第25話 南下層橋灯三号
南下層橋灯三号。
王都聖灯局の記録では、ただの旧式橋灯だった。
巡回点検表の端に、小さく名前が載るだけの灯り。
式典にも使われない。
貴族街の報告書にも出ない。
大聖灯のように人々から見上げられることもない。
それでも俺は、この灯りを何度も直した。
水路から上がる湿気で芯が傷みやすく、春先には硝子が曇り、冬には金具が縮んで灯りが歪む。
面倒な灯具だった。
けれど、夜明け前に仕事へ向かう荷運びたちがこの橋を渡る。
洗濯場へ向かう女たちが、この灯りの下で足元を見る。
水路沿いの子どもたちが、暗い橋を怖がらずに帰れる。
だから俺は、王都にいた頃からこの橋灯を放っておけなかった。
その橋灯へ、オルド・ライゼンが黒燭を近づけている。
「旧式灯具は撤去。局長命令だ」
オルドは面倒そうに言った。
「こんな下層の灯り、黒聖灯があれば不要だろ」
隣の下級職員が、まだためらっている。
若い男だ。
俺が聖灯局にいた頃には見なかった顔だから、新人かもしれない。
「ですが、南下層橋灯三号は下層灯路の結節点で……これを消すと、水路沿いの小灯が連動して落ちる可能性が」
「だから何だ」
オルドが鼻で笑う。
「黒聖灯がある。古い灯りは消して、新式黒燭へ置換する。それが局長の方針だ」
「しかし、住民から苦情が」
「下層民の苦情など聞くな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の足が前へ出た。
セラが一瞬だけ俺を見る。
止めはしなかった。
ミリアも工具袋を握り直し、口元だけで笑う。
「行こう、灯火師」
「はい」
俺たちは水路門へ向かって歩き出した。
ユーベルは少し後ろで息を呑む。
「正面から行くのか」
「橋灯を消される前に止めます」
「王都聖灯局の連中だぞ」
「知っています」
知っている。
嫌というほど知っている。
あの制服も。
あの笑い方も。
誰にも見向きされない灯りを軽んじる目も。
俺は巡灯師の古い外套を羽織り直し、ランタンを掲げた。
「その黒燭を、橋灯から離してください」
俺の声に、オルドが振り返った。
最初は不快そうに眉を寄せる。
そして俺の顔を見た瞬間、その表情が驚きに変わり、すぐに嫌な笑みに歪んだ。
「……誰かと思えば、ルカじゃないか」
懐かしさなど欠片もない声だった。
「追放された無能灯火師が、何をしに戻ってきた?」
「その橋灯を守りに来ました」
「橋灯?」
オルドは大げさに笑った。
「ははっ! お前、追放されてもまだ下層の灯りにしがみついてるのか? さすがだな。大聖灯には触れなかった男は、橋のランプがお似合いだ」
周囲の見張りや下級職員がこちらを見る。
水路門のそばにいた下層の人々も、何事かと足を止めた。
黒聖灯の影響なのか、誰の顔にも色が薄い。
だが、俺のランタンの光を見ると、数人が目を瞬かせた。
「本当の灯り……?」
誰かが小さく呟いた。
オルドはその声を聞き、苛立ったように黒燭を掲げる。
「王都聖灯局の職務妨害だぞ、ルカ。お前に灯火資格はない。今すぐそのランタンを消せ」
「消しません」
「追放処分を忘れたのか?」
「忘れていません」
忘れられるはずがない。
王都中央広場。
大聖灯の前。
無能と呼ばれ、責任を押しつけられ、灯火師としての居場所を奪われた。
けれど今は、その記憶に足を止められなかった。
背後にはセラがいる。
ミリアがいる。
ポルカがいる。
ノクスヴェイルの灯りが、結灯環の中で静かに揺れている。
「俺は聖灯局を追放されました。でも、灯りを守ることまでやめた覚えはありません」
オルドの笑みが消えた。
「口答えするな」
彼は黒燭を橋灯へ押しつけようとした。
俺はランタンを掲げる。
「【小さな灯】」
金色の光が、黒燭と橋灯の間へ差し込んだ。
黒燭の赤黒い火が、じゅっと音を立てて弾かれる。
オルドが驚いて手を引いた。
「なっ……!」
その隙に、セラが前へ出る。
短剣は抜いていない。
だが、彼女の立ち位置は明らかにオルドと橋灯の間だった。
「この灯りを撤去するなら、正式な命令書を見せて」
「貴様、何者だ」
「ノクスヴェイル村長代理、セラ・ノクスヴェイル」
「辺境村の代理ごときが、王都聖灯局の業務に口を出すな」
「その辺境村で、黒燭商会の黒燭が井戸灯、宿の灯り、子どもの安眠灯を食った。その証拠も持っている」
オルドはわずかに眉を動かした。
知らない顔だった。
黒燭の実害を本当に知らないのか。
それとも、下層の被害など興味がないのか。
「黒燭は聖灯局長公認の新式灯具だ」
オルドは言った。
「辺境で何か問題があったなら、使い方が悪かったんだろう」
「その言い訳、黒燭商会のバルドと同じですね」
俺が言うと、オルドの顔が険しくなった。
「お前がバルド主任に何をしたかは聞いている。辺境で公認事業を妨害した反灯者。局長はお前を危険人物と見なしている」
「危険なのは黒燭です」
「黙れ」
オルドは黒燭を掲げた。
黒い火が大きくなる。
周囲の空気が冷え、水路門の石壁に黒い影が伸びた。
下層の人々が後ずさる。
その中で、ミリアが橋灯へ駆け寄った。
「ミリア!」
「大丈夫、今見る!」
彼女は橋灯の根元にしゃがみ込み、工具を取り出す。
黒い糸が橋灯の芯受けに絡んでいた。
黒聖灯から伸びているのだろう。
橋灯はまだ完全には死んでいないが、かなり弱っている。
「ルカ、芯受けが黒い! でも灯路は残ってる!」
「起こせますか」
「起こすに決まってるでしょ!」
ミリアは工具を走らせる。
王都の石橋の上で、辺境のランプ職人が旧式橋灯を修理している。
その光景がよほど異様だったのか、下級職員たちは戸惑った顔で立ち尽くしていた。
オルドが怒鳴る。
「やめさせろ! そいつらは無認可だ!」
見張りの一人が動きかけた。
その時、ポルカが俺の肩から飛び降りた。
「ぽう!」
白い尻尾の光が、橋灯の足元を照らす。
黒い糸が浮かび上がった。
それを見て、下級職員の若い男が息を呑む。
「本当に……黒糸が絡んでいる」
「だから言ったでしょう」
ミリアが顔も上げずに言う。
「黒燭は灯りを守らない。灯りを食う」
若い職員は、オルドと橋灯を交互に見た。
「オルド副監督官。これは、一度報告を」
「余計なことを言うな!」
オルドは若い職員を睨みつけた。
「局長命令だ。黒聖灯に逆らう旧式灯具は撤去する。それ以上でも以下でもない」
「でも、この橋灯が消えたら水路沿いが」
「下層など、黒聖灯の下に従わせればいい」
その言葉に、水路沿いにいた人々の顔が変わった。
洗濯籠を抱えた女。
荷車を引く男。
小さな靴屋の看板を持つ少年。
皆、黒聖灯のせいで疲れた顔をしていた。
だが今、そこに別の感情が浮かぶ。
怒りだ。
静かな、押し殺した怒り。
ユーベルが前へ出た。
「オルド様、とやら」
「何だ、老人」
「わしは南通りで靴直しをしていた。店の吊り灯を黒燭に食われた。あんたらは、それも旧式だから仕方ないと言うのか」
「時代遅れの灯具にこだわるからだ」
ユーベルの拳が震えた。
だが、彼は怒鳴らなかった。
その代わりに、俺の方を見た。
「ルカさん」
「はい」
「この橋灯を、もう一度ともしてくれ。わしらは、自分の足元を照らす灯りが欲しい」
その言葉で、胸の奥に火が入った。
俺は橋灯へ向き直る。
ミリアが芯受けの黒い煤を削り終えていた。
「今!」
「はい!」
俺はランタンを橋灯に近づけた。
この灯りは、下層の橋を渡る人のための灯り。
大通りの見栄えではなく、貴族の式典でもなく、ただ濡れた石段で足を滑らせないための灯り。
早朝に働く人の足元。
夜に帰る子どもの手元。
洗濯場へ向かう女たちの影。
靴直し職人が店へ戻る道。
俺が王都で何度も直した、小さな灯り。
「【小さな灯】」
金色の光が橋灯へ入った。
一瞬、黒い煤が抵抗するように膨らむ。
ポルカの月光がそれを押さえる。
ミリアが反射板を回す。
結灯環が温かくなり、ノクスヴェイルの灯りと巡灯路の祠灯が細く流れ込む。
そして。
南下層橋灯三号に、灯りが戻った。
小さな光だった。
黒聖灯に比べれば、笑ってしまうほど弱い。
けれど、その光が水路の上に落ちた瞬間、黒い影が少し退いた。
橋の石畳に色が戻る。
曇っていた水面に、金色の線が映る。
水路沿いの古い小灯が、一つ、また一つと反応して瞬いた。
「灯りが……」
「戻った」
「橋が見える」
下層の人々が、ぽつぽつと声を漏らす。
その声はやがて、ざわめきになった。
黒聖灯の黒い昼の下で、初めて本当の灯りを見たように。
人々の目に、少しずつ色が戻っていく。
オルドは呆然と橋灯を見ていた。
そして、次の瞬間、顔を真っ赤にして叫んだ。
「消せ!」
黒燭を振り上げる。
だが、その前に若い下級職員が手を伸ばした。
「お待ちください!」
「どけ!」
「この橋灯が下層灯路を起こしています! 消せば逆に混乱が」
「下級の分際で俺に指図するな!」
オルドは若い職員を突き飛ばした。
職員は石畳に倒れ込む。
その瞬間、水路沿いの人々から怒号が上がった。
「何をする!」
「その子は止めようとしただけだろ!」
「橋灯を消すな!」
空気が変わる。
オルドはようやく、自分が囲まれていることに気づいた。
下層の人々。
水運び。
荷運び。
職人。
洗濯女。
屋台の少年。
彼らは武器を持っていない。
だが、橋灯の光の下に立っていた。
黒聖灯の黒い昼ではなく、自分たちの足元を照らす小さな灯りの下に。
セラが静かに告げる。
「これ以上、橋灯に触れるなら、王都下層の住民の前で証言してもらうことになるわ。黒燭が灯りを食い、聖灯局がそれを隠していると」
「脅す気か」
「事実を言っているだけ」
オルドは歯ぎしりした。
だが、ここで強引に黒燭を使えば、下層の怒りを一気に買う。
彼はそこまで愚かではなかった。
いや、臆病なのだ。
「……覚えていろ、ルカ」
オルドは黒燭を握りしめた。
「局長に報告する。お前はもう一度、今度こそ完全に処分される」
「俺は逃げません」
「はっ。辺境で少し持ち上げられて勘違いしたか」
オルドは吐き捨てるように言うと、見張りたちを連れて水路門の奥へ下がっていった。
若い下級職員だけが、その場に残った。
彼は立ち上がり、迷うように俺を見た。
「あなたが、ルカ・エルネストさん……ですか」
「はい」
「僕はノイン。聖灯局下級補佐です」
ノインは橋灯を見上げた。
「あなたの記録、読みました」
「俺の記録?」
「下層灯路の点検記録です。古い保管棚に残っていました。南下層橋灯三号、水路橋五号、祈り灯七番、荷運び宿裏灯……細かすぎるって皆は笑っていました。でも僕は、あれが役に立つと思っていました」
俺は言葉に詰まった。
王都での俺の仕事を、見ていた人がいた。
追放されたあとでも。
記録を読んでくれた人がいた。
ノインは声を落とした。
「黒聖灯がともってから、下層灯路がおかしいんです。古い灯りから順に消えています。逆らった職人や灯番は、聖灯局の地下保管庫へ連れていかれました」
「地下保管庫……」
嫌な響きだった。
「グレゴール局長は、大聖灯の黒い芯を安定させるために、旧式灯路の結節点をすべて切るつもりです」
ミリアが拳を握る。
「だから橋灯を消そうとしたんだ」
「はい」
ノインは周囲を警戒しながら、俺へ小さな鍵を差し出した。
「下層灯路図の保管室の鍵です。僕一人ではどうにもできませんでした。でも、あなたなら……」
「ノインさん、あなたは大丈夫なんですか」
「分かりません」
彼は苦笑した。
「でも、さっきの橋灯を見てしまったので。もう黒聖灯だけを信じるふりはできません」
その目には、恐怖もある。
だが、それ以上に灯りがあった。
小さな、本当の灯りを見た人の目だった。
俺は鍵を受け取った。
「ありがとうございます」
「保管室は下層水路の奥です。そこに、連れていかれた職人たちの一部もいるかもしれません」
セラがすぐに判断する。
「まず保管室へ行きましょう。灯路図と協力者が必要よ」
「はい」
その時、橋灯がふわりと強く光った。
水路沿いに、細い金色の線が伸びていく。
王都下層の小さな灯りが、まだ完全には死んでいない証だった。
遠く、王都中心部の黒聖灯が、不気味に脈打つ。
まるで、こちらの灯りに気づいたように。
俺はランタンを握り直した。
王都で最初の灯りは戻った。
次は、下層灯路図。
そして、黒聖灯に奪われかけた小さな灯りを守る人々を探す番だ。
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