第33話 海へ続く巡灯路
王都の夜は、久しぶりに黒くなかった。
大聖灯は金色に戻り、広場の街灯もひとつずつ本来の色を取り戻している。
それでも、完全に安心できる夜ではなかった。
王都中に配られた黒燭は、まだすべて回収できていない。
黒聖灯の影響で弱った灯具も多い。
何より、黒燭商会の灯術師ヴァルハインは逃げた。
そして彼は、黒蝋の文字を残した。
『西方巡灯路、沈黙。
北方灯台、黒化。
次は、海沿いの灯をいただく』
海沿いの灯。
北方灯台。
その言葉が、大聖灯広場に残った人々の顔から、勝利の余韻を奪った。
「北方灯台が黒化したとなれば、沿岸都市だけでなく海路も危険です」
王宮灯務監査官リディア・フォースは、広場に広げられた地図を見ながら言った。
彼女の声は落ち着いている。
だが、指先は地図の上で止まっていた。
王都の北西。
山道と古い巡灯路を越えた先。
そこに、海へ突き出した岬がある。
地図には、こう記されていた。
『北方灯台』
正式名称は、ルーメ岬大灯台。
王都の大聖灯とは別系統の巨大灯路。
陸を照らす大聖灯に対し、海の船を導く灯り。
港へ帰る船。
夜霧の海を渡る商船。
沿岸を守る漁村。
そのすべてが、この灯台の光を頼りにしている。
「灯台が黒くなれば、船は帰る港を見失います」
リディア監査官が続ける。
「それだけではありません。海霧に黒燭の性質が混ざれば、沿岸一帯が黒い夜霧に覆われる可能性があります」
「ノクスヴェイルの黒森みたいに?」
ミリアが顔をしかめる。
「ええ。規模はもっと広いかもしれません」
その言葉に、広場の空気が重くなった。
ノクスヴェイルの夜霧は、村ひとつを長く苦しめてきた。
それが海に広がる。
船も、港も、海沿いの町も、全部が黒い霧に閉じ込められる。
想像しただけで、胸が冷えた。
セラが地図を見下ろす。
「王都からルーメ岬までは?」
「通常の馬車道なら三日。巡灯路を使えば二日弱。ただし、黒蝋の文字通りなら西方巡灯路は沈黙している」
「つまり、途中の灯りを起こしながら進む必要がある」
「そうなります」
リディア監査官は俺を見る。
「ルカ・エルネスト。あなたに協力を要請します」
広場の何人かがこちらを見た。
王都を救った灯火師。
そういう視線が混ざっている。
少し前まで、ここで俺は追放者と呼ばれていた。
反灯者と名指しされた。
今は、同じ場所で協力を求められている。
不思議な感覚だった。
「協力します」
俺は答えた。
「ただし、俺だけではありません」
リディア監査官は静かに頷いた。
「ノクスヴェイル村長代理、月灯工房の職人、月灯狐、下層灯路関係者。必要な人員と物資は王宮監査権限で手配します」
「王都の復旧は?」
セラが問う。
「ノイン補佐を中心に、下層灯路図と旧祈り火路の保全を進めます。エイダン殿、ティナ殿、バスク殿らにも協力を依頼済みです」
ノインは緊張した顔で一歩前へ出た。
「大聖灯の一刻ごとの点検、黒燭の隔離、旧式灯路の復旧記録。僕が責任を持って進めます」
その声はまだ少し震えている。
でも、前よりずっと芯があった。
「一人で抱え込まないでください」
俺が言うと、ノインは真剣に頷いた。
「はい。橋灯は橋灯を知る人と。祈り灯は灯番と。店灯は職人と。そうします」
「それがいいです」
ノインは少しだけ笑った。
「あなたの記録、これから正式な復旧資料として使わせてもらいます」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなった。
昔、雑用扱いで書いた下層灯路の点検記録。
細かすぎると笑われた報告書。
それが今、王都の灯りを戻すために使われる。
無駄ではなかった。
何度そう思っても、まだ胸に染みる。
◇
出発は翌朝になった。
本当なら今すぐにでも向かいたい。
だが、黒聖灯の芯の中へ引き込まれた俺の体は、思った以上に消耗していた。
ミリアには「立ってるだけで説教案件」と言われ、セラには「今日は休む」と短く命令された。
王都の広場でその二人に睨まれて、逆らえるはずがない。
その夜、俺たちは下層の小さな宿に泊まった。
かつて俺が何度も裏灯を直した、荷運び宿だった。
宿の主人は、黒聖灯広場で拘束されていた人の一人だ。
彼は戻ってすぐ、煤けた宿灯を自分の手で磨き、入口にともした。
「まだ客を泊められるほど整ってはいないが」
主人はそう言って、俺たちに温かいスープを出してくれた。
「この灯りが戻ったのは、あんたたちのおかげだ。部屋くらい使ってくれ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。黒聖灯の下では、宿の意味を忘れかけていた」
「宿の意味?」
「帰ってきた人を迎える場所だ」
その言葉に、あかり宿のロッテさんを思い出した。
ノクスヴェイルの夜に灯った食堂灯。
リオたちが眠った暖かい部屋。
灯りのある宿は、ただ人を泊める場所ではない。
帰ってきていいと思える場所だ。
「良い灯りですね」
俺が言うと、主人は照れたように鼻をこすった。
「昔、あんたが直してくれた灯りだよ」
「俺が?」
「ああ。三年前だったかな。雨漏りで裏灯が死にかけて、聖灯局に何度頼んでも来なかった。最後に来た若い灯火師が、夜中までかかって直してくれた」
俺は記憶を探った。
湿気のひどい裏路地。
荷車が出入りする小さな宿。
宿灯の芯受けが錆びて、火が偏っていた。
たしかに、直した覚えがある。
「あの時の……」
「覚えてないだろうと思ってた」
「覚えています。芯受けが歪んで、反射板も曇っていました」
主人は驚いた顔をし、それから笑った。
「本当に覚えてるのか」
「灯具のことなら」
「じゃあ、やっぱりあんたは灯火師だよ」
何気ない一言だった。
でも、俺には十分すぎる言葉だった。
◇
翌朝。
王都南下層の水路門前には、人が集まっていた。
見送りというには、少し多い。
下層の職人たち。
灯番。
荷運び。
洗濯女。
屋台の少年。
昨日、黒聖灯広場で小さな灯りを掲げた人々だ。
彼らは、それぞれ手元に灯具を持っている。
大きな旗ではない。
豪華な贈り物でもない。
ただ、自分たちの暮らしの灯りを持って、そこに立っていた。
ユーベルが前へ出る。
「ルカさん。これを」
彼が差し出したのは、小さな革袋だった。
中には、靴直し屋の吊り灯から分けた火種が入っている。
「店を開ける灯りだ。海沿いでも、誰かが仕事へ戻れるように」
「ありがとうございます」
マーサ婆さんは、祈り灯七番の小さな火を分けてくれた。
「待つ者の灯りだよ。海の灯台には、きっと必要だろう」
「大切にします」
屋台の女性は火皿の火を小さな携帯灯へ移した。
「娘のマリに伝えて。母さんは王都で屋台灯を守るって」
「必ず」
ティナさんとバスクさんは、ミリアに工具と補修部品を渡していた。
「王都式の微細反射板。灯台の内側に使えるかもしれない」
「こっちは橋下式の防湿芯。海沿いなら湿気が強いだろ」
ミリアは受け取りながら、目を輝かせていた。
「え、これ持ってっていいの? めちゃくちゃ貴重じゃない?」
「返せとは言わないわ」
「でも、帰ってきたら構造を教えて」
「もちろん!」
もう完全に職人仲間だった。
セラはリディア監査官と短く話している。
「王都側の追跡部隊は?」
「ヴァルハインの痕跡を追わせています。ただ、黒蝋転移のような術を使われると、通常追跡は難しい」
「こちらは巡灯路を起こしながら進みます。時間はかかるけれど、道を残します」
「助かります。後続隊を送る際、その灯りが道標になります」
リディア監査官は俺へ視線を向けた。
「それと、ルカ・エルネスト」
「はい」
「あなたの追放処分について、暫定的に執行停止とします」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「執行停止……」
「正式な撤回には手続きが必要です。しかし、大聖灯事故の責任をあなた一人に負わせた処分は、現時点で重大な疑義があります。再調査完了まで、あなたを追放者として扱うことを禁じます」
周囲がざわめいた。
追放者ではない。
少なくとも、暫定的には。
胸の奥にあった古い棘が、少しだけ抜けるような感覚がした。
完全に晴れたわけではない。
まだ正式な撤回ではない。
それでも、あの日の断罪が初めて揺らいだ。
ミリアが小声で言った。
「よかったじゃん」
セラも静かに頷く。
「まだ途中だけど、大きな一歩ね」
ポルカは俺の肩の上で、なぜか偉そうに鳴いた。
「ぽう」
「ポルカのおかげでもありますね」
「ぽう!」
とても満足そうだった。
俺はリディア監査官へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は不要です。これは正すべき手続きです」
彼女はそう言ってから、少しだけ表情を緩めた。
「ただ、王都を救ったことには礼を言います。改めて」
「俺だけではありません」
「ええ。記録にはそう残します。王都を救ったのは、一人の英雄ではなく、小さな灯火網だったと」
その言葉に、広場の人々が静かに頷いた。
◇
王都から北西へ向かう巡灯路は、思った以上に荒れていた。
街道から外れた細い道。
草に覆われた石標。
崩れかけた灯柱。
黒聖灯の影響が弱まったとはいえ、ヴァルハインが通ったと思われる黒蝋の跡が点々と残っている。
俺たちは、王都で分けてもらった火種を結灯環に納め、灯りを起こしながら進んだ。
同行するのは、俺、セラ、ミリア、ポルカ。
そして、王都側からノインがついてきた。
「本当に来るんですか?」
俺が聞くと、ノインは少し緊張した顔で頷いた。
「はい。北方灯台は王都灯務管轄の一部です。聖灯局員として記録と連絡を担当します」
「危険ですよ」
「昨日まで、安全な場所にいても、見ないふりをしていました。今度は見に行きます」
その答えに、もう止める言葉はなかった。
ミリアがノインの点検灯を覗き込む。
「それ、ちゃんと防湿加工した?」
「え?」
「海沿い行くんでしょ。湿気でやられるよ」
「あ、そこまでは」
「貸して。今やる」
「え、今ここで?」
「今やらないと壊れる」
ミリアは歩きながら点検灯を改造し始めた。
ノインは困惑していたが、少し嬉しそうでもあった。
セラは先頭を歩きながら、時々黒蝋の跡を確認する。
「ヴァルハインは急いでいるわね」
「分かりますか」
「痕跡が雑。隠すより速さを優先している」
「北方灯台の黒化を急いでいるのでしょう」
「それか、もう始まっている」
その言葉に、全員が黙った。
空は晴れている。
だが北西の方角だけ、薄い霧がかかっていた。
海霧だろうか。
それとも、黒燭の霧か。
ポルカが俺の肩で鼻をひくひくさせた。
「ぽう……」
「嫌な匂いですか?」
「ぽう」
肯定らしい。
俺はランタンを掲げ、足元の巡灯標に火を入れた。
王都で受け取った小さな灯りたちが、順に反応する。
靴直し屋の灯り。
祈り灯。
屋台灯。
宿灯。
そこにノクスヴェイルの灯りも混ざっている。
遠く離れても、まだつながっている。
ロッテさんの食堂灯。
ニナの安眠灯。
リオのランプ。
ガルム爺の手灯。
月灯工房の芯灯。
俺たちは、たくさんの帰る場所を背負って歩いている。
それは重荷ではなく、道標だった。
◇
夕方前、最初の巡灯宿にたどり着いた。
地図には『白帆宿』と記されている。
海へ向かう巡灯路の途中にある、小さな宿場だ。
だが、門灯は消えていた。
宿の看板は傾き、窓は閉ざされている。
周囲に人の気配はある。
しかし、誰も出てこない。
「黒燭の気配がある」
セラが低く言った。
俺も感じていた。
宿の中に、冷たい火の匂いがある。
ポルカが毛を逆立てる。
「ぽう……」
ミリアは入口の門灯を確認した。
「灯具はまだ死んでない。でも黒い煤が入ってる」
「直せますか」
「やる」
その時、宿の扉がわずかに開いた。
隙間から、子どもの目が覗く。
俺たちを見る。
そして、俺のランタンを見て、小さく息を呑んだ。
「……黒くない灯り?」
「はい」
俺はしゃがみ、声を抑えた。
「俺たちは王都から来た灯火師です。北方灯台へ向かっています」
扉の向こうで、誰か大人の声がした。
「開けるな。黒燭商会かもしれない」
「違うよ。灯りが黒くない」
子どもはそう言った。
少しの沈黙のあと、扉がゆっくり開いた。
中から現れたのは、痩せた宿の女将だった。
顔色が悪い。
手には、消えかけた宿灯を抱えている。
「王都から……?」
「はい」
「王都は、黒い昼になったと聞いたわ」
「戻しました」
女将の目が揺れる。
「本当に?」
「はい。大聖灯は金色に戻りました」
その瞬間、彼女の膝から力が抜けそうになった。
セラが支える。
宿の奥から、数人の旅人が顔を出した。
皆、不安そうな表情をしている。
「黒燭商会が来たんですか」
俺が尋ねると、女将は震えながら頷いた。
「昨夜、黒い灯術師が来た。海へ向かうなら、この黒燭をともせと。北方灯台はもう新しい光になったから、古い灯りは捨てろと」
「ヴァルハイン……」
ミリアが低く呟く。
「黒燭を使いましたか」
女将は首を振った。
「使っていない。でも、宿の灯りが弱った。外の巡灯標も沈黙した。海の方から黒い霧が来ている」
「海の方から?」
ノインが顔を上げる。
その時、遠くで低い音がした。
波の音ではない。
鐘の音にも似ている。
だが、王都の黒聖灯の鐘より湿っていて、重い。
ごぉん。
ごぉん。
海鳴りの奥から響く、黒い灯台の音。
宿の中にいた旅人たちが怯える。
「まただ……」
「灯台が鳴ってる」
「昨日から、あの音がすると灯りが黒くなる」
俺は宿の外へ出た。
北西の空。
海がある方角。
夕暮れの雲の下に、黒い霧の柱が見えた。
その奥で、灯台の光らしきものが回っている。
本来なら、海を導く白い光のはずだ。
だが見えたのは、黒く濁った光だった。
黒い光が、海霧を巻き上げながら回っている。
北方灯台は、すでに黒化していた。
そして、その黒い光の中に、細い影が立っているように見えた。
ヴァルハイン。
距離があるのに、こちらを見ている気がした。
ポルカが低く鳴いた。
「ぽう……!」
俺はランタンを握った。
まずは、この巡灯宿を守る。
そして海へ。
帰る港を示す灯りを、黒燭に奪わせるわけにはいかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます