第34話 白帆宿の帰り灯
黒い灯台が、海霧の向こうで鳴っていた。
ごぉん。
ごぉん。
波の音に混じって、腹の底を揺らすような低い響きが届く。
その音が鳴るたび、白帆宿の窓辺に残っていた小さな灯りが震えた。
宿の女将は、消えかけた宿灯を胸に抱えたまま、唇を噛んでいる。
旅人たちは奥の食堂に身を寄せ合い、誰も外へ出ようとしない。
子どもだけが、扉の隙間から俺のランタンを見つめていた。
「本当に、黒くない灯りだ」
小さな声だった。
俺はしゃがみ、できるだけ穏やかに言った。
「はい。黒燭ではありません」
「じゃあ、灯台の音も消せる?」
すぐには答えられなかった。
黒い灯台は、遠く海霧の中で回っている。
黒聖灯ほどの規模ではない。
だが、海と霧を巻き込んでいるぶん、性質が違う。
王都の黒い昼は、人々の手元の灯りを奪った。
今度の黒い灯台は、帰る場所そのものを迷わせる。
「消すために来ました」
俺は答えた。
「でも、その前にこの宿の灯りを守ります」
女将が顔を上げた。
「うちの灯りを?」
「はい。灯台へ向かうためには、戻る場所が必要です」
セラが宿の外へ目を向ける。
海からの風が強くなっていた。
潮の匂いに、黒燭特有の冷たい蝋の匂いが混じっている。
「黒い霧が近づいているわ」
ミリアは入口の門灯を調べながら、舌打ちした。
「門灯も宿灯も、黒い煤が入ってる。でも芯は死んでない。海沿いの灯具、構造が面白いね。風除けが二重になってる」
ノインが点検灯を掲げる。
「白帆宿は、旧巡灯路の宿場です。記録では、北方灯台へ向かう巡灯師が必ずここで火を継いだとあります」
「火を継ぐ?」
宿の女将がかすかに頷いた。
「昔は、灯台の火と宿の火を互いに確かめていたそうです。灯台が海の船を導き、白帆宿の灯りが陸の帰り道を示す。けれど、もう何十年も前の話で……」
「今も、灯具は残っていますか」
俺が尋ねると、女将は少し迷った。
そして、奥の廊下を見た。
「裏の灯具庫に、古い帰り灯があります。夫が生きていた頃は、毎年磨いていました。でも、灯台から新式灯具に切り替えるよう言われてから、使わなくなって」
「見せてください」
「でも、動くかどうか」
「動かします」
ミリアが即答した。
頼もしい。
女将は一瞬驚き、それから小さく頷いた。
◇
白帆宿の灯具庫は、潮の匂いがした。
棚には古いランプ、錆びた反射板、割れた硝子、帆布の切れ端、油壺が並んでいる。
王都の灯具とは違う。
ノクスヴェイルの灯具とも違う。
海沿いの灯具は、風と湿気と塩に耐えるための作りをしていた。
分厚い硝子。
二重の風防。
錆びにくい真鍮。
火を細く保つ芯受け。
ミリアはそれらを見るなり、目の色を変えた。
「うわ……何これ。すごい」
「直せそうですか?」
「直す。というか、触りたい。全部見たい。でも今は一番大事なやつから」
職人としての欲が、かなり出ていた。
女将は棚の奥から、大きめの灯具を取り出した。
丸い本体に、白い帆のような反射板がついている。
灯具の正面には、薄青い硝子。
海の色を閉じ込めたような硝子だった。
「これが、帰り灯です」
女将はそっと布を払った。
「海へ出た人が、陸へ戻る時に見る灯り。灯台ほど遠くまでは届かないけれど、宿の場所を教える灯りだと聞いています」
ポルカが鼻を近づけた。
「ぽう……」
「嫌な匂いではない?」
「ぽう」
肯定らしい。
俺も灯具に手を近づけた。
黒燭の冷たさはある。
だが、それより奥に柔らかい火種が残っている。
この灯りは、まだ自分の役目を忘れていない。
「芯が黒くなってる」
ミリアが言った。
「でも、芯受けは無事。反射板も少し曇ってるだけ。硝子は……すごいね、これ。海霧を切るための色硝子だ」
ノインが点検記録を見ながら言う。
「潮硝子と呼ばれるものです。灯台や沿岸宿に使われます。霧の中でも光が散りにくいと」
「王都にも欲しい」
「え?」
「いや、独り言」
ミリアは工具を取り出した。
「ルカ、火は細く。強く入れると硝子が割れるかも」
「分かりました」
「セラ、入口を見てて。黒い霧が来たらすぐ言って」
「もう来ているわ」
セラの声で、全員が窓の外を見た。
海霧が宿の前まで迫っていた。
ただの霧ではない。
霧の中に、黒い火の粒が混じっている。
そして、その奥から声が聞こえた。
帰れない。
港が見えない。
灯りが黒い。
助けて。
旅人たちが食堂で震え上がる。
女将の顔が青ざめた。
「あれは……海で亡くなった人の声だって、皆が」
「違います」
俺は言った。
「黒燭が、人の不安を声にしているんです」
たぶん、本物の記憶も混じっている。
海で帰れなかった人。
灯台の光を待った人。
そういう悲しみを、黒燭が利用している。
許せなかった。
「ミリア、始めましょう」
「うん」
俺は帰り灯の前に立ち、ランタンを掲げた。
王都で受け取った火種が、結灯環の中で揺れる。
靴直し屋の店灯。
祈り灯。
屋台の火皿。
荷運び宿の灯り。
そして遠く、ノクスヴェイルのあかり宿の食堂灯。
宿の灯りには、宿の灯りがよく馴染む。
帰ってきた人を迎える火。
俺はそれを細く取り出し、白帆宿の帰り灯へ重ねた。
「【小さな灯】」
金色の火が芯へ入る。
一瞬、黒い煤が膨らんだ。
ポルカが白い月明かりで押さえる。
「ぽう!」
ミリアが芯受けを調整する。
「硝子、いける! 反射板、少し右!」
ノインが点検灯で灯路の向きを示す。
「宿の門灯とつながります!」
セラが扉を押さえながら叫んだ。
「霧が来る!」
黒い霧が宿の扉の隙間から流れ込もうとした。
女将が息を呑む。
旅人たちが悲鳴を上げる。
俺は帰り灯に手を添えた。
「ここは、帰ってくる人を迎える宿です」
灯具へ言う。
かつてこの宿の主人が磨き続けた灯り。
海へ出た人を待ち、陸へ戻る人に場所を知らせた灯り。
「もう一度、ともってください」
帰り灯の薄青い硝子が、ふわりと光った。
金色の火が、海色の硝子を通って柔らかい青白さを帯びる。
その光が灯具庫を満たし、廊下へ流れ、食堂へ広がった。
黒い霧が扉の前で止まる。
まるで、そこに見えない帆が張られたように。
宿の門灯が反応した。
ぽっ。
次に食堂灯。
窓辺の小灯。
二階の客室灯。
白帆宿全体に、帰り灯の光が巡っていく。
旅人たちの顔に、少しずつ血色が戻った。
子どもが扉の隙間から外を見て、目を丸くする。
「霧が、入ってこない」
女将は帰り灯を見つめ、涙を浮かべた。
「夫が……この灯りはまだ使えるって、ずっと言っていたの」
「正しかったですね」
俺が言うと、女将は何度も頷いた。
「ええ。ええ、本当に」
◇
白帆宿の灯りが戻ると、宿場の巡灯標も目を覚ました。
門の外に立つ石柱に、薄青い線が浮かび上がる。
王都やノクスヴェイルの灯りとは違う、海へ向かう灯路の色。
青白く、風に強く、霧の中で揺れにくい光。
「これが海沿いの巡灯路か」
ノインが点検板へ急いで記録する。
「王都記録ではほとんど失われたとされていましたが、残っています。宿灯を起こしたことで、次の巡灯標まで反応しています」
「次はどこ?」
セラが問う。
ノインが地図を確認した。
「潮見坂の灯柱。その先に、灯台守の小屋があります」
「灯台守」
俺は顔を上げた。
「北方灯台に、まだ灯台守が?」
女将がはっとした顔をした。
「リーネさん」
「知っているんですか」
「ええ。若い灯台守です。父親の跡を継いで、灯台を守っていた子。黒燭商会が来る前、宿に立ち寄って言っていました。灯台の光が変だ、上層部に黒い筋が見えるって」
黒い筋。
大聖灯の時と同じだ。
女将は声を震わせた。
「その後、灯台へ戻ったきりです。昨日から黒い光が回り始めて……誰も灯台へ近づけなくなりました」
「リーネさんは中にいる可能性が高いですね」
セラが言った。
「助けないと」
ミリアが工具袋を担ぎ直す。
「灯台守なら、灯台の構造を知ってる。生きてるなら絶対必要」
「はい」
その時、宿の外から大きな物音がした。
どさり。
何かが門の前に倒れた音。
セラが真っ先に動く。
俺たちも続いて外へ出た。
門灯の青白い光の中に、一人の男が倒れていた。
濡れた外套。
潮に焼けた顔。
腕には血がにじんでいる。
漁師か、船乗りだろう。
彼は黒い霧に追われるようにして、宿の灯りの内側へ転がり込んだらしい。
女将が叫んだ。
「カイル!」
知り合いらしい。
男は薄く目を開け、帰り灯を見た。
「灯り……戻ったのか……」
「何があったの!」
女将が膝をつく。
カイルと呼ばれた男は、荒い息のまま俺たちを見た。
「灯台が……船を呼んでる」
「船を?」
「あの黒い光を見た船が、港じゃなく岩礁へ向かう。霧の中で、港の灯りに見えるんだ。俺たちの船も、仲間が……」
彼は血の混じった咳をした。
セラが布で傷を押さえる。
「ゆっくり。灯台守は?」
「リーネは……灯台の最上階にいる。黒い男に逆らって、灯室に閉じ込められた」
「黒い男」
「顔を布で隠した灯術師だ。そいつが言ってた。夜半の満潮で、北方灯台を完全に黒灯台へ変えるって」
ノインが顔を青ざめさせた。
「夜半の満潮……あと三刻もありません」
カイルは震える手で、俺の外套を掴んだ。
「頼む。灯台を戻してくれ。あの光が回り続けたら、今夜、沖にいる船が全部岩へ吸い寄せられる」
黒い灯台が、海の帰り道を偽る。
帰ろうとする船ほど、岩礁へ導かれる。
黒燭らしい、最悪のやり方だった。
俺は北西の空を見た。
黒い霧の柱。
回る黒い光。
そして、その最上階に閉じ込められた灯台守。
白帆宿の帰り灯が、背後で静かにともっている。
ここが戻る場所になる。
なら、次は進む番だ。
「行きます」
俺は言った。
「北方灯台へ」
セラが頷く。
ミリアが工具袋を締め直す。
ノインが点検灯を掲げる。
ポルカが俺の肩で、眠気を振り払うように鳴いた。
「ぽう!」
海から、また黒い灯台の音が響く。
ごぉん。
ごぉん。
だが今度は、白帆宿の帰り灯がその音に負けず、青白く揺れた。
帰る場所はできた。
あとは、迷わせる灯りを取り戻すだけだ。
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