第40話 帰る船へ返す灯り

 黒い導灯が、満潮の海へ向かって回り始めた。


 灯室の潮硝子が黒く染まる。


 三重の反射環が軋み、黒い光を海霧へ投げる。


 外では、船の鐘がいくつも鳴っていた。


 カン。


 カン。


 カン。


 霧の中で帰り道を探す船たちの声。


 それが、黒い導灯の音に飲まれかけている。


 ごぉぉん。


 灯台の本芯が脈打つ。


 黒い月灯が、導灯本芯へ食い込もうとしていた。


 完全に入れば、北方灯台は黒潮灯台になる。


 海に出た船は、港ではなく黒い港へ導かれる。


 岩礁へ。


 霧の奥へ。


 戻れない場所へ。


「本芯、反射環、潮硝子。三つ同時に戻す」


 リーネは、震える手で潮灯を掲げながら言った。


 顔色は悪い。


 鎖に縛られていたせいで足元も不安定だ。


 それでも、彼女の目は灯台守のものだった。


「導灯本芯だけ戻しても、反射環が黒ければ光は歪む。潮硝子が黒ければ、海へ出る時に偽港灯へ変わる」


「つまり、全部やるしかない」


 ミリアが反射環の根元で工具を構える。


「職人泣かせの無茶振り、嫌いじゃないよ」


 ノインは点検灯を掲げ、灯室の壁一面を見ていた。


「潮硝子の黒糸、左外周から右上へ流れています! 反射環の回転と同期しています!」


「同期してるなら、反射環をずらせば硝子の黒糸も乱せる!」


 ミリアが叫ぶ。


「ノイン、合図ちょうだい!」


「はい!」


 セラはヴァルハインの前に立っていた。


 短剣を構え、黒蝋燭から伸びる火を警戒している。


「あなたの相手は私」


 ヴァルハインは愉快そうに目を細めた。


「辺境の村長代理が、黒燭灯術師を止めるか」


「肩書きで灯りは守れないって、何度も見てきたから」


「面白い」


 ヴァルハインの黒蝋燭が燃え上がる。


 赤黒い火が細い刃になり、セラへ向かって走った。


 セラは真正面から受けない。


 灯室の狭い床を使い、反射環の支柱を盾にしながら、黒火の軌道をずらす。


 彼女が守っているのは、自分だけではない。


 俺たちが作業する時間だ。


 ポルカは俺の肩で、ふらふらと立ち上がった。


「ぽう……!」


「ポルカ、無理しすぎないでください」


「ぽう!」


 無理をする気しかない返事だった。


 黒い月灯は、月守狐から奪われた光の残滓だ。


 ポルカにとって、見過ごせるものではないのだろう。


 俺はランタンを導灯本芯へ向けた。


 リーネが隣に立つ。


 彼女の潮灯は小さい。


 だが、その光は灯台のどの灯りよりも、この場所を知っていた。


「ルカさん」


「はい」


「導灯本芯は、強い火を入れれば戻るわけじゃない。海へ返す方向を間違えたら、光そのものが船を惑わせる」


「どうすれば?」


「下層から来た帰港灯路を、まず受ける。次に霧鐘の警告音と合わせる。最後に、港へ戻る船へ返す」


 王都の大聖灯と同じだ。


 大きな灯りは、小さな灯りを受け取って返す。


 ただ強く照らすだけでは、人を導けない。


 俺は目を閉じた。


 白帆宿の帰り灯。


 潮見坂の灯柱。


 灯台守小屋の潮灯。


 下層帰港灯路。


 中層霧鐘。


 そのすべてが、細い線でここへつながっている。


 そして、外の海には船がいる。


 帰ろうとしている人たちがいる。


「始めます」


 俺はランタンの火を細く伸ばした。


「【小さな灯】」


 金色の光が、リーネの潮灯へ触れる。


 潮灯が青白く応える。


 その光を、二人で導灯本芯へ入れた。


 黒い月灯がすぐに反応する。


 赤黒い火が本芯の中で暴れ、俺たちの光を飲もうとした。


 冷たい。


 深い。


 海の底へ引きずり込まれるような感覚。


 霧の奥から声が聞こえる。


 港は黒い。


 灯りは黒い。


 帰る場所などない。


 船はみな迷う。


 人は灯りを見誤る。


 なら、こちらへ来い。


 黒い港へ。


「違う」


 リーネが、震える声で言った。


 彼女の潮灯が強く揺れる。


「灯台は、船を諦めさせるためにあるんじゃない」


 黒い月灯が彼女の声を押し潰そうとする。


 俺はランタンの光を支えた。


 リーネは続ける。


「霧が濃くても、波が荒くても、帰れる方向を示すためにあるの」


 その言葉に、下層帰港灯路が反応した。


 足元から青白い光が上がってくる。


 中層霧鐘が澄んだ音を鳴らす。


 ごぉん。


 今度の音は黒くない。


 岩礁を避けろと告げる、正しい霧鐘の音。


「ルカさん、今!」


「はい!」


 俺は導灯本芯へ光を押し込むのではなく、流れを作った。


 下から受ける。


 鐘と合わせる。


 海へ返す。


 導灯本芯の中に、金色と青白い螺旋が生まれた。


 黒い月灯が押し返される。


 ヴァルハインの目が細くなった。


「やはり、お前たちは厄介だ」


 彼が黒蝋燭を振る。


 黒火が本芯へ直接伸びた。


 セラが間に入ろうとするが、距離がある。


 その前に、ポルカが飛んだ。


「ぽううっ!」


 小さな白い体が黒火の前に立ちはだかる。


 白銀の月明かりが、黒い月灯とぶつかった。


 ポルカの体が吹き飛ばされそうになる。


「ポルカ!」


 ミリアが叫ぶ。


 だが、ポルカは踏ん張った。


 小さな爪で床を掴み、尻尾をいっぱいに広げる。


「ぽううう!」


 白銀の光が黒火を押し返す。


 その瞬間、黒い月灯の中に混ざっていた白銀の火が震えた。


 汚されていた月守狐の光が、ポルカの呼びかけに反応したのだ。


 俺はそこへ光を伸ばした。


「帰りましょう」


 黒い月灯の奥へ語りかける。


「あなたは、船を迷わせるための光じゃない」


 白銀の火が揺れる。


 ポルカが鳴く。


「ぽう!」


 帰れ。


 そう言っているようだった。


 黒い月灯の一部が、赤黒い火から離れた。


 白銀へ戻る。


 ヴァルハインが舌打ちした。


「余計なことを」


     ◇


 反射環の根元では、ミリアが黒蝋と格闘していた。


 巨大な三重の輪は、灯室の中央を囲むように回っている。


 その角度が少しでも狂えば、導灯の光は海へ正しく届かない。


 しかも今は、黒蝋が回転軸に入り込み、偽港灯を作る角度へ固定しようとしていた。


「ノイン、外周の黒糸!」


「次の回転で右下へ来ます!」


「三、二、一で合図!」


「三、二、一、今!」


 ミリアが灯路針を突き込む。


 黒蝋が跳ねる。


「熱っ……!」


「ミリア!」


「平気!」


 彼女は手を離さない。


「こんな雑な固定で、灯台の反射環を名乗るな!」


 怒り方が完全に職人だった。


 灯路針を回す。


 黒蝋の噛み込みが外れる。


 一つ目の反射環が、本来の角度へ戻った。


 灯室の光が少し変わる。


 黒かった導灯の端に、青白い線が混じった。


「一枚戻った!」


 ノインが叫ぶ。


「でも二枚目、黒化が深いです!」


「なら二枚目も戻す!」


 ミリアは工具を持ち替えた。


 汗で額の毛が張りついている。


 疲れているはずだ。


 でも、目が輝いている。


 灯具を直す時のミリアは、誰よりも強い。


 一方、セラはヴァルハインの黒火を防ぎ続けていた。


 相手は黒燭灯術師。


 まともに受ければ危険すぎる。


 だからセラは、防ぐのではなく逸らす。


 踏み込み、角度を変え、黒火を潮硝子ではなく黒蝋の塊へ当てる。


 ヴァルハインが笑う。


「剣士ではないな」


「村の夜を守ってきただけ」


「十分だ」


 黒火が床を這う。


 セラの足元を狙う。


 彼女は一瞬遅れた。


 黒い蔓が足首に絡む。


「セラさん!」


 俺が叫ぶ。


 だが、セラは短剣を逆手に持ち替え、自分の足元ではなく、蔓を操る黒火の根元を突いた。


 黒火が揺らぐ。


 その隙に彼女は足を抜く。


「こっちは見ないで。灯りに集中」


「でも」


「集中」


 短い言葉。


 迷いを許さない声。


 俺は歯を食いしばり、導灯本芯へ向き直った。


 そうだ。


 ここで俺が乱れれば、灯台全体が黒に引き戻される。


 皆が自分の役目を果たしている。


 俺も、俺の灯りを見る。


     ◇


 導灯本芯の中は、荒れる海のようだった。


 黒い月灯が渦を巻き、青白い帰港灯路を飲もうとしている。


 リーネの潮灯は、そこへ細い道を通していた。


「右へ流して」


 リーネが言う。


「そのまま入れると岩礁側へ曲がる。港の方位は左下」


「はい」


「霧鐘の音と合わせて。鐘が鳴った瞬間に光を返す」


 ごぉん。


 中層霧鐘が鳴る。


 俺はその音に合わせて、光を本芯へ流した。


 金色と青白い光が、本芯の中で形を作る。


 海図のような光。


 岩礁を避け、港へ向かう線。


 黒い導灯がそれを塗り潰そうとする。


 でも、下層帰港灯路が支える。


 白帆宿の帰り灯が支える。


 潮見坂の灯柱が支える。


 外の船の鐘も、かすかに応えている。


 カン。


 カン。


 迷っている船が、こちらの灯りを待っている。


「リーネさん」


「何?」


「この灯台は、あなたの灯りを覚えています」


 リーネの目が少し揺れた。


「父の灯りも、覚えていると思う」


「はい」


 導灯本芯の奥に、古い青白い火があった。


 リーネだけではない。


 歴代の灯台守が、嵐の夜も、霧の日も、火を守り続けた記憶。


 それが、黒い月灯に押し込められている。


「戻しましょう」


「うん」


 リーネは潮灯を両手で握りしめた。


「北方灯台、導灯守リーネ・アルマ。下層帰港灯路、中層霧鐘、最上層海上導灯を再接続します」


 その声に、灯台が応えた。


 床の灯路紋が青白く浮かぶ。


 壁の潮硝子が震える。


 反射環の二枚目が、ミリアの手で本来の角度へ戻る。


「二枚目、戻った!」


 ノインが叫ぶ。


「三枚目、最外周! 黒糸がヴァルハインの黒蝋燭につながっています!」


 ミリアが顔を上げる。


「本人から切らないと無理?」


「はい!」


「じゃあ、セラ!」


「聞こえてる」


 セラはヴァルハインへ踏み込んだ。


 これまで守りに徹していた動きから、初めて攻めへ変わる。


 ヴァルハインが黒火を放つ。


 セラは避けない。


 ぎりぎりで身を沈め、黒火の下をくぐる。


 短剣の柄が、ヴァルハインの黒蝋燭を持つ手首へ向かう。


 ヴァルハインは半歩引く。


 だが、その半歩を、セラは読んでいた。


 踏み込みを変え、足元の黒蝋を蹴る。


 黒蝋の欠片が跳ね、ヴァルハインの視線を一瞬だけ遮る。


 その隙に、セラの短剣が黒蝋燭の根元を打った。


 ぱきん。


 細いひびが入る。


 ヴァルハインの目が細くなった。


「やるな」


「あなたは褒めなくていい」


 黒蝋燭のひびから、白銀と黒の火が漏れる。


 最外周の反射環へ伸びていた黒糸が、一瞬緩んだ。


「今!」


 ノインが叫ぶ。


 ミリアが灯路針を叩き込む。


「戻れ!」


 三枚目の反射環が、ぎぎぎ、と音を立てて動く。


 黒蝋が抵抗する。


 ミリアの腕が震える。


「重い……!」


「ポルカ!」


「ぽうっ!」


 ポルカが最後の力を振り絞り、白銀の光を反射環へ送った。


 黒い月灯の汚れが剥がれる。


 ミリアが叫ぶ。


「動けえええ!」


 反射環が本来の角度へ戻った。


 灯室全体の光が、がらりと変わった。


 黒い導灯の歪みが消え、海へ向かう道がまっすぐになる。


「三枚とも戻りました!」


 ノインの声が震えている。


「本芯、今なら正常導灯火を通せます!」


 リーネが俺を見た。


「ルカさん」


「はい」


「一緒に」


「もちろんです」


 俺たちは導灯本芯へ手をかざした。


 リーネの潮灯。


 俺のランタン。


 ポルカの白銀。


 ミリアが戻した反射環。


 ノインが読み取った潮硝子。


 セラが守った時間。


 全部が一つの作業になっていた。


「【小さな灯】」


 俺の金色が流れる。


「北方灯台、導灯再点火」


 リーネの青白い光が重なる。


 黒い月灯が最後に暴れた。


 黒い港へ来い。


 海は戻さない。


 船は迷う。


 灯りは奪われる。


 その声を、霧鐘の音が押し返した。


 ごぉん。


 澄んだ警告音。


 下層帰港灯路が港の位置を示す。


 潮見坂の灯柱が岩礁を避けろと瞬く。


 白帆宿の帰り灯が、陸の戻る場所を示す。


 そのすべてを導灯本芯が受け取った。


 そして、海へ返した。


 最上層の導灯が、黒から青白い金色へ変わった。


 灯室の潮硝子を通り、光が海霧を裂く。


 一直線ではない。


 船のいる場所へ、港の位置を返すように広がる光。


 黒い偽港灯が、霧の中で次々に消えた。


 外から船の鐘が鳴る。


 カン!


 カン!


 カン!


 今度は迷いの音ではなかった。


 応答。


 見えた、という音。


 帰れる、という音。


 リーネが涙をこぼした。


「届いた……」


「はい」


 俺も息を吐いた。


 北方灯台は、戻った。


     ◇


 しかし、ヴァルハインは倒れていなかった。


 黒蝋燭にひびが入り、黒い月灯の大半を失ったにもかかわらず、彼は静かに笑っていた。


「見事だ」


 セラが短剣を向ける。


「逃がさない」


「逃げるさ」


 ヴァルハインの足元に黒い蝋が広がる。


 ミリアが叫ぶ。


「また黒蝋転移!」


「王都、灯台。二つの大灯を失った。だが、収穫はあった」


 ヴァルハインの目が俺を見る。


「小さな灯火網は、大灯を戻せる。なら逆に、小さな灯火網を黒くできれば、大灯より厄介な黒い網ができる」


「何を……」


「次は大きな灯りではない」


 黒蝋が彼の体を包み込む。


「小さな灯りそのものを狙う」


 背筋が冷えた。


 黒燭商会は、大聖灯や灯台のような大きな灯りを黒くしてきた。


 だが次は、小さな灯りを直接狙う。


 家の灯り。


 店の灯り。


 宿の灯り。


 村の灯り。


 それを黒く染めれば、灯火網そのものが危険になる。


 ヴァルハインは最後に、低く言った。


「帰る場所が多い者ほど、守るものも多い。ルカ・エルネスト」


 黒蝋が弾ける。


 彼の姿は消えた。


 灯室には、ひびの入った黒蝋燭の破片だけが残っていた。


 セラが悔しそうに息を吐く。


「逃げられた」


「でも、灯台は戻りました」


 リーネが導灯本芯へ手を添えた。


 青白い金色の光が、彼女の顔を照らす。


「船も、戻ってくる」


 外では、霧が少しずつ晴れ始めていた。


 黒い海霧の向こうに、船影が見える。


 一隻。


 また一隻。


 灯台の光を頼りに、港へ向きを変えている。


 白帆宿の帰り灯も、遠くで青白く応えていた。


 ポルカが俺の肩で力尽きたように、ぺたりと伏せる。


「ぽう……」


「お疲れさまです」


 ミリアも反射環の根元に座り込み、両手を上げた。


「もう今日は灯具触らない。嘘、触るけど」


 ノインは泣きそうな顔で点検板に記録を書いている。


「北方灯台、最上層導灯復旧。黒潮灯台化阻止。船舶、帰港方向へ転進……」


 セラは窓の外を見ていた。


 その横顔は、少しだけ柔らかい。


 俺は導灯本芯を見上げた。


 灯台は、海を支配する光ではない。


 帰る船へ、帰る道を返す灯り。


 その光が、夜の海へ伸びている。


 けれど、ヴァルハインの言葉が残っていた。


 次は、小さな灯りそのものを狙う。


 俺はランタンを握った。


 守る灯りは増えた。


 帰る場所も増えた。


 だからこそ、まだ終われない。


 北方灯台の光が、黒い霧を押し開いていく。


 その先の海の奥に、一瞬だけ黒い帆のような影が見えた気がした。

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