから、息を整えるように一度目を伏せ、また顔を上げた。
「フライハイトという名前に、聞き覚えがありますか」
アルバートは答えなかった。酒瓶を傾け、夜空を見上げる。
「帝国飛空艇団の、元艦長。"空棺のアルバート"。彼のファミリーネーム、フライハイト……捜していました」
「奇特な趣味だな。そんな人間、捜して何になるんだい」
「重要なことなんです」
少女の声が、かすかに変わった。柔らかくはなかったが、怒りでもなかった。ただ、揺るがない、という種類の声だった。
「帝国が、竜を兵器として運用するための魔導装置を開発しています。私はその輸送任務中に、艇団を全員失いました。竜たちは人間の思惑なんて………お見通しだったようで」
アルバートはまだ振り返らなかった。
「仲間が、全員死にました」
一言一言を、確かめるように言った。感情を抑えているのではなく、感情を正確に言葉にしようとしている、という言い方だった。泣きながら訴えるのでも、怒りをぶつけるのでもなく、ただ事実を、事実として伝えようとしている。
それが少女の、少女なりの誠実さだった。
「その装置を帝都に持ち帰れば、帝国は竜の群れを兵器として使えるようになります。どんな街も、どんな国も、竜の群れの前には無力です。私はそれを止めたい」
少女は唇を引き結んだ。
「………君はその任務を請け負ったときから、それを帝国の手の届かないどこかに運ぶつもりだったのかい?」
「はい、私含め、私の仲間たちは最初からそのつもりでした」
「だがその仲間を
何も答えず、少女は俯き、そしてコクリと首を縦に振る。
「一人では、どうにもならなくて」
その言葉だけが、かすかに揺れた。
少女は自分でも気づいていた。自分がどれほど無力かを。帝国の騎士の資格を持ち、操舵の訓練を積んできた。それでも仲間を守れなかった。艇団を失い、任務に失敗し、見知らぬ街に不時着して、今こうして見知らぬ男の艇の甲板に立っている。それが今の自分の全てだった。
だから少女は、諦めなかった。
無力だからといって、諦める理由にはならない。仲間が死んだからといって、止まる理由にはならない。止まれば、次に死ぬのは仲間ではない誰かだ。知らない街の、知らない人々だ。それだけは、嫌だった。
「あなたなら知っているはずですよね」少女は続けた。「帝国が昔から竜の兵器化を画策していたことを。あなたが艇団を去った理由も……」
「さあ。知らんなぁ」
アルバートは気の抜けた声で言った。
「俺が艇団を去ったのは、もっとうまい酒が飲みたかったからだよ。帝都の酒は高いくせに薄い。その点この街の安酒は、安いのにちゃんと効く。合理的だろ」
「……嘘をついていますね」
「嘘じゃない、本当にこの街の酒はうまい。飲んでみるかい? 左腕に障るかもしれんが」
「兵器化の計画を知っていたはずです」少女は引かなかった。「知っていて、反対して、それで──」
「お嬢ちゃん」
アルバートが、初めて立ち上がった。
ゆっくりと振り返る。酒で
昼間の、管制室での声と同じものが、彼女の目の奥に一瞬だけ宿り、そしてすぐに消えた。
「俺に何を期待してるんだい」
「……力を貸してほしいんです」
「俺は今、引退したお疲れ気味のおっさんだぞ。期待値が高すぎやしないか」
「あなたしかいないんです」
「世界は広いぞ。もっと若くて元気な人間が──」
「帝国の竜兵器化計画を知っていて、それに抗おうとした人間が」少女は一歩踏み出した。左腕が痛んだが、構わなかった。「私が調べられた限りでは、あなただけでした」
沈黙があった。
波の音が遠くに聞こえた。水路の水が、発着塔の脚を叩く音。どこか上層の艇のエンジンが、低く唸っている。
アルバートは頭を掻いた。盛大に、面倒くさそうに。それから空を見上げ、また頭を掻いた。
「……なんで俺のとこに来るかな、まったく」
「フライハイトさん」
「やめてくれその呼び方、背中がむずむずする」
「では何と呼べば」
「アルさんでいいよ。みんなそう呼ぶんだ」
少女は一瞬だけ面食らい、それでも引かなかった。
「……アルさん。お願いします」
アルバートはしばらく黙っていた。夜空を見上げ、酒瓶を見て、また夜空を見た。空には何もない。しかし彼の目は、そこに何かを見ていた。少女には見えない何かを、ずっと見ていた。
やがて、深く息を吐いた。
「俺はな、嬢ちゃん」
「はい」
「そういう、国がどうとか、兵器がどうとか、大きい話が、本当に苦手なんだよ」
「……でも」
「苦手なの。心底。血圧上がるし、面倒くさいし、
少女は黙って続きを待った。
「だから」アルバートは酒瓶を甲板に置いた。「俺がお前にしてやれることは一つだけだ」
「……何ですか」
「舵の取り方を覚えて帰りなさい」
少女の表情が、かすかに動いた。
「お前の操舵、あの状況でよく持たせたとは思うよ、本当に。でも基礎が荒い。右腕一本で誘導信号を追えたのは運が良かっただけだ。あれじゃ竜の群れの中じゃ三秒で落ちる」
アルバートは
「明日の朝、左腕が動くようになったら操舵室に来い。基本だけは叩き込んであげる。……それだけだ。それ以上は俺には関係ない」
「帝国の兵器については」
「知らんって」
「竜の群れがこの街に向かってきたら」
アルバートは足を止めた。
振り返らなかった。少しだけ間があった。夜風が吹き、水路の水面が揺れた。
「……君が帰るまでに、来なきゃいいな」
「それは」
「おやすみ」
それだけ言い、アルバートは操舵室の扉を開けて中へ消えた。
少女は甲板に一人残された。
足元に、アルバートが置いていった酒瓶があった。中身がまだたっぷりと残っていた。
ゼフィルがいつの間にか後ろに立っていた。
「……あの人は」少女は振り返らずに尋ねる。「本当に手伝うつもりはないんですか」
ゼフィルはしばらく考えてから、静かに答えた。
「さあ。でも」
「でも?」
「酒瓶、置いていきましたよね」
少女はもう一度、甲板に置かれた酒瓶を見た。
「あの人が酒を手放すのは」ゼフィルは穏やかに続けた。「本当に大事なことを考える時だけなんです」
風が吹いた。水路の水面が揺れ、街明かりが細かく砕けて散った。
少女は夜空を見上げた。南の空は、静かだった。静かすぎるくらいに。
しかし少女は知っていた。
あの影はまだ、そこにいる。
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