第39話 最上層の灯室
最後の螺旋階段は、これまでより狭かった。
壁の潮灯はほとんど消えかけ、足元の石段は黒い霧で濡れている。
上から、黒い光が降っていた。
見上げてはいけない。
分かっているのに、視線が持ち上がりそうになる。
灯台の光は、本来、人を上へ向かせるものだ。
遠くからでも見えるように。
海の上でも迷わないように。
だが、今その光は罠になっている。
見上げた者の帰りたい心を掴み、黒い港へ引きずり込む。
「足元」
セラの声が前から飛ぶ。
「灯りだけを見る」
「はい」
俺はランタンを低く掲げた。
階段の壁に手を添え、一つずつ潮灯を起こしていく。
「【小さな灯】」
ぽっ。
青白い火。
「【小さな灯】」
また一つ。
下層帰港灯路の光が、遠く下から支えてくれている。
中層霧鐘の澄んだ音が、黒い導灯の鼓動を少しだけ押し返している。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
リーネの潮灯。
ここまで起こしてきた灯りが、細い道になっている。
ミリアは俺の後ろで、工具袋を抱えながら息を整えていた。
「最上層、たぶん灯具そのものが大きい。中に入ったら、まず構造を見る」
「はい」
「ヴァルハインがいても、灯具を見る」
「分かっています」
「煽られても、灯具を見る」
「そこまで信用ないですか」
「ルカ、たまに自分を犠牲にすればいけると思うから」
何も言い返せなかった。
セラが前で短く言う。
「それは禁止」
「はい」
ノインも続けた。
「記録上、最上層の海上導灯は巨大な回転反射灯です。中心に本芯、周囲に三重の潮硝子、外周に方位反射板。黒化しているなら、本芯と反射板の両方を押さえられているはずです」
「つまり?」
ミリアが聞く。
「本芯だけ戻しても、反射板が黒いままだと光が歪みます」
「よし、面倒」
ミリアが少し笑った。
怖い時ほど、彼女は灯具へ意識を向ける。
それはきっと、彼女なりの戦い方なのだ。
ポルカは俺の肩でぐったりしている。
下層、中層と月明かりを使い続けたせいで、かなり疲れていた。
「ポルカ、大丈夫ですか」
「ぽう……」
小さく鳴く。
大丈夫、と言っているようで、大丈夫ではなさそうだった。
俺は外套の内側へ手を添え、ノクスヴェイルの月灯工房の火を少しだけ送った。
ポルカの白い毛がふわりと光る。
「ぽう」
今度は少し元気な声だった。
その時。
上から、黒い導灯の鼓動が響いた。
ごぉぉん。
二度目。
階段全体が揺れる。
壁の潮灯が一斉に細くなる。
ノインが顔を青くした。
「あと一度で、満潮の黒灯化が始まります」
「急ぐわよ」
セラが最後の踊り場へ足をかけた。
そこには、重い丸扉があった。
分厚い真鍮と潮硝子で作られた、灯室の扉。
扉の中央には、灯台守の紋章。
波を越える灯り。
だが、その上から黒蝋が幾重にも巻きつき、扉を封じている。
内側から、かすかな声が聞こえた。
「……誰か、いるの?」
リーネの声だった。
弱い。
でも、生きている。
「リーネさん!」
俺は扉に近づいた。
「白帆宿から来ました。下層帰港灯路と霧鐘は戻しました」
少しの沈黙。
それから、扉の向こうで誰かが息を呑む音がした。
「本当に……?」
「はい」
「潮灯を、辿ってくれたのね」
「あなたが残してくれたからです」
扉の向こうで、短く笑うような吐息が聞こえた。
「よかった……」
その声だけで、ここまでの灯りが報われる気がした。
けれど、すぐにリーネの声が硬くなる。
「気をつけて。ヴァルハインが中にいる。導灯の本芯へ、黒い月灯を入れようとしてる」
ミリアが灯路針を構えた。
「開けるよ」
「お願いします」
俺は扉の黒蝋へ光を伸ばした。
「【小さな灯】」
金色の火が、黒い封印の隙間へ入る。
すぐに反発が来た。
王都の黒聖灯で見たものと同じ性質。
月守狐から奪った白銀の光を、黒く汚したもの。
黒い月灯。
それが扉の封印にも混ざっている。
ポルカが震えた。
「ぽう……!」
怖いというより、怒っている。
同族の光を穢された怒りだ。
「無理しすぎないでください」
「ぽう!」
聞く気はなさそうだった。
白い月明かりが扉へ伸びる。
黒い月灯とぶつかり、じりじりと煙を上げた。
ミリアが灯路針を差し込む。
「ルカ、細く! ポルカの光と合わせて!」
「はい!」
俺はランタンの金色を細く絞る。
ポルカの白銀。
俺の金色。
ミリアの灯路針。
ノインの点検灯が、黒い封印の流れを照らす。
「黒蝋の結び目、右下です!」
「見えた!」
ミリアが針を回す。
黒蝋が裂ける。
セラが扉に手をかける。
「押すわよ」
ぎぎ、と重い音が鳴った。
扉が開く。
黒い光が、こちらへあふれた。
◇
最上層の灯室は、海の上に浮かぶ黒い太陽のようだった。
円形の部屋。
壁一面に組まれた巨大な潮硝子。
中央には、人の背丈を超えるほどの導灯本芯。
その周りを三重の反射環が囲み、ゆっくりと回っている。
本来なら、白金と青白い光を海へ投げる灯台の心臓。
だが今は、黒い。
中心の本芯に、赤黒い火が絡みついている。
周囲の反射環には黒蝋が垂れ、回転するたびに黒い光を海へ投げていた。
その光が潮硝子を通り、海霧の中で偽の港灯へ変わる。
部屋の奥に、若い女性が鎖でつながれていた。
短く切った潮色の髪。
額に汗。
手には、小さな潮灯。
灯台守リーネ。
彼女は疲れきっていたが、目だけはまだ折れていなかった。
そして、導灯本芯の前に、黒衣の男が立っている。
ヴァルハイン。
黒布で顔の下半分を覆い、細長い黒蝋燭を手にしている。
その蝋燭の中には、白銀と黒が混ざった嫌な光が揺れていた。
「遅かったな」
ヴァルハインは、こちらを見ずに言った。
「いや、早かったと言うべきか。下層と霧鐘を戻してここまで来るとは、相変わらず小さな灯りを拾うのがうまい」
ミリアが低く唸る。
「あんた、また月守狐の光を……」
「ああ。王都で完全には使い切れなかった残りだ」
ヴァルハインは黒蝋燭を掲げた。
「だが、海の灯台にはちょうどいい。月は潮を呼ぶ。汚した月灯は、海霧とよく馴染む」
ポルカが怒ったように鳴いた。
「ぽうっ!」
「小さな月灯狐も来たか。素材としては弱いが、よく吠える」
「素材じゃない!」
ミリアが叫ぶ。
ヴァルハインは薄く笑う。
「職人娘も同じことを言う。灯りは素材ではない。狐は素材ではない。人の帰りたい心は素材ではない。では何だ? 使えるものを使わず、どうやって大きな夜を越える?」
「使うんじゃなくて、守るんです」
俺は言った。
ヴァルハインがようやくこちらを見る。
「守る。結ぶ。返す。お前はいつも同じことを言うな、ルカ・エルネスト」
「あなたもいつも同じです。奪って、汚して、利用する」
「利用できるものを、利用しているだけだ」
ヴァルハインは導灯本芯へ手を伸ばした。
黒い月灯が、本芯へ近づく。
リーネが叫んだ。
「やめて! その芯に入れたら、灯台は海路全体を黒くする!」
「それが目的だ」
ヴァルハインの声は静かだった。
「王都は失敗した。だが、海は広い。船は灯りに従う。港は灯台に従う。港を握れば、沿岸都市も商路も黒燭を受け入れる」
セラが短剣を構える。
「あなたたちは、どこまで灯りを支配したいの」
「支配ではない。黒い夜に適応させるだけだ」
「詭弁ね」
「言葉などどうでもいい」
ヴァルハインは笑った。
「満潮だ」
その瞬間、灯室全体が揺れた。
黒い導灯の鼓動。
ごぉぉん。
三度目。
夜半の満潮。
海霧が灯室の外で渦を巻く。
黒い月灯が、導灯本芯へ吸い寄せられるように伸びた。
「ミリア!」
「分かってる!」
ミリアが反射環へ走る。
だが、黒蝋の鎖が床から伸び、彼女の足を狙った。
セラが横から入り、短剣で黒蝋の根元を叩く。
切れはしない。
しかし軌道は逸れる。
「ミリア、行って!」
「ありがと!」
ノインは点検灯を掲げ、反射環の動きを読む。
「外周反射板、黒化率七割! 本芯に黒い月灯が入れば、完全同調します!」
「止め方は!」
「本芯へ正常な導灯火を入れる必要があります! でも導灯火はリーネさんの灯台守灯が管理しています!」
全員の視線がリーネへ向く。
リーネは鎖につながれたまま、小さな潮灯を抱えていた。
「私の潮灯だけでは足りない……下層と霧鐘を戻した火が必要」
「あります」
俺はランタンを握る。
「ここまで連れてきました」
白帆宿。
潮見坂。
灯台守小屋。
下層帰港灯路。
中層霧鐘。
全部の灯りが、細く結ばれている。
ヴァルハインが俺を見て、黒蝋燭を向けた。
「だからお前を先に折る」
黒い火が矢のように飛ぶ。
速い。
俺が反応するより先に、セラが間に入った。
短剣で受けるのではなく、体をずらして軌道を逸らす。
黒い火が背後の潮硝子に当たり、硝子が黒く染まる。
「ルカ、灯り!」
「はい!」
俺はリーネの方へ走る。
ヴァルハインが再び黒火を放とうとする。
だが、ポルカが飛び出した。
「ぽう!」
白い月明かりが黒火を弱める。
ポルカの小さな体が吹き飛びそうになる。
「ポルカ!」
ミリアが叫ぶ。
ポルカは踏ん張り、白い尻尾をさらに広げた。
「ぽううっ!」
その隙に、俺はリーネの鎖へ近づいた。
黒蝋の鎖。
だが、王都の黒聖灯や月守狐の鎖よりは細い。
リーネが自分の潮灯で抵抗し続けていたからだろう。
「あなたが、ルカ……?」
「はい」
「下層を、戻してくれてありがとう」
「あなたの灯りが道を残してくれたからです」
俺は鎖へ光を入れる。
「【小さな灯】」
リーネの潮灯が応える。
青白い光が鎖の内側からともる。
黒蝋がひび割れる。
ミリアが遠くから叫んだ。
「鎖の結び目、左の金具!」
「見えました!」
俺は金具へ光を絞る。
ぱきん。
鎖が外れた。
リーネがよろめく。
俺が支えようとしたが、彼女は自分の足で立った。
「大丈夫」
顔色は悪い。
手も震えている。
それでも彼女は、灯台守の目をしていた。
「私は、灯室に戻るためにここにいる」
リーネは潮灯を掲げた。
灯室の中央、導灯本芯が黒い月灯を飲み込もうとしている。
ヴァルハインが低く言った。
「遅い」
黒い月灯が本芯へ触れた。
導灯が大きく脈打つ。
黒い光が灯室全体を満たした。
外の海霧が、巨大な渦となって灯台を包む。
ノインが叫ぶ。
「黒化、始まります!」
リーネが歯を食いしばる。
「まだ完全には入ってない。導灯火を戻せば押し返せる」
「どうすれば」
「本芯、反射環、潮硝子。三つを同時に戻す」
ミリアが反射環の根元から叫ぶ。
「反射環は私がやる!」
ノインが点検灯を掲げる。
「潮硝子の黒糸は僕が読みます!」
セラがヴァルハインを見据える。
「私はあいつを止める」
ポルカがふらふらしながらも、俺の肩へ戻った。
「ぽう……!」
「無理は」
「ぽう!」
するらしい。
リーネが俺を見る。
「導灯本芯へ、下から戻した灯りを入れて。海の灯りは、上から海へ投げるだけじゃない。下層から帰り道を受け取って、海へ返すものだから」
王都の大聖灯と同じだ。
大きな灯りは、小さな灯りを受け取って返す。
上から支配するものではない。
俺はランタンを掲げた。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
灯台守の潮灯。
下層帰港灯路。
中層霧鐘。
そして、灯台守リーネの導灯火。
それらを結ぶ。
小さなまま。
役目を奪わずに。
「やりましょう」
俺が言うと、リーネは静かに頷いた。
黒い導灯が、満潮の海へ向かって回り始める。
外では、船の鐘がいくつも鳴っていた。
帰り道を探す船たちが、霧の中で待っている。
灯台を取り戻す最後の作業が始まった。
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