第27話 下層にともる反撃の灯

 王都を救う作戦は、壮大な号令から始まらなかった。


 聖堂の鐘でもない。


 王宮の命令でもない。


 下層水路の奥、湿った保管室で、一枚の古い灯路図を囲むところから始まった。


 地図の上には、金色の線が細く浮かんでいる。


 南下層橋灯三号。


 水路沿い小灯。


 祈り灯七番。


 南通り店灯。


 橋下修理場。


 荷運び宿裏灯。


 屋台通りの手灯列。


 どれも王都聖灯局の本庁では軽視されてきた灯りだ。


 大聖灯の前で語られることはない。


 式典にも呼ばれない。


 貴族街の光景にもならない。


 けれど、そこには人の暮らしがあった。


 働く人が通る道。


 子どもが帰る路地。


 夜明け前に火を入れる屋台。


 濡れた石段で転ばないための橋灯。


 そういう小さな灯りが、今も王都の下で眠っている。


「全部を一度に起こすのは無理です」


 俺は灯路図を見ながら言った。


「黒聖灯の黒い芯が中心にある以上、こちらが不用意に大きく光れば、すぐ押し潰されます」


「なら、順番に起こす」


 ミリアが工具袋を開いた。


「まず橋灯三号からつながる水路沿い。次に祈り灯七番。そこから南通り店灯と橋下修理場へ分ける」


 エイダンさんが頷く。


「祈り灯七番は下層の古い祠だ。人が集まりやすい。あそこが戻れば、黒聖灯を怖がっている者も動きやすくなる」


「南通りの店灯は、職人たちへの合図にできます」


 ティナさんが言った。


「店の灯りが戻れば、隠れているランプ屋や修理屋も気づくはずです」


 バスクさんは橋下修理場の位置を指で叩く。


「携帯小灯が二十個ある。起こせば配れる。逃げる人、知らせに走る人、黒燭から灯具を隔離する人に持たせられる」


 セラは全員の話を聞き、すぐに方針をまとめた。


「二手に分かれるわ。大人数で動くと目立つ。ルカ、ミリア、ポルカは灯りを起こす。私はユーベルさんと下層の人たちへ声をかける。ノインは聖灯局内部の協力者を探して」


 ノインは緊張した顔で頷いた。


「できます。ただ、時間はあまりありません。オルド副監督官が戻れば、水路一帯が封鎖されます」


「どれくらい?」


「早ければ半刻以内に」


「なら、半刻で最初の三つを起こす」


 セラは淡々と言った。


 無茶なようで、今はそれしかない。


 俺はランタンを握る。


 結灯環の中では、ノクスヴェイルの灯りと巡灯路の祠灯、そして橋灯三号の光が細くつながっていた。


 細い。


 けれど、切れていない。


「行きましょう」


 俺が言うと、ポルカが肩の上で鳴いた。


「ぽう!」


 反撃の始まりにしては、ずいぶん可愛らしい号令だった。


     ◇


 保管室を出ると、水路沿いの空気はさらに重くなっていた。


 黒聖灯の鐘が鳴ったあと、王都全体に黒い霧のようなものが広がっている。


 昼なのに、通路の奥が夜のように暗い。


 壁灯の硝子には黒い煤が浮かび、ところどころに赤黒い火の粒が見える。


 黒聖灯から伸びる糸だ。


 あれが旧式灯路を押さえつけている。


「ルカ、右の小灯」


 ミリアが指さす。


 水路沿いの壁に埋め込まれた小灯が、今にも消えそうに震えていた。


 俺はランタンを近づける。


 この小灯も、覚えている。


 水路の曲がり角。


 荷車がよく壁にぶつかる場所。


 暗いと危ないから、以前、芯の角度を少し変えた。


 報告書には「照射角微修正」とだけ書いた。


 誰も読まなかったかもしれない。


 でも、その光で助かった人はいたはずだ。


「【小さな灯】」


 金色の火が小灯へ入る。


 黒い煤が一瞬膨らむ。


 ポルカが尻尾を振って押さえ、ミリアが硝子の角度を調整する。


「よし、生きた!」


 小灯がともると、次の小灯がかすかに反応した。


 灯りは、灯りを呼ぶ。


 俺たちは水路沿いを進みながら、一つずつ小灯を起こしていった。


 派手ではない。


 黒聖灯の黒い光に比べれば、あまりに小さい。


 それでも、通路に色が戻っていく。


 濡れた石壁が灰色から石の色へ。


 水面が黒から薄い金色へ。


 人々の顔が、影から表情へ。


 壁際でうずくまっていた少年が、顔を上げた。


「灯り……」


 ミリアがすぐに声をかける。


「黒燭は持ってる?」


 少年はびくりとしながら、懐から短い黒い蝋燭を出した。


「これ、持ってないと怒られるって」


「火はつけた?」


「つけてない。母ちゃんが、なんか嫌な匂いがするって」


「お母さん、見る目あるね」


 ミリアは黒燭を直接触らず、隔離布で包んだ。


「これは預かる。代わりに、これ」


 彼女は保管室から持ってきた小さな反射札を渡した。


「橋灯の近くに行って。あそこは今、本当の灯りがともってる。困ってる人がいたら、橋灯の下へ連れていって」


「お姉ちゃんたちは?」


「灯りを増やしてる」


 少年は目を見開いた。


「黒聖灯じゃなくて?」


「黒聖灯じゃなくて」


 ミリアは笑った。


「君たちの足元の灯り」


 少年は反射札を握りしめ、走り出した。


 その背中を見て、ミリアが小さく息を吐く。


「王都の子も、ちゃんと分かるんだね」


「はい」


 子どもは怖いものに敏感だ。


 ニナもそうだった。


 黒燭を見た時、誰よりも早く「嫌だ」と言った。


 大人が理屈で納得しようとする前に、灯りの冷たさを感じ取っていた。


 王都でも同じだ。


 黒聖灯がどれほど立派な言葉で飾られても、本当の灯りを知っている人は違和感を覚えている。


 俺たちは、その違和感に火を戻せばいい。


     ◇


 祈り灯七番は、水路脇の石段を上がった先にあった。


 小さな祠。


 王都の片隅に押し込められたような場所。


 立派な聖堂ではない。


 屋根は低く、壁には古い雨染みがある。


 それでも、入口には花の跡が残っていた。


 誰かが最近まで通っていたのだ。


 エイダンさんは祠の前に立ち、深く息を吸った。


「ここだ」


 彼の声は震えていた。


「わしが四十年守ってきた灯りだ」


 祠の中央には、小さな吊り灯があった。


 だが、今は黒い糸に絡まれている。


 火はほとんど消え、芯の先だけが赤黒くくすぶっていた。


「黒燭を置かれたんですね」


「ああ」


 エイダンさんは唇を噛む。


「黒聖灯がともった日の夜、局の者が来た。これからは黒燭で祈れと。わしは断った。すると翌朝には、この有様だ」


 祠の床には、割れた花瓶があった。


 壁には黒い煤。


 祈りの場所を、黒燭はただの餌場に変えていた。


 ミリアは無言で工具を取り出した。


 俺は吊り灯の前に立つ。


 祈り灯七番。


 王都にいた頃、何度か修理した。


 この祠には、朝早く来る老婆がいた。


 水路で働く息子の無事を祈るために、毎日小さな花を置いていた。


 俺が灯りを直していると、よく飴をくれた。


 名前も知らない。


 けれど、その人の祈りをこの灯りは覚えているはずだ。


「エイダンさん」


「何だ」


「この灯りは、どんな灯りですか」


 エイダンさんは目を閉じた。


「帰らぬ者を待つ灯りだ」


 静かな声だった。


「水路仕事は危ない。荷運びも、夜番も、貧しい者の仕事はいつだって危ない。ここには、誰かの無事を祈る者が来る。帰ってこいと願う者が来る。だからこの灯りは、祈りを大きくするためではない」


 エイダンさんは吊り灯を見上げた。


「待つ者の心が、消えないようにする灯りだ」


 俺は頷いた。


 それなら、分かる。


 ニナの安眠灯とも、月送りの灯とも違う。


 けれど同じだ。


 誰かの心を夜に奪われないようにする灯り。


「【小さな灯】」


 ランタンの光を、祈り灯へ入れる。


 黒い糸が抵抗する。


 祈りそのものを食っていたのだろう。


 不安。


 諦め。


 もう帰ってこないのではないかという恐怖。


 黒燭は、そういう心の隙間に入り込む。


 だが、その奥にまだ小さな芯が残っていた。


 エイダンさんが長年守ってきた灯り。


 誰かを待つ人たちの灯り。


「ミリア」


「芯受け、黒くなってる。でもまだ使える。反射板を替えるよ」


 ミリアが素早く作業する。


 ポルカが白い月明かりで黒い煙を押さえる。


 エイダンさんが祠の床に膝をつき、震える手で古い火皿を支えた。


「戻ってこい」


 彼は灯りに向かって呟いた。


「ここで待っている者がいる」


 その言葉に応えるように、祈り灯がふわりとともった。


 小さな光だった。


 だが、祠の中が一気に温かくなる。


 壁の煤が薄れ、割れた花瓶のそばに落ちていた白い花弁が、色を取り戻した。


 外から、誰かのすすり泣く声が聞こえた。


 振り向くと、祠の入口に人が集まっていた。


 水路の女。


 荷運びの男。


 屋台の少年。


 そして、年老いた女性。


 彼女は祈り灯を見るなり、その場に膝をついた。


「ああ……戻った」


 エイダンさんが目を見開く。


「マーサ婆さん」


「エイダンさん、生きてたのかい」


「どうにかな」


 老婆は祈り灯の下へ進み、震える手で小さな花を置いた。


「息子が黒聖灯広場へ連れていかれた。祈ろうにも、ここが真っ黒になっててね。もう、待つこともできないのかと思った」


「待てる」


 エイダンさんは言った。


「この灯りが戻った。なら、待てる」


 老婆は泣きながら頷いた。


 その姿を見て、集まった人々の中に静かなざわめきが広がる。


「祈り灯が戻った」


「黒聖灯じゃない灯りだ」


「冷たくない」


「うちの店の灯りも、まだ戻せるのか?」


 声が増える。


 黒聖灯の黒い昼に沈んでいた人々が、少しずつ顔を上げる。


 セラがその場を逃さなかった。


 彼女は祠の前に立ち、よく通る声で言った。


「黒燭を持っている人は、火をつけないで。直接触り続けるのも危険です。黒燭は灯りを守るものではありません。古い灯りを食い、家の火種を弱らせます」


 ざわめきが広がる。


「やっぱり……」


「うちの子が泣いたのは」


「店の吊り灯が消えたのも」


 ユーベルが続いた。


「南通りの者は、店灯を確認しろ! 黒燭を置いた者は、まず火を消せ! このルカさんが灯りを戻せる!」


 急に名前を出され、少し驚いた。


 だが、下がるわけにはいかない。


 俺はランタンを掲げた。


「全部をすぐには直せません。でも、火種が残っていれば戻せます。黒燭を隠さず、近づけず、灯りを守ってください」


 誰かが叫んだ。


「うちの宿灯も見てくれ!」


「屋台灯が消えかけてる!」


「橋下の修理場へ行け! バスクさんの小灯がある!」


 人が動き始めた。


 逃げるためではない。


 自分たちの灯りを確かめるために。


 それは黒聖灯にとって、たぶん一番嫌な動きだった。


     ◇


 南通りの店灯を起こす頃には、下層の空気は明らかに変わっていた。


 黒聖灯の黒い昼は、まだ頭上にある。


 大聖灯の黒い芯は、遠く中心区で脈打っている。


 だが、下層では小さな灯りが点々と戻り始めていた。


 橋灯。


 水路小灯。


 祈り灯。


 靴直し屋の吊り灯。


 洗濯場の軒灯。


 屋台の手灯。


 一つ一つは弱い。


 でも、線で結ぶと違う。


 灯り同士が互いに支え合い、黒聖灯の圧力を分散する。


 ミリアは額に汗を浮かべながら、ティナさんと並んで店灯の反射板を調整していた。


「王都の灯具、細工が細かい!」


「辺境の灯具は力強いわね!」


「今それ言ってる場合じゃないけど、あとでめっちゃ話したい!」


「私もよ!」


 職人同士、もう少し落ち着いた場で会わせたかった。


 だが、二人の手は驚くほど合っていた。


 ティナさんが王都式の繊細な金具を調整し、ミリアが黒蝋に強い即席補強を入れる。


 古い灯具が次々に息を吹き返す。


 バスクさんは橋下修理場から携帯小灯を運び出していた。


 黒聖灯に押さえられて眠っていた二十個の小灯。


 俺が一つずつ火種を入れ、ポルカが月明かりで黒煤を払う。


「これを配って!」


 バスクさんが叫ぶ。


「黒燭を隔離する人、逃げ人を祠へ案内する人、広場に連れていかれた家族を探す人に持たせろ!」


 下層の人々が、小灯を受け取って走り出す。


 マリの母親を探しに行く者。


 黒聖灯広場から戻らない家族を確認する者。


 黒燭を家から外へ出す者。


 灯りは、人を動かす。


 ただ明るくするだけではない。


 人が自分の足で立ち、誰かのために動く力になる。


 その時、黒い鐘が鳴った。


 ごおん。


 先ほどより近い。


 空気が一気に冷える。


 戻り始めた灯りが、いくつも揺れた。


 下層の人々が一斉に黒聖灯の方角を見る。


 その目から、また色が抜けかける。


 まずい。


 黒聖灯が、下層の反応に気づいた。


 鐘の音で人々の心を引き戻そうとしている。


「みんな、黒聖灯を見るな!」


 セラが叫ぶ。


「足元の灯りを見て!」


 エイダンさんも祈り灯の前で声を張る。


「祈り灯を見ろ! 待つ者の灯りを見ろ!」


 ユーベルが靴直し屋の吊り灯を掲げる。


「自分の店の灯りを見ろ! 黒い昼を見るな!」


 俺はランタンを高く掲げた。


 結灯環が熱くなる。


 ノクスヴェイル。


 巡灯路の祠。


 橋灯三号。


 祈り灯七番。


 南通りの店灯。


 すべての小さな灯りが、俺の中で震えている。


 大きくするな。


 小さな灯りを、小さなまま結べ。


 月守狐の言葉。


 俺は目を閉じ、灯りの一つ一つを思い浮かべた。


 ニナの安眠灯。


 リオのランプ。


 ロッテさんの食堂灯。


 ガルム爺の手灯。


 祈り灯七番。


 マーサ婆さんの花。


 靴直し屋の吊り灯。


 屋台の手灯。


 南下層橋灯三号。


 それぞれの役目を、そのままに。


「【小さな灯】」


 金色の光が、大きな柱にはならず、細い糸となって下層を走った。


 店から店へ。


 橋から祠へ。


 水路から屋台へ。


 灯りの網が広がる。


 黒い鐘の音が、その網に引っかかった。


 ごおん、という音が鈍り、下層の人々の目に色が戻る。


 誰かが息を吸った。


 誰かが泣いた。


 誰かが自分の家の灯りを抱きしめた。


 黒聖灯の支配が、ほんのわずかに緩んだ。


 その瞬間、王都中心部から黒い光の柱が立ち上がった。


 黒聖灯だ。


 遠くても分かる。


 こちらを見ている。


 いや、こちらを睨んでいる。


 黒い光の中に、声が混ざった。


 王都全域へ響く、グレゴール・バルザックの声。


『王都民へ告ぐ』


 下層の空気が凍る。


『旧式灯具を不当に点火し、黒聖灯の祝福を妨害する反灯者が確認された』


 俺の背筋が冷たくなる。


『首謀者は、かつて大聖灯事故を引き起こし追放された元灯火師、ルカ・エルネスト』


 人々の視線が俺へ集まった。


 恐怖。


 驚き。


 疑い。


 その全部が一瞬で向けられる。


 グレゴールはそこを狙っていた。


『この者の灯りは危険である。小さな灯を装い、王都の灯火網を乱す呪灯である』


「違う!」


 ミリアが叫んだ。


 だが、黒聖灯の声は続く。


『今より半刻後、中央黒聖灯広場にて反灯者の公開裁きを行う。従わぬ者は、黒聖灯の守護を拒む者と見なす』


 黒い光がさらに強くなる。


『なお、旧式灯具職人および灯番の拘束者は、裁きの証人として広場へ移送する』


 ティナさんが青ざめる。


「まだ捕まっている職人がいる……!」


 ノインが震える声で言った。


「地下保管庫にいたのは一部だけです。ほかの人たちは、中央へ……」


 グレゴールの声が最後に響いた。


『ルカ・エルネスト。王都を混乱させた罪を認めるなら、黒聖灯広場へ来い。来なければ、下層の灯りをすべて反逆の灯として消す』


 黒い声が途切れた。


 下層に沈黙が落ちる。


 せっかく戻り始めた灯りが、恐怖で揺れている。


 俺はランタンを握った。


 これは罠だ。


 行けば捕まる。


 行かなければ、下層の灯りと人々が狙われる。


 グレゴールは、俺が小さな灯りを見捨てられないと知っている。


 いや、知っていたからこそ、俺を追放したのかもしれない。


 セラが隣に立った。


「行くのね」


「はい」


 ミリアも工具袋を担ぎ直す。


「もちろん、一人では行かせない」


 エイダンさんが祈り灯を見上げる。


「下層の灯りも連れていけ」


 ユーベルが頷く。


「橋灯も、店灯も、祈り灯も、全部だ」


 ノインが震えながらも言った。


「黒聖灯広場へ通じる旧灯路があります。大聖灯の整備用ですが、今は封鎖されています。でも保管室の図なら開けられるかもしれません」


 俺は下層灯路図を見た。


 金色の線は、確かに中央へ向かって伸びている。


 黒聖灯の足元へ。


 王都の中心へ。


 追放された場所へ。


 俺はランタンを掲げた。


「行きましょう」


 下層にともった小さな灯りたちが、静かに応えた。


 黒聖灯広場。


 そこで、王都の黒い昼と向き合う時が来た。

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