第32話 追放灯火師の証明
黒い昼が終わった王都は、すぐには歓声を上げなかった。
誰もが空を見上げていた。
黒く霞んでいた空。
太陽があるのに薄暗かった空。
その空が、少しずつ青を取り戻していく。
大聖灯は、再び金色にともっていた。
ただし、以前のようにただ高く、強く、王都を見下ろす光ではない。
広場にともる小さな灯りを受け取り、やわらかく返している。
屋台の火皿。
祈り灯。
店灯。
橋灯。
宿灯。
手灯。
人々の手元にある小さな灯りが、大聖灯の光を受けてふわりと揺れる。
大聖灯もまた、その小さな灯りに応えるように揺れていた。
まるで、長い間忘れていた呼吸を思い出したように。
「……本当に戻ったのか」
誰かが呟いた。
「黒くない」
「寒くない」
「目が、痛くない」
人々の声が、少しずつ広場に満ちていく。
歓声というより、息を取り戻す音だった。
泣く者がいる。
手元の灯りを抱きしめる者がいる。
黒燭を地面に置き、震える手で遠ざける者がいる。
黒聖灯を信じようとしていた自分に気づき、呆然と立ち尽くす者もいた。
俺は大聖灯の根元で、石畳に座り込んでいた。
体が重い。
灯りを使いすぎた時の疲れとは違う。
黒聖灯の芯の中にいたせいだろう。
体の奥まで冷えたような感覚が残っている。
その上、ポルカが当然のように俺の膝に乗っていた。
「ぽう」
「ポルカ、少しだけ降りてもらえますか」
「ぽう?」
「重いです」
「ぽう!」
不満そうに鳴かれた。
ミリアが横で笑いながら、俺の結灯環を確認している。
「壊れてはない。けど、かなり無茶したね」
「壊れていないならよかったです」
「よくない。壊れてないだけ。中の灯路、ほとんど焦げてる」
「直せますか?」
「直す」
即答だった。
その声が頼もしくて、少し笑ってしまう。
ミリアは工具を握ったまま、俺を睨んだ。
「笑うところじゃない」
「すみません」
「あとで説教」
「はい」
「長いやつ」
「覚悟します」
セラは少し離れた場所で、王都の衛兵たちへ指示を出していた。
広場は混乱している。
黒燭商会の男たちを拘束し、捕らわれていた職人や灯番を保護し、黒燭を隔離し、倒れた人を運ばなければならない。
王都の人間ではないはずのセラが、誰よりも的確に動いていた。
「黒燭は素手で触らないで! 隔離布か硝子筒へ! 灯具職人は大聖灯の根元へ集まって! 怪我人は祈り灯の近くへ!」
衛兵の一人が戸惑ったように聞く。
「あなたは……どちらの所属で?」
「ノクスヴェイル村長代理」
「村長代理……?」
「所属を確認している暇があるなら、黒燭を踏まないで。そこ、危ない」
「は、はい!」
王都衛兵が素直に従っている。
少し面白かった。
いや、笑っている場合ではない。
広場の中央では、グレゴール・バルザックが拘束されていた。
さきほどまで王都の灯りを支配しようとしていた男。
王都聖灯局長。
俺を追放した張本人。
今は黒聖灯の力を失い、顔色の悪い一人の男として、衛兵に両腕を押さえられている。
だが、その目にはまだ怒りが残っていた。
「これは一時的な混乱だ」
グレゴールは低く言った。
「王都には秩序が必要だ。民は大きな灯りなしでは不安に耐えられない。私が、私が導かなければ……」
ノインが記録板を抱え、彼の前に立った。
顔は青い。
だが、背筋は伸びている。
「局長。黒燭による灯路侵食、旧式灯具の不当破壊、灯具職人および灯番の拘束、黒聖灯の強制起動。すべて記録しました」
「下級補佐が、私を裁くつもりか」
「僕ではありません」
ノインは広場を見た。
「王都の灯りを見ていた人たちが、証言します」
エイダンさんが祈り灯を掲げて前へ出る。
ティナさんが黒蝋で傷ついた手を見せる。
バスクさんが隔離した黒燭を並べる。
屋台の女性が火皿を抱え、マーサ婆さんが花を握っている。
ユーベルが靴直し屋の吊り灯を掲げた。
「わしらは見た」
ユーベルの声は、決して大きくはなかった。
けれど、広場によく通った。
「黒燭は灯りを守らなかった。食った。店の灯りも、祈りの灯りも、帰り道の灯りも」
マーサ婆さんが続く。
「黒聖灯の下では、待つことも祈ることもできなくなった」
屋台の女性が言う。
「でも、小さな灯りが戻ったら、娘のことを思い出せた」
グレゴールは顔を歪めた。
「感傷だ。灯火行政は感傷では動かん」
「灯りは、人の暮らしの中にあるものです」
俺は立ち上がった。
まだ足元が少しふらつく。
ミリアが支えようとしたが、俺は小さく頷いて自分で立った。
ポルカは仕方なさそうに肩へ移動する。
「ぽう」
「ありがとうございます」
「ぽう」
俺はグレゴールの前へ歩いた。
追放された日。
俺はこの男の前で何も言えなかった。
声を出しても、かき消された。
誰も聞かなかった。
でも今は、広場の人々がこちらを見ている。
王都の灯りを取り戻した人々が。
「局長」
俺は言った。
「あなたは、大聖灯を守ろうとしたのではありません。大聖灯を使って、人々から自分の灯りを奪おうとした」
「綺麗事を」
「綺麗事ではありません」
俺は大聖灯を見上げた。
金色の光は静かに揺れている。
「大聖灯は、元々小さな灯りを受け取る灯りでした。祈り灯、橋灯、店灯、宿灯。そういう灯りを受け取り、王都へ返していた」
広場の人々がざわめく。
王都に長く住んでいても、そのことを知らなかった者が多いのだろう。
俺も知らなかった。
旧灯路を通るまで。
祈り火室を起こすまで。
「あなたはそれを塞いだ。小さな灯りを消し、大聖灯だけを見上げさせようとした。だから黒燭が入り込んだ」
「違う!」
グレゴールが叫ぶ。
「私は王都を強くしようとした! 夜霧も魔物も、辺境の呪いも、すべてを黒聖灯で食わせれば、王都は永遠に守られるはずだった!」
「永遠に守られる灯りなんてありません」
俺の声は、不思議なくらい静かだった。
「だから、守り続けるんです。毎日。誰かが。小さな灯りを」
その言葉に、グレゴールは一瞬だけ黙った。
しかし、すぐに低く笑った。
「お前は何も分かっていない。夜は必ず戻る。人はすぐ忘れる。恐れれば、また大きな灯りを求める。黒燭は消えん」
「そうかもしれません」
俺は頷いた。
「だから、忘れないように灯りを残します」
「残す?」
「記録します。直します。分けます。結びます。大きな灯りだけに頼らず、小さな灯りを守る人を増やします」
ノインが記録板を強く抱えた。
ミリアが工具袋を叩く。
セラが静かに頷く。
広場の職人や灯番たちも、それぞれの灯具を掲げた。
グレゴールの顔が、初めて本当に歪んだ。
怒りではない。
恐れだった。
彼が恐れていたのは、俺の灯りではない。
人々が自分の灯りを取り戻すことだったのだ。
◇
その後、王都守備隊の上級官が広場へ到着した。
黒聖灯の影響が解けたことで、王宮側にも異変が伝わったらしい。
王宮灯務監査官と名乗る女性も来た。
銀灰色の外套をまとった、鋭い目の人だった。
「私はリディア・フォース。王宮灯務監査官です」
彼女はグレゴールを一瞥し、それから大聖灯を見上げた。
「聖灯局からは、黒聖灯化は正式な改良事業と報告されていました。ですが、この状況を見る限り、重大な虚偽報告があったと判断します」
グレゴールが叫ぶ。
「私は王都のために!」
「その判断は監査の場で聞きます」
リディアは冷たく言った。
「拘束を」
衛兵たちがグレゴールを連れていく。
彼は最後まで俺を睨んでいた。
「ルカ・エルネスト」
その声は、怒りよりも執着に近かった。
「お前の小さな灯は、いずれ王都を分裂させる。人々が自分の灯りを持てば、必ず争う。大きな灯りに従わせる方が、平和なのだ」
「違います」
俺は答えた。
「小さな灯りを持つ人は、隣の灯りも見られます」
グレゴールは何かを言おうとした。
だが衛兵に押さえられ、広場の外へ連れていかれた。
その背中を見送っていると、リディア監査官がこちらへ歩いてきた。
「あなたがルカ・エルネストですね」
「はい」
「追放処分を受けた元聖灯局員」
「はい」
周囲の視線が集まる。
また裁かれるのか。
一瞬、そんな考えがよぎった。
だが、リディア監査官は深く頭を下げた。
「王都を救っていただき、感謝します」
広場が静まり返った。
俺自身も、すぐには返事ができなかった。
「……俺だけではありません」
ようやく出た言葉は、それだった。
「下層の灯番、灯具職人、住民、ノクスヴェイルの村人たち、巡灯路の祠を守る人たち。皆の灯りがあったからです」
「そのようですね」
リディア監査官は大聖灯の根元に露出した古い受け皿を見た。
「大聖灯が小灯を受け取る構造だったとは、王宮記録にもほとんど残っていません。聖灯局が意図的に消した可能性があります」
ノインが慌てて前に出た。
「保管室に下層灯路図と旧整備記録が残っています。廃棄寸前でした」
「確保します」
リディア監査官はすぐに部下へ指示を出す。
その動きは早かった。
セラが俺の隣で小さく呟く。
「まともな人が来てくれて助かったわね」
「はい」
「でも、油断はできない」
「分かっています」
ヴァルハインは逃げた。
黒燭商会も、王都にいる者だけではないはずだ。
黒聖灯は止めたが、黒燭の根はまだ残っている。
リディア監査官は俺へ向き直った。
「ルカ・エルネスト。あなたの追放処分についても、再調査が必要です」
俺の胸が小さく鳴った。
「再調査……」
「大聖灯事故の原因が黒燭による侵食だった可能性が高い以上、あなたに責任を負わせた当時の処分は不当であった疑いがあります」
不当。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
ずっと重かった石が、少しだけ動いた気がした。
ミリアが隣で小さく拳を握る。
「当然でしょ」
セラも静かに頷く。
ポルカはよく分かっていないのか、俺の肩の上で胸を張った。
「ぽう」
たぶん、自分のおかげだと言っている。
それも、少しは本当だった。
「ただし」
リディア監査官は続けた。
「正式な撤回には証拠整理と聴聞が必要です。あなたには王都に残り、証言していただくことになる」
王都に残る。
追放された街に。
その言葉に、胸が少し重くなる。
すると、セラがすぐに言った。
「ルカはノクスヴェイルの灯火師です」
リディア監査官が彼女を見る。
「あなたは?」
「ノクスヴェイル村長代理、セラ・ノクスヴェイル。彼は現在、我が村の灯火網を管理しています。王都の都合で一方的に拘束されるなら、正式に抗議します」
王都の監査官相手に、まったく怯まない。
頼もしいにもほどがある。
リディア監査官は少し目を丸くし、それから薄く笑った。
「拘束ではありません。協力要請です。もちろん、ノクスヴェイルへの帰還権は尊重します」
「なら結構です」
セラは淡々と答えた。
ミリアが小声で俺に囁く。
「セラ、王都相手でも強いね」
「はい」
「ちょっと怖い」
「同感です」
「聞こえてるわよ」
セラに言われ、二人で黙った。
◇
広場の応急処置は夕方まで続いた。
大聖灯の黒蝋を完全に除去するには時間がかかる。
ミリア、ティナさん、バスクさんを中心に、王都の灯具職人たちが集まり、受け皿や灯路の補修を始めた。
王都式の繊細な灯具。
辺境式の強い灯具。
下層の実用的な灯具。
それぞれの技術が混ざっていく。
「ここ、王都式だと黒蝋に弱い」
「でも反射効率は高いのよ」
「じゃあ外側を辺境式に補強して、中は王都式で」
「できるわね」
「できるね」
ミリアとティナさんは、すでに職人同士の会話に夢中だった。
ポルカは疲れたのか、俺の外套の中に潜り込んで眠っている。
時々「ぽう……」と寝言のように鳴く。
セラは下層の人々と話し、王都に一時避難所を作る相談をしていた。
巡灯路の祠には、ドルトンさんとマリたちがいる。
王都から逃げた人たちも、これから戻るかもしれない。
逆に、まだ王都を離れたい人もいるだろう。
灯りだけでなく、人の道も整えなければならない。
俺は大聖灯の根元に残り、黒蝋の跡を見ていた。
金色の光は戻った。
でも、完全ではない。
黒い染みはまだ奥にわずかに残っている。
すぐに広がるものではないが、放置すれば危険だ。
「また点検ですね」
俺が呟くと、隣でノインが頷いた。
「はい。毎日、いえ、しばらくは一刻ごとに確認した方がいいです」
「大変ですよ」
「やります」
ノインは真剣だった。
「僕は大聖灯だけを見て、下層を見ていませんでした。だから今度は、全部見ます」
「一人では無理です」
「分かっています」
彼は広場に集まる灯番や職人たちを見た。
「だから、灯路ごとに担当を戻します。橋灯は橋灯を知る人に。祈り灯は祈り灯の番人に。店灯は職人に。聖灯局が全部を上から管理するのではなく、記録を共有して支える形に」
「それがいいと思います」
ノインは少し恥ずかしそうに笑った。
「あなたの記録を、参考にします」
また、胸が熱くなる。
あの報告書。
細かすぎると笑われた記録。
それが今、王都の灯りを戻すための土台になる。
無駄ではなかった。
本当に、無駄ではなかったのだ。
その時、ポルカが外套の中で急に目を覚ました。
「ぽうっ」
「どうしました?」
ポルカは大聖灯ではなく、広場の端を見ている。
そこには、黒聖灯の破片を隔離した硝子箱が並んでいた。
その一つ。
ヴァルハインが落としていった黒蝋の欠片が、かすかに揺れている。
俺は近づいた。
硝子箱の中で、黒蝋がじわりと文字を作っている。
ミリアとセラも気づき、駆け寄ってきた。
「何これ」
ミリアが顔をしかめる。
黒蝋の文字は、ゆっくりと浮かび上がった。
『王都の灯りは戻った。
だが、夜は王都だけに降るものではない。
西方巡灯路、沈黙。
北方灯台、黒化。
次は、海沿いの灯をいただく』
セラの表情が険しくなる。
「海沿いの灯?」
ノインが息を呑む。
「北方灯台……王都から北西の海岸にある古い大灯台です。船と沿岸都市を守る灯りで、王都大聖灯とは別系統の巨大灯路です」
ミリアが低く言った。
「ヴァルハイン、そこへ逃げた?」
「おそらく」
俺は黒蝋の文字を見つめた。
黒聖灯は止めた。
グレゴールは拘束された。
でも、黒燭商会はまだ終わっていない。
王都の次は、海沿いの灯。
船を導く灯り。
帰る港を示す灯り。
それが黒く染まれば、海の夜にどれだけの人が迷うことになるのか。
大聖灯の金色の光が、静かに揺れた。
まるで、次の道を示すように。
俺はランタンを握った。
小さな灯りは、ひとつの村を照らした。
王都の下層を起こした。
そして今度は、海へ続く灯りを守らなければならない。
セラが俺を見る。
「行くのね」
「はい」
ミリアが工具袋を担ぎ直した。
「まあ、灯台なんて職人として見ないわけにいかないし」
ポルカが肩の上で眠そうに鳴いた。
「ぽう……」
「ポルカはまず寝てください」
「ぽう」
王都の空には、夕暮れの色が戻っていた。
黒くない夕暮れ。
その下で、大聖灯と無数の小さな灯りが静かにともっている。
追放は、まだ正式には取り消されていない。
王都の傷も癒えていない。
けれど、俺はもう知っている。
灯りは、消えかけても戻せる。
誰かが覚えていて、誰かが手を伸ばす限り。
次に向かうべき灯りは、海の向こうにあった。
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