第26話 下層灯路図の保管室
南下層橋灯三号がともると、水路沿いの空気が変わった。
黒聖灯の黒い昼は、まだ王都を覆っている。
空は明るいはずなのに薄暗く、城壁も屋根も、人々の顔も、どこか灰色に沈んでいる。
それでも、橋灯の下だけは違った。
濡れた石畳に金色の光が落ち、水路の水面に細い線が揺れる。
荷車を引く男が、思わず足元を見た。
洗濯籠を抱えた女が、目を瞬かせた。
小さな屋台の少年が、黒聖灯ではなく橋灯を見上げた。
「これだよ」
誰かが、ぽつりと言った。
「昔の橋の灯りだ」
その声に、胸の奥が静かに熱くなる。
王都で何度も直した灯り。
誰にも褒められなかった灯り。
でも、覚えている人はいた。
この橋を渡る人たちが、ちゃんと覚えていた。
ノインと名乗った若い下級職員は、俺に小さな鍵を渡したあと、周囲を何度も見回していた。
「急いだ方がいいです。オルド副監督官は必ず人を連れて戻ってきます」
「保管室は近いんですか?」
「はい。水路門の奥、旧排水路に沿って進んだ先です。今はほとんど使われていませんが、昔は下層灯路の点検通路でした」
「知っています」
俺が答えると、ノインは驚いた顔をした。
「行ったことが?」
「何度も。橋灯三号の湿気抜きは、裏側から見ないと直せませんから」
ノインは少しだけ目を見開き、それから小さく笑った。
「やっぱり、記録通りの人ですね」
「記録には、どんなふうに?」
「細かすぎる。余計な箇所まで点検する。重要度の低い灯具に時間をかけすぎる」
「……あまり良い評価ではありませんね」
「僕は、いい評価だと思いました」
ノインは真面目な顔で言った。
「誰も見ない灯りを、誰かが見ている。それが灯火師の仕事だと思ったので」
返す言葉が、すぐに出てこなかった。
王都にもいたのだ。
小さな灯りを見てくれる人が。
俺が追放されたあとも、記録の中からその仕事を拾ってくれた人が。
「ルカ」
セラが低く呼んだ。
「感動するのはあと。今は保管室」
「はい」
ミリアが橋灯の根元を確認し、反射板を少しだけ調整した。
「この橋灯、しばらく持つ?」
「持たせる」
俺は橋灯に細い光を足した。
黒い糸はまだ完全には消えていない。
黒聖灯から伸びる圧力が、水路沿いの灯りを押さえつけている。
だが、橋灯は耐えている。
南下層橋灯三号は、まだ自分の役目を忘れていなかった。
「行きましょう」
◇
水路門の奥は、王都の華やかな表通りとはまるで違っていた。
石壁は湿っている。
天井は低く、ところどころから水が滴っている。
黒聖灯の影響で、通路の灯りはほとんど消えていた。
壁に埋め込まれた小灯が、かすかに黒く煤けている。
俺は歩きながら、一つ一つに触れていった。
「【小さな灯】」
ぽっ。
消えかけていた小灯が、弱くともる。
「【小さな灯】」
また一つ。
水路沿いの暗がりに、小さな金色が戻る。
ミリアが後ろで呟いた。
「全部、覚えてるの?」
「だいたいは」
「だいたいでこの速度?」
「何度も来ましたから」
聖灯局にいた頃、この通路は嫌われていた。
臭い。
湿っている。
貴族街の灯具と違って、整備しても評価されない。
だから、よく俺に回ってきた。
外れスキルの雑用にちょうどいいと。
けれど今、その経験が道になっている。
どの壁灯が水気に弱いか。
どの石床の下に灯路が通っているか。
どの曲がり角に古い点検口があるか。
全部、体が覚えていた。
「ここを左です」
俺が言うと、ノインが驚いたように地図を確認した。
「はい。合っています」
「次に低い梁があるので、頭を下げてください」
セラが無言でかがむ。
ミリアは遅れて「わっ」と言いながら耳を押さえた。
「危なっ。獣耳ぶつけるところだった」
「言いました」
「耳の高さまでは言ってない」
「次から言います」
ポルカが俺の肩の上で、ぽう、と笑ったように鳴く。
緊張した空気の中でも、少しだけ息が抜けた。
だが、すぐにポルカの耳が立つ。
「ぽう……」
前方。
通路の奥に、黒い気配がある。
俺はランタンを低く掲げた。
床に黒い蝋が薄く塗られている。
水路の湿気に紛れて、見えにくい罠だ。
「黒蝋です」
ノインが息を呑む。
「保管室前にも仕掛けられているなんて……」
「黒聖灯の切替に反対する人が近づかないようにしているのかも」
ミリアは膝をつき、黒蝋を観察した。
「薄いけど広い。踏むと灯りを吸うタイプ」
「迂回は?」
セラが問う。
ノインが首を振る。
「この先が最短です。別ルートはありますが、聖灯局の詰所前を通ります」
「なら、ここを越える」
セラの判断は早かった。
俺はランタンを置き、結灯環を黒蝋に近づける。
村の灯りが、まだ細くつながっている。
そこへ、水路門で起こした橋灯三号の光も加わっていた。
「ミリア、黒蝋の端を」
「了解」
ミリアが細い銅線を床へ這わせる。
ポルカが尻尾の光で黒蝋の流れを浮かび上がらせる。
俺はその流れを見ながら、光を細く入れた。
燃やさない。
蒸発させない。
ただ、黒蝋が吸い込んでいた灯りをほどき、通れるだけの細い道を作る。
「【小さな灯】」
床に金色の線が引かれた。
黒蝋が左右へ退く。
人一人が通れる幅。
「今のうちに」
セラが先に渡る。
次にノイン。
ユーベル。
ミリア。
最後に俺。
渡り終える直前、黒蝋がざわりと動いた。
俺の足首へ絡みつこうとする。
ポルカが「ぽうっ!」と鳴き、尻尾の光で弾いた。
「助かりました」
「ぽう」
得意げだった。
◇
保管室の扉は、錆びた鉄製だった。
王都聖灯局の小さな紋章が刻まれている。
けれど、黒い煤がこびりつき、紋章の半分は見えなくなっていた。
ノインが渡してくれた鍵を差し込む。
回す。
重い音を立てて、扉が開いた。
中は、思ったより広かった。
壁一面の棚。
古い地図。
灯路図。
点検記録。
交換部品。
壊れた灯具。
そして、部屋の奥に、小さな作業灯が一つ。
消えかけている。
俺はその灯りを見て、足が止まった。
「この作業灯……」
「知っているの?」
セラが聞く。
「俺がよく使っていたものです」
保管室の奥で、深夜に記録を整理したことが何度もある。
誰も読みたがらない下層灯路の報告書。
湿気で傷んだ小灯の修理案。
古い橋灯の交換部品リスト。
それらを書いたのは、この作業灯の下だった。
俺は近づき、煤けた硝子を拭う。
小さな灯具は、まだ温もりを残しているように見えた。
「お久しぶりです」
思わずそう言うと、ミリアが後ろで笑った。
「やっぱり灯具に話しかけるタイプ」
「ミリアもでしょう」
「否定しない」
俺は作業灯へ手をかざした。
この灯りは、記録を読むための灯り。
誰かが残した仕事を、次の誰かへ渡すための灯り。
評価されなくても、忘れられても、紙の上に残った小さな証拠を照らす灯り。
「【小さな灯】」
作業灯がともった。
保管室の棚が、やわらかい光に包まれる。
すると、壁に掛けられていた古い灯路図が次々と淡く光り始めた。
下層水路灯路。
南通り商店灯路。
橋下祈り灯路。
荷運び宿裏灯路。
王都外縁巡灯路。
俺が知っている名前が、いくつも浮かび上がる。
胸が詰まった。
全部、残っていた。
大聖灯の影に隠れ、誰にも価値を見られなくなっても。
王都の小さな灯りたちの地図は、ここに残っていた。
ノインが震える声で言った。
「これです。下層灯路図。局長はこれを廃棄するつもりでした」
「廃棄?」
「旧式灯路を残していると、黒聖灯への統合が不完全になるから、と」
ミリアが顔をしかめる。
「統合じゃなくて、切断でしょ」
「はい」
ノインは頷いた。
「大聖灯を黒聖灯に変えたあと、旧式小灯が残っていると黒い芯が安定しないらしいんです。だから、結節点になっている橋灯や祈り灯、宿灯を順番に消す計画が」
「下層から?」
「下層からです。抵抗が少ないと判断されたので」
セラの目が冷たくなる。
「最低ね」
その時、保管室の奥から物音がした。
ごとん。
棚の向こう。
誰かがいる。
セラが短剣に手をかける。
「誰?」
沈黙。
それから、かすれた声が返ってきた。
「……灯りを、消さないでくれ」
俺たちは棚の奥へ向かった。
そこには、小さな鉄格子の部屋があった。
資材保管用の檻だ。
その中に、三人の大人が閉じ込められていた。
一人は痩せた男。
一人は片腕に包帯を巻いた女。
もう一人は、白髭の老人。
全員、灯具職人か灯番らしく、作業着に煤がついている。
ミリアが息を呑む。
「連れていかれた職人たち……」
老人が、俺のランタンを見た。
そして、目を見開いた。
「その灯り……お前、ルカか?」
「俺を知っているんですか」
「知っているとも。下層灯路の点検記録を残していた若い灯火師だろう。わしは祈り灯七番の灯番、エイダンだ」
祈り灯七番。
下層の小さな祠にある灯りだ。
何度も修理に行った。
そこにいた白髭の灯番。
覚えている。
「エイダンさん……」
「追放されたと聞いた。だが、戻ってきたのか」
「はい」
「よく戻った」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
責められると思っていた。
王都に戻った俺に、誰も居場所などないと思っていた。
でも、彼は「よく戻った」と言った。
ミリアが鉄格子の鍵を確認する。
「黒蝋で固められてる。普通の鍵じゃ無理」
「解きます」
俺は格子の前に膝をついた。
エイダンさんが慌てる。
「気をつけろ。無理に開けようとすると中の灯りを吸われる」
「分かっています」
中の三人のそばには、小さな灯りが一つ置かれていた。
ほとんど消えかけている。
それでも三人は、その灯りを守っていたのだろう。
俺はランタンの光を細く伸ばし、黒蝋の鍵へ落とした。
ミリアが工具で緩んだ部分を外す。
ポルカが白い光で黒い煙を押さえる。
かちり。
鍵が開いた。
鉄格子が軋みながら開く。
エイダンさんたちは、ゆっくり外へ出てきた。
片腕に包帯を巻いた女が、ミリアを見る。
「あなた、職人ね」
「月灯工房のミリア」
「王都南通りランプ屋、ティナよ。黒燭を店に置くのを拒んだら、ここに入れられた」
痩せた男が続く。
「橋下修理屋のバスクだ。黒燭で壊れた灯具を直そうとしただけで反灯者扱いだ」
ミリアは二人の手を見た。
煤と傷だらけの職人の手。
彼女の目が少し潤む。
「王都にも、いたんだ」
「何が?」
ティナが聞く。
「灯りを直したい人」
ティナは少し驚き、それから笑った。
「当たり前でしょう。灯具職人だもの」
その言葉で、ミリアの表情がほどけた。
彼女はずっと、辺境で一人だった。
直せない灯具の前で、自分だけが取り残されたように思っていた。
でも王都にも、同じように灯りを守ろうとした人たちがいた。
俺は保管室の中央へ戻り、下層灯路図を広げた。
「黒聖灯を止めるには、大聖灯へ直接行くだけでは足りません。王都の小さな灯りを起こす必要があります」
エイダンさんが頷く。
「そうだろうな。黒聖灯がともってから、祈り灯七番も橋下灯も、南通りの店灯も、順に食われていった。だが、完全には死んでいない」
「分かりますか」
「灯番だからな」
エイダンさんは胸を張った。
「灯りが死んだか、眠っているだけかくらい分かる」
ティナも灯路図を覗き込む。
「南通りの店灯は、黒燭の糸を切れば戻せる。うちの店の奥に予備の反射板がある」
バスクが水路図を指さす。
「橋下の修理場に、携帯小灯が二十個ある。黒聖灯のせいで眠っているが、起こせば配れる」
ノインが息を呑む。
「王都下層に、灯火網を作れる……?」
「作るんです」
俺は言った。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「大聖灯を一つの強い光で押し返すのではなく、下層から小さな灯りを起こしていく。橋灯、祈り灯、店灯、宿灯、屋台灯。全部を結んで、黒い芯を孤立させます」
ミリアが頷く。
「灯具はあたしたちが直す」
セラが続ける。
「人は私が動かす。下層の住民に声をかけるわ」
ユーベルが拳を握る。
「南通りの職人たちなら、わしが呼ぶ」
ノインが深く息を吸った。
「聖灯局内部で、まだ黒聖灯に疑問を持っている下級職員もいます。僕が連絡を取ります」
ポルカが「ぽう!」と鳴いた。
たぶん、自分もやると言っている。
エイダンさんは俺を見て、にやりと笑った。
「ルカ。お前、王都を追放されたんだったな」
「はい」
「なら、ちょうどいい」
「何がですか」
「王都の上の連中は、お前が戻ってくると思っていなかった。ましてや、下層の灯りから攻めるとは思っていない」
老人は祈り灯番らしく、皺だらけの手で小さな灯を掲げた。
「見せてやろう。大聖灯だけが王都の灯りではないと」
保管室の作業灯が、ふわりと強く光った。
下層灯路図の上に、金色の線が走る。
南下層橋灯三号から、水路沿いへ。
祈り灯七番へ。
南通りの店灯へ。
橋下修理場へ。
小さな灯りの道が、王都の黒い昼の下で浮かび上がっていく。
その時、遠くで黒聖灯の鐘が鳴った。
ごおん。
保管室の灯りが揺れる。
だが、今度は消えなかった。
むしろ、下層灯路図の金色が少しだけ強くなる。
黒聖灯がこちらに気づいた。
けれど、こちらも準備ができた。
俺はランタンを掲げた。
「始めましょう」
王都を照らす反撃は、誰にも見向きされなかった下層の保管室から始まった。
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