第41話 港へ戻る船たち

 北方灯台の光が、黒い海霧を裂いた。


 青白く、少し金色を帯びた導灯。


 それは海を支配する光ではなかった。


 迷った船へ、帰る道を返す光だった。


 霧の中から、船の鐘が鳴る。


 カン。


 カン。


 カン。


 一隻。


 また一隻。


 黒い偽港灯へ向かっていた船が、ゆっくりと向きを変えていく。


 岩礁へ吸い寄せられていた船影が、灯台の本当の光を受けて、港の方へ舵を切る。


 灯室の窓からそれを見たリーネは、導灯本芯に手を添えたまま、静かに涙をこぼしていた。


「戻ってる……」


 彼女の声は震えていた。


「みんな、戻ってる」


 灯台守として、ずっと守ろうとしていたもの。


 黒燭に奪われかけたもの。


 それが今、霧の向こうから帰ってくる。


 俺は隣でランタンを下ろした。


 体の力が一気に抜けそうになる。


 黒聖灯の芯に引き込まれた時ほどではないが、灯台の本芯へ光を通す作業は、思った以上に消耗していた。


 肩の上では、ポルカがぺたんと伏せている。


「ぽう……」


「お疲れさまです」


「ぽう……」


 返事も弱い。


 ミリアは反射環の根元に座り込み、工具を抱えたまま天井を見上げていた。


「灯台、すご……」


 疲れすぎて、言葉が短い。


「三重反射環、潮硝子、下層帰港灯路、中層霧鐘、最上層導灯……全部つながってる。何この職人泣かせの巨大灯具」


「直したじゃないですか」


「応急処置ね」


「応急処置で船が戻っています」


「それは……まあ、ちょっと嬉しい」


 そう言いながら、ミリアの口元が緩む。


 職人として、灯りが正しく働く瞬間は何より嬉しいのだろう。


 ノインは点検板に必死で記録を書いていた。


 手が震えている。


 恐怖ではなく、興奮と安堵と疲労が混ざった震えだ。


「北方灯台、最上層導灯の黒化解除。下層帰港灯路、中層霧鐘、最上層導灯の再接続を確認。海上船舶、帰港方向へ転進……」


 彼は書きながら、時々窓の外を見る。


「本当に、戻っている」


「記録に残してください」


 俺が言うと、ノインは頷いた。


「はい。王都にも、沿岸灯務にも、全部報告します。黒燭が何をしたのか。リーネさんが何を守ったのか。あなたたちがどう戻したのか」


「俺たちだけではありません」


「はい」


 ノインは少し笑った。


「小さな灯火網が、です」


 その言い方が自然になってきたことが、少し嬉しかった。


 セラは灯室の入口付近で、倒れたサルヴァを確認していた。


 下層で拘束したはずの灯台長代理は、黒蝋の反動で意識を失っている。


 ヴァルハインに利用され、自分でも灯台を黒く染めることを選んだ男。


 許されることではない。


 だが、今すぐ裁くより先に、やるべきことがある。


「サルヴァは下層に縛ったまま。黒蝋の影響が残っているから、灯りの近くに置きすぎない方がいい」


 セラが言った。


「あとで王都側か沿岸灯務に引き渡す」


「はい」


「ヴァルハインは?」


 その問いに、灯室の空気が少し重くなった。


 俺は床に残った黒蝋の跡を見る。


 ヴァルハインは逃げた。


 王都でも逃げた。


 北方灯台でも逃げた。


 しかも、最後に不穏な言葉を残して。


『次は大きな灯りではない。小さな灯りそのものを狙う』


 大聖灯。


 北方灯台。


 今までは大きな灯りが狙われた。


 でも次は違う。


 家の灯り。


 店の灯り。


 宿の灯り。


 村の灯り。


 誰かの枕元の小灯。


 灯火網を支える、小さな灯りそのもの。


 それが黒く染められたら。


 灯火網は、人々を守る道ではなく、黒燭を広げる道になってしまう。


 胸の奥が冷える。


 セラは俺の顔を見て、静かに言った。


「今は、戻ってくる船を見る」


「……はい」


「次の不安は消えない。でも、今助かった人たちを見ないと、灯りを守った意味まで見失う」


 その言葉に、はっとした。


 セラはいつも、先の危険を見ている。


 でも同時に、目の前の人も見失わない。


 俺は窓の外へ視線を戻した。


 霧の奥に、船影が増えている。


 帰ってくる。


 灯台の光を見て、港へ。


 今は、それを見届けるべきだ。


     ◇


 夜明け前。


 北方灯台の下にある小さな港には、船が次々と戻ってきた。


 大きな商船ではない。


 沿岸漁船。


 小型の運搬船。


 夜霧に巻かれた渡し船。


 船体を岩で擦ったものもあれば、帆が裂けたものもある。


 それでも、戻ってきた。


 白帆宿で倒れた船乗りカイルの仲間たちもいた。


 カイル自身は宿で手当てを受けていたが、仲間の船が港へ入ったと聞くと、傷を押さえながら外へ出てきた。


「馬鹿野郎ども……生きてやがったか」


 口は悪い。


 でも声は震えていた。


 船から降りてきた男たちは、港の石畳に膝をつき、灯台を見上げた。


「黒い港が見えたんだ」


 一人が言った。


「港の灯りだと思って舵を切ったら、霧鐘が鳴った。違う、岩だって分かった」


「そのあと、青白い光が見えた」


 別の船乗りが、灯台を指した。


「あれで帰れた」


 リーネは港まで降りてきていた。


 ふらつく足をセラが支えようとしたが、彼女は首を振り、自分で歩いた。


 船乗りたちはリーネを見つけると、次々に声を上げた。


「リーネ!」


「灯台守!」


「無事だったのか!」


 リーネは一瞬、泣きそうな顔になった。


 でも、すぐに背筋を伸ばす。


「北方灯台は、現在応急復旧状態です。黒燭による汚染が残っています。全船、今夜は港を出ないでください。灯具点検が終わるまで、海へ出るのは禁止です」


 船乗りたちは顔を見合わせ、それから笑った。


「相変わらずだ」


「戻って早々、説教か」


「でも、その声聞くと安心するな」


 リーネの目に、また涙が浮かぶ。


 それでも彼女は、灯台守として指示を続けた。


「怪我人は白帆宿へ。船体を岩で擦った船は、港の東側に寄せて。黒い霧を浴びた灯具は、絶対にそのまま使わないで。隔離して、私か灯火師に見せてください」


「灯火師?」


 船乗りたちの視線が俺へ向いた。


 俺は少し困って頭を下げる。


「ルカ・エルネストです」


 その名を聞いても、王都のようなざわめきは起こらなかった。


 沿岸の人たちには、俺の追放騒ぎなどあまり届いていないのだろう。


 それが少し楽だった。


 だが、リーネがはっきり言った。


「この人たちが、灯台を戻してくれた。白帆宿の帰り灯も、潮見坂の灯柱も、下層帰港灯路も、霧鐘も」


 船乗りたちの目が変わる。


 カイルがにやりと笑った。


「じゃあ、命の恩人だな」


「俺だけでは」


「分かってる。灯りを戻した連中全員に礼を言う」


 カイルはそう言って、ミリアやセラ、ノイン、ポルカにも頭を下げた。


 ポルカは疲れ果てて俺の肩で丸まっていたが、礼を言われると薄目を開けて鳴いた。


「ぽう」


 たぶん、もっと褒めていい、という意味だ。


     ◇


 白帆宿は、夜明けとともに避難所になった。


 怪我人。


 霧に巻かれた船乗り。


 灯台から逃げてきた作業員。


 黒燭商会に脅されて宿場から出られなかった旅人。


 皆が、帰り灯の青白い光の下に集まった。


 女将は泣いている暇もなく、スープを作り、毛布を配り、怪我人を寝かせていた。


 宿の子どもは、窓辺の小灯をせっせと磨いている。


「黒い霧、もう入ってこない?」


 子どもが聞く。


「帰り灯がある限り、簡単には入ってきません」


 俺が答えると、子どもは少し誇らしげに灯りを見た。


「うちの宿、すごい?」


「すごいです」


「灯台とつながってる?」


「はい」


 白帆宿の帰り灯は、北方灯台ともう一度つながった。


 灯台が海の船へ光を返し、白帆宿が陸の帰り道を支える。


 その関係が戻ったのだ。


 女将は帰り灯を見つめ、そっと呟いた。


「夫に見せたかった」


 俺は何も言わなかった。


 ただ、帰り灯の芯を少し整えた。


 灯りは、見せたい人に届くとは限らない。


 それでも、誰かが大切にした灯りは、残った人の道を照らす。


 ガルム爺の月送りの灯を思い出した。


 灯りは、死者を戻すことはできない。


 でも、会いたかった気持ちを夜に沈めないようにしてくれる。


「いい灯りです」


 俺が言うと、女将は涙を拭いて笑った。


「ええ。うちの自慢です」


     ◇


 昼前には、王都と沿岸灯務へ送る報告がまとまった。


 ノインはほとんど寝ずに記録を書き続けている。


 目の下にくまができていた。


 ミリアがそれを見て、点検灯を取り上げる。


「寝なさい」


「でも、記録が」


「記録する人が倒れたら記録が止まる」


「それは……」


「寝なさい」


「はい」


 ノインは素直に白帆宿の椅子へ座り、そのまま数秒で眠った。


 かなり限界だったらしい。


 ミリアも相当疲れているはずなのに、帰り灯と潮灯の構造を見比べている。


「ミリアも寝た方が」


「あとこの反射板だけ」


「その言い方、寝ない人の言い方です」


「職人はみんなそう」


「よくない文化ですね」


「うるさい」


 セラが横から言った。


「ミリア、半刻だけ寝て。起きたら灯具を見る時間を作る」


「……ほんと?」


「ほんと」


「じゃあ寝る」


 あっさりだった。


 セラの使い方がうまい。


 ポルカはすでに暖炉の近くで丸くなっている。


 船乗りたちが珍しそうに見ていたが、ポルカはまったく起きなかった。


 俺も椅子に座ると、急に体が重くなった。


 目を閉じたらすぐ眠ってしまいそうだ。


 だが、その前に確認したいことがあった。


 ヴァルハインが残した黒蝋燭の破片。


 それを隔離した硝子筒が、白帆宿の奥に置かれている。


 俺はセラと一緒にそれを見に行った。


 硝子筒の中で、黒蝋は静かだった。


 だが、完全に死んでいるようには見えない。


「また文字が出ると思う?」


 セラが聞く。


「分かりません。でも、何か残している可能性はあります」


「嫌な置き土産ね」


「はい」


 その時、黒蝋がわずかに震えた。


 俺たちは身構える。


 硝子筒の中で、黒い蝋が細く伸び、文字のような形を作った。


『大灯は戻せる。

 灯台も戻せる。

 ならば次は、戻す者の帰る場所を黒くする。』


 セラの表情が変わった。


 俺の胸が冷たくなる。


 続けて、もう一行。


『ノクスヴェイルに、夜を返す。』


 息が止まった。


 ノクスヴェイル。


 俺たちの村。


 セラの村。


 ミリアの月灯工房。


 ロッテさんのあかり宿。


 ニナの安眠灯。


 リオのランプ。


 月守狐の森。


 小さな灯火網の始まりの場所。


 ヴァルハインは、そこを狙うつもりだ。


 セラが拳を握った。


 声は静かだった。


 だが、冷たく研ぎ澄まされていた。


「すぐ戻る」


「はい」


 俺もランタンを握る。


 守る灯りは増えた。


 王都。


 白帆宿。


 北方灯台。


 でも、最初の帰る場所を失うわけにはいかない。


 黒燭は、小さな灯りそのものを狙い始めた。


 なら、こちらも小さな灯りを守るために戻る。


 白帆宿の帰り灯が、静かに揺れた。


 まるで、行ってこいと背中を押すように。


 俺は窓の外を見た。


 遠く、北方灯台の光が昼の海に薄く残っている。


 帰る船へ道を返した灯り。


 今度は俺たちが、帰る番だった。


 ノクスヴェイルへ。


 すべての始まりの灯火網へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る